ヘーゲル・マルクスからはじめる

経済学と哲学の学習

無限性

2010-03-18 08:13:43 | 日記
P243~244

 ヘーゲルは、有限なものはそれだけではありえない、無限との連関においてしかありえないと、こういうことをいって無限性へ移行します。

 第二章の「定有」は、A「定有そのもの」、B「有限性」、それから最後にC「無限性」となっています。テキストにはD「移行」というのがありますが、これはC「無限性」のなかにはいります。

 無限性は、定有の範囲をこえているんです。無限性は、じつは、つぎの向自有のことなのですが、これが「定有」の章のなかにふくまれています。

ヘーゲルでは、カテゴリーの最後は、いうでもこういうぐあいになっています。ここでも、「定有」の最後は、つぎのカテゴリー「向自有」にはいっている、無限性になっているわけです。

 ヘーゲルはまず、無限をどういうぐあいに論ずるか、その順序を述べています。

「無限者は a、単純な規定のなかにあるものとしては有限者の否定として肯定的なものである。 b、しかし無限者は、そのために有限者との交互規定に陥るのであって、抽象的な、一面的な無限者である。 c、この無限者と有限者とが唯一の過程として自分を止揚すること、――これが真の無限者である。」(上の一、161ページ)

aの意味は、無限なものとはまず、有限なもののたんなる否定、その反対物だ、ということです。有限的なものは滅びるものですから、否定的なもの、空しいものです。無限者はその反対物だというわけです。それを有限者に単純に対立させると、それ自身もまた一つの有限者である、ということです。

bの意味は、無限者はそのために、有限者との交互規定におちいって、抽象的、一面的な無限者となってしまう、ということです。

そこでつぎに、ほんとうの無限者へゆくわけです。

cにおいて、無限者が有限と無限とをふくむ統一として論じられます。それからもう一つ、無限とは運動だといっている。これはおもしろいとらえかたです。固定したものでなく運動だというのです。本質も運動なんです。

本質というのは、いきなり相手に、これが本質だといってもだめなんです。そのひとが常識的にもっている観念、それをうちやぶってそれが仮象にすぎないことを証明し、それを身をもって知るようにする、そういう運動なのです。

無限のばあいもそうです。マルクスが、資本は物としてではなく、関係としてつかまえることが重要であるが、もう一つ、資本を運動としてつかまえる、資本は運動である、といっていますが、これとおなじです。こういうものが無限なもの、向自有的なもののつかまえかたです。

無限というものは彼岸にあり、有限なものは此岸にあると考えたり、あるいは無限を静止的な目標のように考えたり、そういうぐあいに考えない。無限はプロセスであると考える。ヘーゲルの無限進行、これはプロセスなのですが、この考えは少しも悪いことではありません。



引用文献
『見田石介 へーゲル大論理学研究 ①』
大月書店 1979年