さて、しばらく石切関係から離れていましたが、足を石切神社に戻しましょう。小生の曇りたる目で見ても、今現在この神社では何かがおこっていることは確かだと思います。本当のところはどうなのかは判りませんので、表面上、見えていることだけをお知らせしましょう。
一つは神社と露天商との関係です。京都の話となりますが、東寺にしても北野天満宮にしても、それぞれの祭日には多くの露天商が所狭しと店を広げます。これは概ね他の社寺に於いても見られることで、これらの社寺は現代では文字通りの所場代を取るのでしょうが、こういう露天商との関係は遠い昔、社寺がアジールとしての役割を果たしていた中世以前に遡るのではと思われます。而るに石切神社は、突然に境内の露天商を追放し始めたのです。
そういえば、お百度の回数を数える紐も以前は、神社の入り口でか弱げな老婦人がいすに座って売っていたのですが、いつの間にか社務所で無料で配布するようになりました。年寄りが細々とやっていることなので、黙認してやればいいものをと思います。そういうところを見ると、神社側は何か露天商を憎んでいるかのようにも見えます。
石切の商店街も追い出された露天商の人々に概ね同情的で、神社の姿勢は解せぬとしています。所々に神社への抗議文も掲示されていますが、それを読む限り、ある日突然に境内での商売はまかりならぬということになったようです。如何なる理由も明示されていないとのことです。
今ひとつは、境内の猫の問題です。以前は石切神社付近はどこを見ても猫だらけで、阪本漢方薬局の婆さんが体の調子のいいときなど店を開けていたら、猫の出入りはすさまじく、その猫一匹一匹に婆さんが親しく話しかける様子は、この神域では猫もまた市民権を得ているのかと微笑ましく思えたものです。ところが、今や猫の姿を見ることは殆どありません。
巷間漏れ伝わるところによると神社に雇われた警備員が猫を掴まえては処分(殺している?)しているとのことで、これが事実かどうかは判りませんが、そういうことでも無い限り、あれだけの猫の大群が姿を消してしまった理由は考えられません。もし事実なら本当に文字通り殺生なことで、神道(かんながらのみち)何処に有りやと申すところです。本来、猫にノラというものはありません。全て人間の所業に依るものなのです。猫に餌をやらないで下さいというのは、言い換えれば猫に自分の目に付かないところで死んでくれといっている訳で餌をもらえずにどこかに行った猫が幸せに暮らしているなどということはないのです。ノラネコがノラネコで無くなるように解決していくのがヒューマニズムであります。
かつて、鳥インフルエンザが流行ったときに、境内で放していた鶏(今日尚石上神宮などで見られるカラフルな鶏です。白色レグホンばかりが鶏では無いのですが、皆々鶏と聞けば白いのを思い浮かべるようです)を全て処分した(この場合、生きながら焼き殺したよし。)アホな神社がありましたが、そういうことをする神職にとっては、神に仕えるというより神社はただの金儲けのネタでしかないのでしょう。そういう神社にいくらお参りをしても、既に神は立ち去っていらっしゃらないわけで、願いが聞き届けられることはないでしょう。
石切神社に関する上記2点については、まだまだ不明な点が多く一方的に神社を非難することはできないのですが(露天商についてもこれまでの既得権にあぐらをかいて、神社側が迷惑をすることがあったのかも知れない。)、神職が「我が身さえよければ」という心狭く公徳心ゼロのおっさん(結構こういうおっさんは多いですが)の心事に囚われているとしたら、もはやそこには神はおられない証左であり、多くの人々のお百度も無駄なものになってしまいます。神さんが「やっとれんわい、引っ越しぢゃ。」と思われることがなければよいのですが。
