ゆううつ気まぐれふさぎ猫

某ミステリ新人賞で最終選考に残った作品(華奢の夏)を公開しています。

「神野悪五郎只今退散仕る」高原英理

2010-03-25 12:01:35 | 
それが全く作法に適っていない行為だということは靖子も充分に承知していた。昨夜も学校から配布された礼法書を読み返し、嫌になるくらいおさらいして頭に叩き込んでおいたはずだったのに。

「人の家を訪問した時は、萬事しとやかに振舞ひ、親しい友人の家といへども、がさつな行ひがあってはならぬ」

親しいどころかここは初めて訪れる級友の家。靖子などにはこれまで目もくれない声を掛けてもくれなかったお嬢さま、麻耶子さまのお屋敷なのだ。
だけど好奇心には勝てない。
御不浄を借りに廊下に出た際、小部屋へと足早に駆け込むときには目に留まらなかった廊下の向こうの扉の存在が用を済ませて安堵した帰り際なにげなく見上げた視線の先にあってどうにも気になる。たしか最前には閉まっていたはず、と思い起こす。それが今はわずかではあるが開かれ、部屋の明かりが廊下に洩れているのだ。
靖子は、履き慣れないスリッパの音に神経を配りながら扉に近づいていった。頭をつっこんで覗き見るだけの幅はあった。だから何気なしに上体だけをひょいと傾けた。
「ひゃあ」という間抜けな音は、靖子の口から転がり出たものだった。部屋の住人はさほど驚いた素振りも示さず面を上げ、扉のほうに視線を向けただけだった。
一人がけの椅子に両肘を預けてゆったりと脚を組み、膝の上に本をのせた若い男がそこにいた。
あわてて靖子は頭を引っ込めた。
けれど須臾ではあったが、靖子は男の印象と部屋の雰囲気をしっかりと捉えていた。男は麻耶子の親族ではないかと推測された。ほっそりとして青白いばかりに肌が透き通り髪は黒くてたっぷりしている。そんな彼女の印象からそう遠くないものを感じ取った。部屋の方は、仰山な本が棚に詰め込まれ、その重みでぎしぎしと音がしそうだったということ。読書好きの靖子は羨ましさにうっかりもう一度声を上げそうになったくらいだ。

「茶菓を出されたならば、客ぶりよく菓子を食べ、茶を飲む。軟らかい菓子は楊枝で押へて切って、食べよい位の大きさにし、それを刺して口へ運ぶ。干菓子は指で撮み取り、両手で適宜に割り、左手のは敷紙に置き、右手のを口に運んで食べる。割り残したものは、他の菓子の上には載せぬがよい。こぼれ易いものは、盆を膝に上げてもよいし、又、懐紙に一つ取つてもよい」

麻耶子たちのいる部屋に戻ると、招待された級友たちの眼差しがいっせいに自分に注がれるのをはっきりと感じて思わず靖子は目を伏せた。面を上げるタイミングを計ったように麻耶子がにっこりと微笑んでくれた。「客ぶりよく」ビスケットを七枚も平らげた靖子の皿には、彼女が席をはずしていた間に新たな菓子が並べられていた。紅茶茶碗からも湯気が立ちのぼっている。制服の襞がよれないように慎重に椅子に腰を下ろす。皿に目を落として、右から三番目の四角くて茶色のものが美味しかったよなあ、これから先に食べたいけれど「作法書」には右上のものから取って食べるようにって書かれていたしなあ、どうしよう、と逡巡していた靖子は「ねえ」という麻耶子のやわらかな呼びかけの声で指先の動きを止めた。
「どうして髪、そん風になさったの」
靖子は菓子を口にするのを諦め、数日前の朝の騒動を級友たちのまえで語る羽目になった。
靖子の髪はどうやら上向きに生えている箇所があるらしく、耳のうしろでお下げを作っても素直に垂れることはせずいったん半円を描いてから肩に乗る。それがどうにも癪に障る。水で湿らせて重みをつけてしばらくおとなしく真っ直ぐになっていても乾くと余計に弓なりに反ってしまう。その日の朝も自分の髪と格闘していた靖子は勢いでつい「お父さんが悪いんだ」と同じような上向き髪の父を罵った。
「そんなら、切ってしまえ」と、父が言い捨てる。
そうなると靖子も引っ込みがつかない。スカートの裾をばさばさ鳴らして洗面台のまえを立ち去ると、裁縫道具の中から裁ちバサミを取り出し、ぞっくりと両のお下げを切り取ってしまったのだ。
ああ、またやってしまった、と臍を噛んだがもう遅い。
「やっちゃん、先を整えるだけでも」と呼び止める母の声を振り切って、靖子はそのなりで学校へと向かった。
その日の教室では誰も靖子の髪のことを問うたりはしなかった。むっつり押し黙った彼女に声を掛けるのが憚られたからかもしれない。
家に帰ると、母が左右の長さを整えてくれた。
「あんたは本当に」懸命に笑いをこらえている様子の母の手元が気になってしょうがない。「癇癪なところ、わたしにそっくり」と母は器用にハサミを動かしていく。
そんな話でも麻耶子は面白そうに聞いていてくれた。取り巻きの少女たちも麻耶子に合わせて相槌をうつ。
「それじゃあ、これ」と麻耶子は椅子から立ち上がった。戸棚の扉を開けて布張りの箱を手にして戻って来る。臙脂色をした蓋には光る石が花の形に飾り付けられている、そんな綺麗な箱から取り出されたのは冴えた若竹色の細いリボンだった。
背後に立って靖子の頭にリボンを巻いて、蝶結びにした部分をするりと回して右上のあたりにくるように調整する。まぬけ面で口を開けたまま麻耶子の作業を見守っていた少女たちは、最後の仕上げの手際に「ほう」とため息を洩らした。靖子のまえに鏡が差し出される。
「似合っててよ」
くすぐったい。重さなどあって無きが如しのサテンの布地が体全体の神経を支配しているのを意識する。これじゃあ身動き取れないじゃないか、靖子はせっかくの菓子にもいい匂いの紅茶にも手がつけられず、それからの時間をうつむき加減で過ごさねばならなくなった。

