![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/f6/6e6ac4a3ca9e6f2e19fd1317e62419e8.jpg)
「国鉄最終日」のネタを。
(注:車両の写真は、民営化後に撮影したものです)
国鉄が民営化されてJRになってから、もう20年経つのか。
大人になって「働く者」としての目で見ると、色々JRにも問題があると思うが‥
政治的な話が絡んでくるので、とりあえず「それはさておき」。
さて先日のTB企画内で少し触れた話を。
高校の合格祝いで、親戚から「謝恩フリーきっぷ」を貰った。
(確かこのニュースを聞いたのが、高校受験勉強の真っ最中。「買えないなぁ」と思っていたが、ラッキーだった)
さて、3月31日。
「国鉄監修」交通公社時刻表87年3月号を見ながら、思い出してみる。
新幹線「ひかり350号」で名古屋へ。
そこから中央西線「しなの5号」で松本へ。
松本で弁当を買って、中央東線「あずさ20号」で新宿へ。
自分の記憶と時刻表を照らし合わせると「たぶん」この列車に乗ったと思う。
宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」ではないが、「あいまいな記憶をたしかなものにしてくれるので有難い」。
さて、赤い中央快速線で東京駅までやって来た。
そうだ。水道橋を通過中、「工事中の東京ドーム」を見た事を思い出した。
まだ屋根は膨らんでなかったはずだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b0/24b34aee4f1a121d6d5bc6f44db83abe.jpg)
この201系も、東日本では廃車対象になるらしい。どうしても「新型」というイメージが強いのだが‥
東京駅の構内で、ブラスバンドが「いい日旅立ち」とか「鉄道唱歌」とかを演奏していた。
かと思えば、あちこちで時刻表やら看板やらの掛け替えをやっている。
親に借りたカメラで、そう言う写真も何枚か撮った。
「インスタマチック」というフィルムを使った、今となっては(というか、たぶん昭和62年当時でも)かなりの珍品だった。
しかし‥全部フィルムを使い切らず現像に出せないうちに、カメラ自体が壊れてしまった。
途中でもいいから、現像に出せば良かった。随分貴重な「資料写真」になったはずだ。
さて、東京からは「ひかり29号」(たしか16時ちょうど発だったと記憶する。おそらくこの列車だろう)。
当時主力の「0系」新幹線。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/87/ee758b8f264bf91186fc415fc0f13b72.jpg)
その後名古屋で「100系」新幹線をみて、「おっ二階建ての新型や!」と喜んだものだ。
「0系」も、「100系」も東海道区間から撤退して久しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/75/2129ab1c7d2c302cb159f37ee257c764.jpg)
座席が一杯だったので、デッキに立つ。
豊橋を通過した当たりで、急にエアコンの音が消えた。
「どうしたんだろう」と思ったら、明らかにスピードが落ちてきた。
駅でもないところで停車。
車掌さんのアナウンスが。「只今停電により‥」
結局、架線事故でしばらくその場に停車。
小生意気に「国鉄は最後まで情けないな~」とぼやいていた。
当時の「国鉄叩き」のメディアの報道は、中学生から見ても酷かった。
新大阪に着いたのは19時10分過ぎ。
(「ひかり」=「東京~新大阪を3時間10分」というイメージが強かったので、「そんなに遅れてなかったな」と思った)
新大阪駅の乗り換え口の看板は、もう掛け替えてあった。
「JR」の文字の上に「国鉄」という紙を貼っていたが、随分「国鉄」の文字が小さかったのが印象に残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/cb/21029de2bceec1ff807dcf5a6c9cd494.jpg)
家へ帰り、夕食を食べる。確か父親はその日東京へ出張だった、と記憶する。
ちなみに冗談半分だろうが、「謝恩フリーきっぷを貸してくれ」と言われた。
実際貸すことは無かったが、もし本当に貸していたら出張旅費がかなり浮いただろう。
ちなみに当時の値段で、自由席が12,600円ナリ。デカいな。
夜9時を過ぎると、TV各局が特番を組んでいる。
何だか「行く年来る年」のようなノリだ。
雪の降る北海道(たぶん苗穂工場からだったのだろう)からの中継。
復元されて、煙を吐いている「C62 3号機」の前で、作業服の人達が肩を組みながら「蛍の光」を歌っている。
4月1日のカウントダウン。
汐留駅には、梅小路から出張のSLが(C56だったらしい)。
「23時59分59秒」の汽笛一声。
そしてもう一度、「0時0分1秒」に汽笛一声。
翌月の鉄道雑誌によると、「わざとそうした」そうだ。
(「国鉄さようなら」の汽笛→「こんにちはJR」の汽笛、だったらしい)
ただその時は「タイミングを間違えたのか?」と思った。
今から考えると、やっぱり「0時0分0秒」ジャストに鳴らしたほうが良かった、と思うのだが‥
今にして思えば、だが。
国鉄最終日に、心ならずも新幹線を止めてしまった関係者の人達。
雪の中で肩を組み、「蛍の光」を歌った作業服の人達。