余談ですが、寺社で「鳩に餌をやらないでくれ」という看板を立てているところもセコイですね。伊丹の猪名野神社なども随分と立派な神社なのですが、この看板があるだけで値打ちがググッと下がってしまいます。年寄りが楽しみで、また功徳と思って幾ばくかの餌を撒いてやる。「豆が欲しいかそらやるぞ。」の光景、東本願寺などでもよく見かけましたが、なかなか微笑ましい。汚れたら汚れたでよいではないか。ケチくさいことを言うな。鳩にしても餌を食べねば死んでしまいますわなぁ。そういう看板を立てる坊主や神主は、もうそれだけで信用ならん気がします。特に神社は建物の古さなど信仰上は何の意味もないはずですから、鳩で社殿がダメになれば「やあ、鳩のお陰で遷宮ができるわい。」とニッコリ笑っていればいいはずなのです。京都の六角堂などで何時も感心するのは、鳩たちが本当にのんびりとくつろいでおる様子を見ることができることです。池坊、流石に名門と申す処。遠く、出雲大社などでは夏に行くと山から流れてきている清流で鳩たちが水浴する様子などが見られ、まことに慈愛深き神がここにはおわすということを知らせてくれます。
大阪天満宮なども、鳩の餌を売っていたぐらいですから、随分とおおらかで好きだったのですが、最近、それが無くなっているように思えます。「我事情を知れり。」という方はおられないでしょうか。また、池田市の五月山動物園の如きは、鹿が結核に感染したとの理由で検査陰性の鹿(しかも昨春誕生した幼鹿まで)を含めて全頭を皆殺しにしました。「安楽死」などという言葉のオブラートで包んでありますが、まあ虐殺であります。都合が悪くなったらペットを保健所に持ち込む無慈悲な連中と全く同じであって、動物を飼う資格のない動物園です。目玉にしているウォンバットがそういう状態になっても同じ決断をするのでしょうか。「鹿だから、まあええか。」という気分がなかったかどうか?どうみてもウォンバットのようなネズミのでかいのより鹿の方が「かいらしい」と思うのでありますが。
写真は近鉄石切駅付近から臨む北摂の山々。
一つは神社と露天商との関係です。京都の話となりますが、東寺にしても北野天満宮にしても、それぞれの祭日には多くの露天商が所狭しと店を広げます。これは概ね他の社寺に於いても見られることで、これらの社寺は現代では文字通りの所場代を取るのでしょうが、こういう露天商との関係は遠い昔、社寺がアジールとしての役割を果たしていた中世以前に遡るのではと思われます。而るに石切神社は、突然に境内の露天商を追放し始めたのです。
そういえば、お百度の回数を数える紐も以前は、神社の入り口でか弱げな老婦人がいすに座って売っていたのですが、いつの間にか社務所で無料で配布するようになりました。年寄りが細々とやっていることなので、黙認してやればいいものをと思います。そういうところを見ると、神社側は何か露天商を憎んでいるかのようにも見えます。
石切の商店街も追い出された露天商の人々に概ね同情的で、神社の姿勢は解せぬとしています。所々に神社への抗議文も掲示されていますが、それを読む限り、ある日突然に境内での商売はまかりならぬということになったようです。如何なる理由も明示されていないとのことです。
今ひとつは、境内の猫の問題です。以前は石切神社付近はどこを見ても猫だらけで、阪本漢方薬局の婆さんが体の調子のいいときなど店を開けていたら、猫の出入りはすさまじく、その猫一匹一匹に婆さんが親しく話しかける様子は、この神域では猫もまた市民権を得ているのかと微笑ましく思えたものです。ところが、今や猫の姿を見ることは殆どありません。
巷間漏れ伝わるところによると神社に雇われた警備員が猫を掴まえては処分(殺している?)しているとのことで、これが事実かどうかは判りませんが、そういうことでも無い限り、あれだけの猫の大群が姿を消してしまった理由は考えられません。もし事実なら本当に文字通り殺生なことで、神道(かんながらのみち)何処に有りやと申すところです。本来、猫にノラというものはありません。全て人間の所業に依るものなのです。猫に餌をやらないで下さいというのは、言い換えれば猫に自分の目に付かないところで死んでくれといっている訳で餌をもらえずにどこかに行った猫が幸せに暮らしているなどということはないのです。ノラネコがノラネコで無くなるように解決していくのがヒューマニズムであります。