「包み方は、敷紙の両端を持つて、銘々盆より取りおろし、敷紙の下になつてゐる部を手前に引出して上にかぶせかけ、菓子の盛りやうの成るべく崩れぬやうに、向うの隅二枚を折り返し、左右を下に折り込み、軽く戴いて、左の袂に入れるか袱紗があれば、それに包んで持ち帰る」

ノートを一枚犠牲にして練習した甲斐もあって、靖子は「作法書」の指示どおりにビスケットを無事包みおえた。妹や弟たちへの土産にもなるし、母にも食べてもらいたかった。袱紗の用意はしていなかったので、そのまま胸に抱えてしんがりで玄関を出た。
広い庭の隅の、ひときわ暗くなったところに先ほどの男が蹲っていた。なにやら見入っている様子である。
「お兄さま」と麻耶子が声を掛ける。
振り返って、こっくりと頷き返す。けれど立とうとはしない。
「おもしろいものでもあって」
近寄って、腰を屈めて覗き込む妹に返事のかわりに彼は黒い塊を差し出した。
「きゃっ」思いがけない事態に麻耶子が声を上げ、後ずさる。
猫だった。黒くて小さい。そいつは靖子の足元に擦り寄ってきた。
「猫は、嫌い?」そう訊いてきたのは、麻耶子の兄だった。
靖子は咄嗟のことに首を振るしかなかった。その仕草は、肯定なのか否定なのか自分でも判別できない。足元の猫がそのままうずくまる。頭に巻かれたリボン同様、それも靖子の動きを妨げた。くすくすと、そっくり同じ表情で麻耶子とその兄が笑っている。


*友人の家に招かれた際の作法は、奈良女子高等師範学校内佐保會編「新 作法書」(昭和八年出版)を参照にしました。


矢継ぎ早に繰り出される妖怪の描写に、ぐりぐりと頭のつぼを押されているような心地よさ。しばし陶然となる。
物語を堪能。高原氏の文章のリズムと、「新 作法書」に挿入された古い写真の少女たちの姿に触発されて上記のような場面が襲来。とりあえず吐き出してみた。

スピリチュアル系の物や人に対する居心地の悪さというか飲み込めなさの正体がぼんやりと見えてきた気がする。

「紫都子にはわかるのだ。たとえ願い事がかなうかに見えても、それはあの女妖の食欲を満たすための一段階にほかならず、それに味をしめて願い続ける者は早晩、意志と意識の大切なところをすべて食い荒らされてゆくことを。(中略)
 いくら当面の願いをかなえてくれるとしても、この卑しい穢い舌なめずりの様子を知っていては、到底これにすがることなどできはしない。妖怪が見えるようになった紫都子には、そのあからさまに神らしくないところが、もうげんなりだった」

「げんなり」そう、そんな脱力感をともなった居心地の悪さ。そしてもうひと言付け加えるならば、「さもしい」。
わが事のみに腐心するそのさもしさ、私にも覚えがあるぞ。いつかの日記、消してしまったのはそれが理由だった。

抜群の意志の力の持ち主、姉の紫都子より、弱さもわかる妹の妙子に惹かれるかな。

「おねえちゃんは、駄目な人のことがわかってないよ。いつも運が悪い人は俯いてるよ。おねえちゃんみたいに駄目なら諦めろって言われても、できない人がいるよ」



夏のまぶしい光を片頬に受けて、もう一度読み返してみようと心に決めた。


2 コメント

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hitorigoto (nyamboo7)
2010-04-12 11:07:37
久しぶりに文章に引き込まれました。
もっとあなたの文章を読みたいです。

ちなみに私は雨の中土曜日から仁淀川町の奥にキャンプに行き、昨日の朝雨がひどくならないうちに早々に引き揚げてきました。今日は何もする気になれません、、、、。
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もしかして…… (葉月)
2010-04-12 16:12:06
感想、ありがとうございます。

もしかして、私の知っている方ですか?
(内容から察して)

こちらは今日も朝から雨です。
霧に覆われています。


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