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ヘーゲル・マルクスからはじめる

経済学と哲学の学習

私的労働と社会的労働

2010-04-10 06:23:34 | 日記
P136~137

 企業であれ、個人であれ、商品生産のもとでそれぞれの生産単位で行なわれる労働は全体としての社会の総労働の一分肢である。

 具体的有用労働の側面についてみればそれぞれ異なった有用な労働であり、それらが互いにつながりあっている。これを社会的分業という。

抽象的人間労働の側面ではすべての労働が共通であるから、それぞれが社会全体の何千万、何億という総労働時間(量)の一部分である。

 ところが同時に、商品生産のもとでは、ここの生産単位は私的な原理で営まれている。私的利害、個別的情報、私的な思惑や見込みで生産が決定され、それぞれの成果もまずさしあたり個々の生産者(私的企業または私的個人)の私的な所有物になる。つまり、各自の労働ははじめから終わりまで私的労働である。

 私的な労働の生産物がその私的な個人や企業のなかだけで用いられるなら、その労働は社会的労働ではない。また、社会的な労働が個々の生産者の私的な利害を排除して行なわれ、その生産物も社会的に使用され処分されるなら、その労働は私的労働ではない。

 このどちらのケースも商品生産ではないのである。

 私的労働と社会的労働という互いに相反する性質を含むために、生産は事前に調整されず、事後的にのみ調整が可能となる。できあがった生産物も私的な交換を通じてのみ、つまり商品として交換されてはじめて社会的なものだということが実証されるのである。

 したがって、商品の使用価値は他人のための使用価値であり、価格で表現される交換価値さらに価値は私的な利害を共通の尺度で測り、調整するバロメーターである。だからこそ、互いの商品を抽象的人間労働という共通性に還元する必要がある。個々の生産者はあくまで市場での価格を指標にして行動するだけであるが、その背後には以上のような仕組がかくされている。

もっといえば、価格や商品交換の背後にあるのは商品生産に固有の人間関係であった。

 商品の価格は価値の貨幣的表現であり、その価値はその商品を生産するために直接・間接に必要な抽象的人間労働の分量すなわち労働時間によって決まる。

その場合、複数以上の生産者が同種の商品を生産しているかぎり、個々の労働量ではなく、あくまで社会的に標準的なあるいは平均的な条件における直接・間接の労働量すなわち社会的必要労働時間によって価値の大きさが決まる。

 商品をつくる労働は、以上のさまざまな意味合いをこめて社会的な労働であるということができる。



引用文献
経済学へのアプローチ
ミネルヴァ書房 1989年