goo blog サービス終了のお知らせ 

ヘーゲル・マルクスからはじめる

経済学と哲学の学習

価値法則と剰余価値法則

2010-03-30 06:16:11 | 日記
P15~19

二 搾取を否定する理論――剰余価値の原因=「人間の力」論

 宇野弘蔵氏が、資本主義の発生、発展、消滅の合法側性を否定するのは、以上のように一般的なそのブルジョア的な方法からくるのであるが、しかしこれはまた、特殊的にはその資本主義にたいする一定の見方から必然的にくることでもある。

 すなわち宇野氏によれば、資本主義とは、氏の言いまわしにしたがえば、「商品形態」が生産をつかんだ制度、つまり生産物が全面的に商品形態をとる制度のことであり、それはもっぱら商品経済制度であるという点で他の制度と区別される。

また労働力が商品化することが資本主義の基本的特色だとみられているのも、よく知られたことであるが、この場合も、賃労働者が資本主義的生産過程において資本家のために剰余価値を生産することではなく、資本主義社会の流通面において、労働力が商品として売買されることが氏にとってもっぱら問題なのであって、やはりどこまでも商品の売買される制度ということが、資本主義の根本特色とみられるのである。

 そこで資本主義の運動法則とは、氏にとっては単純商品生産の法則である価値法則のことであって、価値法則の支配ということが、それを他の制度と区別するのである。

 この点から、マルクスが資本主義の絶対法則だとした剰余価値の法則は、氏によってはっきりと否定される。

 「労働力を商品としてその価値によって買入れて、使用価値として実現すれば(資本家が賃労働者をつかって商品を生産させること――見田)、必ず剰余価値がえられるというにしても、それは価値法則によってそうなるので別に『剰余価値の法則』があるわけではない。」

 つまり剰余価値の生産は価値法則によって完全に説明されるから、価値法則さえあればそのようなものはなくてもよい、というのがその考え方である。

 同じように、マルクス、エンゲルスによって定式化された資本主義の根本矛盾、生産の社会的性格と所有の私的、資本家的形態との矛盾も、ありえないものだとして否定され、これに代わってさきにみたような意味での、労働力が商品となることそれ自身が資本主義の根本矛盾である、とされる。

 ブルジョア経済学は、資本主義の表面の事実すなわち流通面の事実にとらわれて――そこでは資本家も賃労働者も一律に自由な商品所持者として相対し、たがいに平等な権利をもち、それぞれの商品を等価交換するという一面だけ現われて、それが一つの搾取制度であることがすっかりおおいかくされている――資本主義制度を自由平等な市民の関係しあう社会制度とみ、よくてせいぜいそこに価値法則の作用しかみないのであり、そしてこれがまた日本の多くの修正主義者に共通する資本主義の見方であるが、宇野氏はまったくこれと同じ見地に立っているのである。

 ではいったい等価交換の法則が支配するこの制度のもとで、どうして剰余価値がうまれ、資本そのものが可能となるのだろうか。剰余価値の源泉はいったい何であろうか。宇野氏はそれをどう説明するのだろうか。この問題にたいして、氏は自信にみちて答える。

 「労働力商品の使用価値は労働として新しく価値を形成する。・・・しかも自分の商品としての価値以上の価値がその使用価値で生産される。それは人間の力だからです。人間は一日働けば一日の生活資料以上のものを生産し、しかも生活資料以外の種々のものを生産することができる」と。

 かつてブルジョア経済学者、J・S・ミルは、「利潤が生まれる原因は、労働が、それの維持に必要とされるところのもの以上のものを、生産する、ということである」と言ったが、それから百年経ったこんにち、それがそっくり口真似されているのである。労働者が資本家のために、資本家の監視のもとに、不払いの剰余労働をおこなうこと、そうでないかぎり自分の生存のために必要な労働をおこなうことが許されないこと、こうしたことが、根っからブルジョア的観念のとりこになっている宇野氏の眼には、永遠の「人間の力」によって生ずるものと映るのである。

 マルクスはJ・S・ミルのこの考え方について、人間はたとえ自分のためにしろ剰余労働をおこなうためには、そこになんらかの強制が加わることが必要であるが、他人のために剰余労働をおこなうためにはなおさらそこに社会的な強制が必要である以上、剰余価値はけっして神秘的な人間の力によっては説明できない、といい、自分が生存するための必要労働をおこなう許しを、ただ他人のために剰余労働をおこなうことによってのみ得ることができるブルジョア社会のただ中にあっては、「剰余生産物を提供するということは人間労働の生まれつきの性質であるかのように思われやすいのである」とのべているが、それはそっくり宇野氏の考え方にたいして当てはまる。

資本主義社会のうちに自然成長的にうまれるブルジョア意識に支配されている氏には、ブルジョア階級の手による生産手段の独占、つまり、プロレアリア階級が眼にはみえない糸によって、飢えの強制法則によってブルジョア階級に隷属させられていること、これが剰余価値の原因であることが、すこしもその眼にはみえないのである。

これによって、氏が剰余価値を説明するのに、価値法則以外のものを必要としないと主張される理由もわかるであろう。

 だから資本主義の運動法則は、永久にくりかえすものとして叙述するほかない、と言われる場合も、この運動法則というのは、宇野氏にとっては、実はたんなる価値法則のことが考えられているのであり、原理から原理そのものを否定するものをみちびき出すことはできない、と言われるのも、じつは氏にとっては、「価値法則を否定するものを価値法則自身から展開するわけにはゆかない」ということになるのである。

 そうだとすれば、それは氏の言うとおりである。というのも、資本主義生産の一側面を規定する価値法則は、一社会の総労働はその社会の総欲望に照応して各生産部門に均衡的に配分されねばならぬという社会的生産の永遠の自然法則の、商品社会における現象形態を言いあらわしたものであり、また需要供給によってたえず変動する市場価格の引力の中心、その均衡点をいったものにすぎないのであって、この均衡法則は、それだけを現実の資本主義の法則から切りはなしてみれば、ただ永久に同じ運動をくりかえすものとなるからである。

 その本性のうちに自分自身の否定をふくむということ、そうした矛盾物であるのは、現実の生きた全体すなわち、たんなる商品生産であるだけでなく剰余価値生産である資本主義的生産様式だけである。

資本家と労働者との関係をも、たんに生活手段商品の所持者と労働力商品の所持者との自由、平等の売買関係とみ、剰余価値生産としての資本の本質、階級関係としての資本の本質にすこしもふれることのないたんなる価値法則は、けっして自分自身の否定をふくむものではないのである。

 宇野説は、以上のように、一般的に言ってブルジョア的に均衡だけを法則的なものとみ、特殊的には資本主義的生産のうちにたんに肯定的に自分自身の存立条件をうみだしてゆくという側面、一定の均衡、調和を維持するという側面だけをみることによって、他方では、同じくブルジョア的に、資本主義的搾取=「人間の力」論のうえに立って資本主義をたんなる商品生産制度とみ、その基本法則を価値法則とみることによって、資本主義の発生、発展、消滅の合法則性を否定する。宇野氏が『資本論』を科学的に純化する、ということの具体的な内容は、まず以上のことをいうのである。



引用文献
『マルクス主義経済学の擁護』
新日本出版社 1971年