かつて、鳥インフルエンザが流行ったときに、境内で放していた鶏(今日尚石上神宮などで見られるカラフルな鶏です。白色レグホンばかりが鶏では無いのですが、皆々鶏と聞けば白いのを思い浮かべるようです)を全て処分した(この場合、生きながら焼き殺したよし。)アホな神社がありましたが、そういうことをする神職にとっては、神に仕えるというより神社はただの金儲けのネタでしかないのでしょう。そういう神社にいくらお参りをしても、既に神は立ち去っていらっしゃらないわけで、願いが聞き届けられることはないでしょう。
石切神社に関する上記2点については、まだまだ不明な点が多く一方的に神社を非難することはできないのですが(露天商についてもこれまでの既得権にあぐらをかいて、神社側が迷惑をすることがあったのかも知れない。)、神職が「我が身さえよければ」という心狭く公徳心ゼロのおっさん(結構こういうおっさんは多いですが)の心事に囚われているとしたら、もはやそこには神はおられない証左であり、多くの人々のお百度も無駄なものになってしまいます。神さんが「やっとれんわい、引っ越しぢゃ。」と思われることがなければよいのですが。
余談ですが、寺社で「鳩に餌をやらないでくれ」という看板を立てているところもセコイですね。伊丹の猪名野神社なども随分と立派な神社なのですが、この看板があるだけで値打ちがググッと下がってしまいます。年寄りが楽しみで、また功徳と思って幾ばくかの餌を撒いてやる。「豆が欲しいかそらやるぞ。」の光景、東本願寺などでもよく見かけましたが、なかなか微笑ましい。汚れたら汚れたでよいではないか。ケチくさいことを言うな。鳩にしても餌を食べねば死んでしまいますわなぁ。そういう看板を立てる坊主や神主は、もうそれだけで信用ならん気がします。特に神社は建物の古さなど信仰上は何の意味もないはずですから、鳩で社殿がダメになれば「やあ、鳩のお陰で遷宮ができるわい。」とニッコリ笑っていればいいはずなのです。京都の六角堂などで何時も感心するのは、鳩たちが本当にのんびりとくつろいでおる様子を見ることができることです。池坊、流石に名門と申す処。遠く、出雲大社などでは夏に行くと山から流れてきている清流で鳩たちが水浴する様子などが見られ、まことに慈愛深き神がここにはおわすということを知らせてくれます。
大阪天満宮なども、鳩の餌を売っていたぐらいですから、随分とおおらかで好きだったのですが、最近、それが無くなっているように思えます。「我事情を知れり。」という方はおられないでしょうか。また、池田市の五月山動物園の如きは、鹿が結核に感染したとの理由で検査陰性の鹿(しかも昨春誕生した幼鹿まで)を含めて全頭を皆殺しにしました。「安楽死」などという言葉のオブラートで包んでありますが、まあ虐殺であります。都合が悪くなったらペットを保健所に持ち込む無慈悲な連中と全く同じであって、動物を飼う資格のない動物園です。目玉にしているウォンバットがそういう状態になっても同じ決断をするのでしょうか。「鹿だから、まあええか。」という気分がなかったかどうか?どうみてもウォンバットのようなネズミのでかいのより鹿の方が「かいらしい」と思うのでありますが。
写真は近鉄石切駅付近から臨む北摂の山々。
ただこれはちょっと話題がずれているのかもしれません。地下鉄の駅での風景と、神を祀るところとは根本的に違いますから。ただある日突然に、というところが気に入らないですね。神社に考えがあるならそれを説得できるのが神に仕える人のすることでしょうし、また商売をする人はそれが神様を拝みに来られる人にとってという考えが当然あるべきですし、、
先日訪れた神社でも私は鳥居を素通りしました。神を崇める気持ちで入るか、自分の興味で入るかという辺りが基本にあるのではないかしら?でも神様ってもっとおおらかなものなのではという気持ちもありますしね。