いったい、どういう気持ちだったんだろう。
自分が働く立場になって、改めて考えてしまう。
あれから、もう20年経つ。
(注:車両の写真は、民営化後に撮影したものです)
国鉄が民営化されてJRになってから、もう20年経つのか。
大人になって「働く者」としての目で見ると、色々JRにも問題があると思うが‥
政治的な話が絡んでくるので、とりあえず「それはさておき」。
さて先日のTB企画内で少し触れた話を。
高校の合格祝いで、親戚から「謝恩フリーきっぷ」を貰った。
(確かこのニュースを聞いたのが、高校受験勉強の真っ最中。「買えないなぁ」と思っていたが、ラッキーだった)
さて、3月31日。
「国鉄監修」交通公社時刻表87年3月号を見ながら、思い出してみる。
新幹線「ひかり350号」で名古屋へ。
そこから中央西線「しなの5号」で松本へ。
松本で弁当を買って、中央東線「あずさ20号」で新宿へ。
自分の記憶と時刻表を照らし合わせると「たぶん」この列車に乗ったと思う。
宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」ではないが、「あいまいな記憶をたしかなものにしてくれるので有難い」。
さて、赤い中央快速線で東京駅までやって来た。
そうだ。水道橋を通過中、「工事中の東京ドーム」を見た事を思い出した。
まだ屋根は膨らんでなかったはずだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/b0/24b34aee4f1a121d6d5bc6f44db83abe.jpg)
この201系も、東日本では廃車対象になるらしい。どうしても「新型」というイメージが強いのだが‥
東京駅の構内で、ブラスバンドが「いい日旅立ち」とか「鉄道唱歌」とかを演奏していた。
かと思えば、あちこちで時刻表やら看板やらの掛け替えをやっている。
親に借りたカメラで、そう言う写真も何枚か撮った。
「インスタマチック」というフィルムを使った、今となっては(というか、たぶん昭和62年当時でも)かなりの珍品だった。
しかし‥全部フィルムを使い切らず現像に出せないうちに、カメラ自体が壊れてしまった。
途中でもいいから、現像に出せば良かった。随分貴重な「資料写真」になったはずだ。
さて、東京からは「ひかり29号」(たしか16時ちょうど発だったと記憶する。おそらくこの列車だろう)。
当時主力の「0系」新幹線。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0b/87/ee758b8f264bf91186fc415fc0f13b72.jpg)
その後名古屋で「100系」新幹線をみて、「おっ二階建ての新型や!」と喜んだものだ。
「0系」も、「100系」も東海道区間から撤退して久しい。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/75/2129ab1c7d2c302cb159f37ee257c764.jpg)
座席が一杯だったので、デッキに立つ。
豊橋を通過した当たりで、急にエアコンの音が消えた。
「どうしたんだろう」と思ったら、明らかにスピードが落ちてきた。
駅でもないところで停車。
車掌さんのアナウンスが。「只今停電により‥」
結局、架線事故でしばらくその場に停車。
小生意気に「国鉄は最後まで情けないな~」とぼやいていた。
当時の「国鉄叩き」のメディアの報道は、中学生から見ても酷かった。
新大阪に着いたのは19時10分過ぎ。
(「ひかり」=「東京~新大阪を3時間10分」というイメージが強かったので、「そんなに遅れてなかったな」と思った)
新大阪駅の乗り換え口の看板は、もう掛け替えてあった。
「JR」の文字の上に「国鉄」という紙を貼っていたが、随分「国鉄」の文字が小さかったのが印象に残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/cb/21029de2bceec1ff807dcf5a6c9cd494.jpg)
家へ帰り、夕食を食べる。確か父親はその日東京へ出張だった、と記憶する。
ちなみに冗談半分だろうが、「謝恩フリーきっぷを貸してくれ」と言われた。
実際貸すことは無かったが、もし本当に貸していたら出張旅費がかなり浮いただろう。
ちなみに当時の値段で、自由席が12,600円ナリ。デカいな。
夜9時を過ぎると、TV各局が特番を組んでいる。
何だか「行く年来る年」のようなノリだ。
雪の降る北海道(たぶん苗穂工場からだったのだろう)からの中継。
復元されて、煙を吐いている「C62 3号機」の前で、作業服の人達が肩を組みながら「蛍の光」を歌っている。
4月1日のカウントダウン。
汐留駅には、梅小路から出張のSLが(C56だったらしい)。
「23時59分59秒」の汽笛一声。
そしてもう一度、「0時0分1秒」に汽笛一声。
翌月の鉄道雑誌によると、「わざとそうした」そうだ。
(「国鉄さようなら」の汽笛→「こんにちはJR」の汽笛、だったらしい)
ただその時は「タイミングを間違えたのか?」と思った。
今から考えると、やっぱり「0時0分0秒」ジャストに鳴らしたほうが良かった、と思うのだが‥
今にして思えば、だが。
国鉄最終日に、心ならずも新幹線を止めてしまった関係者の人達。
雪の中で肩を組み、「蛍の光」を歌った作業服の人達。
いったい、どういう気持ちだったんだろう。
自分が働く立場になって、改めて考えてしまう。
あれから、もう20年経つ。