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本質-現象のカテゴリーに潜む、深い弁証法を洞察することは、「本質は現象しなければならない」、「本質は現象する(erscheinen)(『大論理学』)という命題を展開することであった。
もともと本質-現象は反省-被措定有という一対のカテゴリーから生じている(反省概念が本質論の基本論理であった)。
この点からすると、直接的な所与としての事物を被措定有(措定されたもの)と捉え返すところの本質のダイナミズムがあり、本質が産出した被措定有こそ「現象」である。
こうして、「本質は現象する」は「本質は現象を反省運動のなかで措定する」と読み代えられる。
だが、現象は、反省の運動で生じた《仮象(映現Schein)》よりも具体的なものである。仮象はふつう「外観」、「見せかけ」、「幻影」などの否定的意味をもつ。それは人の目を惑わすものである。ヘーゲル自身も仮象を「非自立性」、「本質を欠いた存在」であるという。
だが、よく考えると、この仮象もなんらかの意味で本質の現われである。こうして、仮象を本質の現われとみなすとき、現象とはたんなる「見せかけ」ではなく、「実在的な映現」である現象は、そこに本質が現われる不可欠の現場である。
引用文献
『ヘーゲル用語辞典』
未来社 1991年
本質-現象のカテゴリーに潜む、深い弁証法を洞察することは、「本質は現象しなければならない」、「本質は現象する(erscheinen)(『大論理学』)という命題を展開することであった。
もともと本質-現象は反省-被措定有という一対のカテゴリーから生じている(反省概念が本質論の基本論理であった)。
この点からすると、直接的な所与としての事物を被措定有(措定されたもの)と捉え返すところの本質のダイナミズムがあり、本質が産出した被措定有こそ「現象」である。
こうして、「本質は現象する」は「本質は現象を反省運動のなかで措定する」と読み代えられる。
だが、現象は、反省の運動で生じた《仮象(映現Schein)》よりも具体的なものである。仮象はふつう「外観」、「見せかけ」、「幻影」などの否定的意味をもつ。それは人の目を惑わすものである。ヘーゲル自身も仮象を「非自立性」、「本質を欠いた存在」であるという。
だが、よく考えると、この仮象もなんらかの意味で本質の現われである。こうして、仮象を本質の現われとみなすとき、現象とはたんなる「見せかけ」ではなく、「実在的な映現」である現象は、そこに本質が現われる不可欠の現場である。
引用文献
『ヘーゲル用語辞典』
未来社 1991年