言の葉 つれづれ

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つれづれのつぶやき。

2015年03月30日 09時10分25秒 | 日記
お隣の桜が満開です。

でも、心なしか去年までの桜より、元気がなさそうです。

いままで、玄関の屋根の瓦に触れるくらいのところまで枝をのばしていて、手で触ることもできていましたが、今の選定は、配慮なのか?なんともいびつな剪定になっていて、桜の木も不本意みたいです。

枝物は、どんどん変化して、その時の人の選定にお任せになりますね。


自分の家の桜ではないので、思うようにはいきませんが、毛虫の塊りのところの枝切りとかは、丁度、植木屋さんの切るときに出会った時は何回かお願いしたことがありましたが、それ以外は何も申してはいないのですが。

キレイな花をみせていただいて、いろんなものを帳消しにしてくれるので、楽しみにしている桜です。






今の朗読の先生が、桜は本当に美しいのか.

の、本を次回読みたいと提案されていましたが、題名だけでも、なんとも想像のつかないというか、想像がつくというか、でも読んでみたい題名だわとおもいましたが、なか見検索で、ちょっとみて・・・・。


そして、何年前なのだろうか?

詩の授業での、吉野 弘  の ”樹”を、おもいだして、探して出して読んだり詠んだりしてみました。
    





                 人もまた、一本の樹ではなかろうか。
                 樹の自己主張が枝を張り出すように
                人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。

                身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
                枝と枝とが深く交差するからだ。
                それとは知らず、いらだって身をよじり
                 互いに傷つき折れたりもする。

                仕方のないことだ
                枝を張らない自我なんて、ない。
                しかも人は、生きるために歩き回る樹
                互いに刃をまじえぬ筈がない。

                枝の繁茂しすぎた山野の樹は
                風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
                密生した枝を払い落とす――と
                庭師の語るのを聞いたことがある。

                人は、どうなのだろう?
                 剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
                刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。






そして、メモ書きが、


願望、   願望のうちはきっと、かなえてくれる(誰?神様?)叶う。それが現実になる。

欲望、   更に、叶っても、もっと、もっとと、人のものまで欲しい。それは欲望。


なので、叶わないことは、欲望だったのかしらと思う。でも、数年たってから叶うこともあるのよね。とのお話しされていたのを思い出しました。