むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「8」 ④

2024年10月02日 08時44分38秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・いかにも育ちのいい、
おっとりした宰相の君などは、

「上達部の方々にも、
『香炉峰』のお話、
すぐ伝わってよ
中宮さまが、
主上にお話になったのですもの
中宮さまは何でもすぐ、
主上にお告げになるの
主上は大変興がられて、
清涼殿でお話になったので、
その日のうちに、
拡がったそうよ」

と私に楽しそうに告げてくれた

右衛門の君は、
ひと言も話題にしなかった

私は新参者なので、
まだ主上にお目通りを、
許されていない

去年の春から、
宮中に仕えていらっしゃる、
定子中宮のすぐ下の妹姫・
原子(もとこ)姫にも、
お目にかかっていない

いずれ、この姫は、
東宮に入内され女御となられる

弁のおもとの話によれば、
中宮にまさるとも劣らない、
美しい方だそうだ

中宮は、
主上のお召しで、
ほとんど夜は清涼殿の、
上の御局にお渡りになる

主上がこちらの登華殿へ、
お出ましになることもあるが、
私ははばかって、
お側近くへ上がったことはない

中宮の御前は、
主上がいらしても、
いられなくても、
つねに弾んで楽しかった

「花は何が好き?」

とおたずねで、
それぞれ、

「なでしこ」
「女郎花」
「桔梗」
「朝顔」

などを挙げる

「山吹」
「萩」

などという中で、
私が、

「薄」

というと中宮はうなずかれ、

「薄の風情は、
秋の野からはぶけないもの」

必ず私の説に同じて下さるのが、
まるで子供のように、
私は嬉しい

「正反対のものの、
一番極端なのは何かしら?」

「火と水でございましょう」

「夜と昼」

「夏と冬」

「お天気と雨降り」

「子供と老人」

「肥えた人と痩せた人」

どっと笑う声がする

宰相の君は、
ぽっちゃり型で太っているのに、
右衛門の君は、
痩せているからだった

そう発言したのは、
右衛門の君で、
宰相の君を見て、
いったからだった

「髪の長い人と短い人」

といったのは、
髪の短いのを病んでいる、
右京という女房である

「愛してくれる人と憎む人
または同じ人だけれど、
愛してくれている時と、
心変わりして愛してくれない時、
との違い
それこそ天と地ほど違います」

そのときも中宮は、
ひたと私をご覧になって、

「そう、ほんとにそうね」

「何が正反対といって、
人間の心の持ち方ほど、
違うものはありません
人の心ほど変るものはないのよ」

そんなことを、
中宮は経験なさったことも、
ないであろうに

「わたくしの想像よ、これは
人間の心について、
わたくし興味尽きなくて、
いつも考えるの・・・」

中宮はほかの多くの女房が、
いることなど眼中にないさまで、
私ばかりご覧になる

「ほら、少納言が書きためていた、
『春はあけぼの草子』に、
さっきからのを、
書きとめればいいわ
あの後、書いているの?」

私は人々の手前、
恥じて顔を赤らめた

私は『春はあけぼの草子』が、
世に流れ出ることを恐れていた

あれは弁のおもとや、
兵部の君に見せて、
自己満足していたころの、
習作であった

今見れば、
堪えがたい稚なさであるに、
ちがいない

私はとっさに、

「紙がございませんので」

と申しあげて、
冗談につくろった

「紙?
少納言は紙に注文がむつかしいの」

「いえ、
注文も何も、
紙なら何でも、
好きなのでございますが、
気が、
むしゃくしゃしている時でも、
世の中がいやになって、
生きてる気もしない時でも、
いい紙の、
たとえば陸奥紙など、
それから、
ただの紙でも真っ白の、
きれいなのに、
良い筆が手に入りますと、
幸せな気分になって、
いっぺんに機嫌が治ってしまいます
元気が出るのでございます」

「また、単純ねえ
紙と筆があれば、
気が慰められるなんて」

中宮はお笑いになる
私は図にのって、

「それから、
心がいきいきしてくるものに、
美しい畳表がございます」

「畳表?」

中宮は不審そうなお顔をなさる

「はい、
畳の上に敷く薄縁でございます
あの上等なもの、
高麗縁のが特に好きでございます
青々とこまかく編んだ、
厚いものをひろげて見ますと、
い草の匂いがして、
縁の綾の白地に黒の模様が、
くっきりしているのなども、
もう、うれしくて・・・」

「まあ、
畳の薄縁や紙で、
気が休まるなんて、
変った人ねえ
ほんとに安上がりね」

とまわりにいる、
女房たちも私を笑った

しかし中宮は、
ふとお首をかしげられて、

「そうね、
考えてみると、
少納言のいうこと、
わたくしも漠然と考えていたような、
気がするわ
よくわかってよ
青々とした畳、
真っ白い紙、
よく書けそうな新しい筆、
いいものなのねえ」

私は、
そうおっしゃって頂くだけで、
大満悦である

「少納言、
やはり書きとめなさい
そんなはかない、
折々の思いは、
書きとめておかないと、
すぐ忘れてよ」

「はい、
いつかは・・・」

「続き、きっと書くのよ」

このお方をこそ、
とどめたい
永遠に残る紙の上に

いつかきっと書きます
中宮さまのことを
書きとどめ、
言い伝えます

そう思いながら、
私は口をつぐんでいた

口に出していえば、
その思いが純粋に伝わらない、
気がするし、
また私と中宮のいあだでは、
言葉にしなくても、
心から心へ通いあうもので、
充分、と思った

ああ、しかし、
『春はあけぼの草子』を、
書き続けるとしたら、
これをこそ書かねば、
というたいへんな日が来た






          


(次回へ)

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