駒澤大学「情報言語学研究室」

川端康成『雪「氣」と「気」字考察国抄』所載の

川端康成『雪国抄』所載の「氣」と「気」字考察

川端康成遺稿雪國抄一文

スイジョウキ【水蒸氣】

外は夕闇がおりてゐるし、汽車の中は明りがついてゐる。それで窓ガラスが鏡になる。けれども、スチイムの温(ぬく)みでガラスがすつかり水蒸氣に濡れてゐるから、指で拭くまでその鏡はなかつたのだつた。

「雪の冷氣」「素氣なく」「氣がつくと」など。

○あんなことがあつたのに、手紙も出さず、會ひにも來ず、踊の型の本など送るといふ約束も果さず、女からすれば忘れられたとしか思へないだらうから、先づ島村の方から詫ひかいひわけを言はねばならない順序だつたが、顔を見ないで歩いてゐるうちにも、彼女は彼を責めるどころか、體いつぱいになつかしさを感じてゐることが知れるので、彼は尚更、どんなことを言つたにしても、その言葉は自分の方が不眞面目だといふ響きしか持たぬだらうと思つて、なにか彼女に気押される甘い喜びにつつまれてゐたが、階段の下まで來ると、「こいつが一番よく君を覺えてゐたよ。」と、人差指だけ伸した㔫手の握り拳を、いきなり女の前に突きつけた。

「気がついて」「気軽に」「気の毒」「下がり気味の眉」「味気なく白ける」「気が抜けた」「寒気」「冷気」など。

「気」と「氣」という漢字の違いはなかの部分が「〆」か「米」かの違いということになります。

  【氣】米八方広がりという意味

  【気】〆閉じ込めるという意味

 同じ「き」という漢字でも、八方広がりと閉じ込めるでは一八〇度、意味が違ってきます。

 現代では一般的に「気」を使われていますが、「氣」ではなくて「気」が使われるようになったのは、単純に画数を減らしたかったわけではありません。それぞれの漢字に重要な意味が込められているのです。

 そもそも「気」という漢字が使われるようになったそのキッカケは戦後になってからです。戦前までは「氣」という漢字が使われていましたが、日本が戦争に負けてアメリカの占領下に置かれるときに、GHQによって様々な統治が行われました。

 そのうちの一つが「氣」→「気」という漢字に、いつの間にか変更をされていたのです。

ここでいう「米」は、食べるお米という意味ではなく八方広がりという意味で、エネルギーが八方に広がっている様子を表現しています。

そしてこの「米」のように八方に広がっている様子が、「トーラス構造」であり、「氣」という漢字はトーラスの形にエネルギーを発散している様子の漢字なのです。

一方で「気」は「〆る」という漢字が使われていますが、エネルギーを外に出さないように閉じ込めるという意味で使われています。

※トーラス構造とは、「ドーナツ型」をしている物体のことを言います。地球自体も大きな磁石になっているので、私たちは目にすることはできませんがトーラス構造の磁場が存在します。大気の流れ、海流、台風の構造など、自然物はトーラス構造になっています。

 GHQにとっては日本人のエネルギーを閉じ込めるたほうが統治するのに都合が良いため、文字まで徹底して改良を行ったのです。

 それは、日本には昔から「言霊」と言われるように、言葉や文字自体にエネルギーが宿っていると言われていました。そこで、日本人のエネルギーを高めるような言葉や文字は効果を無くすようにアメリカサイドも工夫をしていたのです。

 そのくらい、アメリカは日本の文化をはじめとして色々なことを研究していたのです。

 そして日本人は昔から氣(=エネルギー)はトーラスのように八方に広がるということを知っていたため、氣という漢字に「米」を使っていたのですね。

 上記の報告書は、吾人の講義演習を受講していた一学生がまとめたものです。ここで、川端康成が「氣」と「気」字を両用して『雪国抄』を書いていることです。川端は、この文字を精確に意識して用いているのかを問わねばなりません。以下続けます。

 本文五行目「雪の冷氣が流れこんだ。」とあるが、これは細かく辺りに漂っている水蒸気が勢いよく流れ込んできた様をよく表しているといえる。他には一三九行目の「今さつき手に觸れてこんな冷たい髪は初めてたとびつくりしたのもは、寒気のせゐではなく、かういふ髪そのもののせゐであつたかと思へて、島村が眺め直してゐると、女は火燵板の上で指を折りはじめた。」という記述は寒気というものが辺りに広がるものではなく、自分の身が寒さで縮みあがる様子をよく表していると考えられる。康成は漢字の統制の意図やそれぞれの漢字の意味などもくみ取って本文を執筆したのではないかと考えた。

 だが、本文一四六行目に「冷気が部屋へいちどきに流れ込んだ。」と五行目と意味的にはほぼ同一の文なのにもかかわらず常用漢字のほうが使われているのが不思議である。それぞれの文の前後の文脈において使われ方に違いがあるのか、今後深く考察する必要があると感じた。

と結んだ。

 考察はこの一作品に止まらず、日本人の作家が文字活用の際、どのような文字遣いをもって記述していたかを探る手がかりとなればと思う。今後の考察に繋げればと茲に転載することにした。萩原義雄識

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