大阪商人の挨拶に、「儲かりまっか?」「ぼちぼちでんな」、というのがありますが、昔の浪速商人は、その後に「おかげさまで」と言っていたのが今は省かれているとは五木寛之さんに教えて貰いました。
この「おかげさまで」というキーワードは大切と思いますけど、どないでっか?これは象徴的表現ですのでコミュニケーションでは誤解を招くかもしれませんが、私は今、この言葉の深い心を感じてますね。
>神さんが「やっとれんわい、引っ越しぢゃ。」と思われることがなければよいのですが。
これ気に入りました(^_^)
石切神社は、総ての露店を追い出だしたのでしょうか。何か理由があるのでしょうけど、参拝者からすれば露店がある方が賑やかで楽しいと思いますのに。
野良猫や土鳩に関しては、やはり賛否両論があるでしよう。それぞれに言い分があるのは仕方ないことなのかも。猫などは、元々は人間側に責任があるのでしょうけど。
私などは、近くに来る烏が天敵に思えます。魚釣りの愛好家には、川鵜が憎いはずです。鮎など根こそぎに盗られて、最近はこちらまで中々回って来ません。
湖水もそうですが、やがて川までブラックバスが蔓延る可能性もあります。動物にしろ鳥にしろ魚にしろ、有害と無害の一線を引く適切な基準は何なのでしようか。
大阪の挨拶、「おかげさまで」という言葉が使われなくなっているのも由々しきことですね。最近随分と目につくのは、雨の日など京都に於いても路地で向こうから来る人と対面したときにちょっと傘を「かしげる」人がいなくなったなあということです。
現代の風潮へのレジスタンスとして、自分だけでも「おかげさまで」という言葉を忘れぬようにしたいと思います。
動物に関しては、自然の中で食物連鎖の一環としての殺害が行われるのは当然のことなのですが、人間の所業によって哀れな状態に追い込まれているものは出来るだけ救ってやろうと思っています。
また、シュバイツァーでしたか、「生命を阻害するものを悪とする」というようなことを言っていますが、これなども大切な言葉かなと考えております。ペットショップで売れ残った犬や猫は実験動物として、眼をくりぬかれたり四肢を切断されたりしています。不要な動物実験などは悪の最たるものと思うのですが。
大阪に住む私の知人に、人生の総てを野良猫(猫ちゃんと呼ばないと、本人に叱られます)の救済に費やしている人が居ります。収入の殆んどを、餌代や避妊手術費に使うそうです。
自宅のマンションには、常に十数匹の猫が居て、貰い手を捜しては上げているそうです。
その行動は、事の善悪の理屈を離れて尊敬に価いする、と思います。私には、真似は出来ませんが、その行為だけは理解している積もりです。
小生などは里親に出すのは既に諦めており、これ以上増やさぬ代わりに今おるのは死ぬまで飼ってやろうと思っております。
宇津の老梅は今なお花をたくさんつけていますが、まもなく桜の季節ですね。堤防にたくさんの桜を植えられた方に、その咲く様子を見てもらいたかったですね。
石切神社に露店がなくなったことが考えられません。そんな現状でも参拝者はは変わらなくいらっしゃいますか?私は露店で買う買わないは別として結構見て歩くのは好きです。それもにせものめいた非日常的な物に目が留まります^^人がたかっている店の横で、ぽつんと寂しそうにしている店など有ると可哀相でなりません。
昔の知り合いに家族全員で露店商を生業にしている方がいます。会えば天気の話ばかりしていました。
>突然に境内の露天商を追放し始めたのです。
そんな事があれば、先の知人はどうしているだろうと心が痛みます。理由の明示なしとは不思議でなりませぬ。
北摂の山々・・・生駒山系?信貴山も見えますか?
↑の北摂の山々、完全に方向違いしていました。能勢、箕面方面でしょうか?
見えている山々は、そう茨木、箕面や池田方面です。その向こうが能勢そして亀岡になります。