GREENの絵本。

ひとりごとを綴る日々の絵本。

趣味。

2016-05-01 22:43:17 | 日記
1年ほど前、ふとしたときに趣味を聞かれて、
答えられない自分に愕然とした。

大好きなバスケも、テニスも、スノーボードも、
母親になってからご無沙汰していて趣味とは言い難い。
フェス、スポーツ観戦、旅からも遠ざかっている。
英語もだんだん話せなくなっている。
音楽を聞くときも、幼児音楽ばかり。
映画をゆっくり観たのなんていつのことだろうか。

自分の趣味、好きなこと、やりたいこと、
なんだっけ?
我が道に猪突猛進タイプだった過去の自分は、
どこへやら。



でも、数日前、ふと思えた。
「趣味:子育て」
なんだ、私。

今、何をすることが好きですか?と問われて、
子どもの写真を撮ること
子どもの服を買うこと
子どもの物を作ること
子どもの応援に行くこと
子どもと楽しむこと
子育て日記を書き綴ること

これもう、趣味と言わずして、なんという 笑


趣味は子育てですなんて、
不謹慎なのかしら。
無責任なのかしら。
でも私にとって子育ては、
義務でもなく役割でもなく、
趣味なんだろうなあ。

人生、活き活き生きていく上で、
仕事は必要。
趣味は大切。
どちらも生き甲斐。

今、趣味をかなり満喫している日々 笑。


子育て始めて5年経ち4人の母になって、
今思えること。





PARASOPHIA。

2015-03-07 22:21:48 | 日記


PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015。


身体が弱ってたのに、
行ったのがまずかった。

作品が放つ強いエネルギーをもろに受けてしまって、
ぐったりしてしまった。吐き気がするまでに。

元気のあるときは、
上手く受け止めたり、適度に流したり、ほどよく受け取ったり、
できるんだけど。


全身全霊において制作されたモノたちは、
例外なくエネルギーを宿す。
作り手の内なる、激しくおぞましいエネルギーを。


ニーズがあって生み出される商品と言われるモノがもつ、
必然性のあるエネルギーと、
作者の内部の混沌から生まれて形になった作品と言われるモノがもつ、
主張性のあるエネルギー。

前者慣れしている私には、
後者が負の性質を帯びて襲いかかってきた感覚に陥った。


改めて知った、
「生きる人の想いは、恐ろしいまでに強い」
という事実。




と、まあ、
アートなんてさらさら分かんないド素人の、
直感的体感レポートでしたとさ。

ちゃんちゃん。

家。

2014-12-19 23:26:16 | 日記


約4年過ごした部屋と
今日でお別れです。

30年の人生で
幾度となく引っ越しを経験してきて思うのは、
住む場所が変わるということは
人生におけるステージが切り替わるということ
なんじゃないかと。

新しい住処に移るということは、
ゆるやかに、必然的に、
ステップアップをするときが訪れた
ということなんだと思うのです。


この家での4年間は、
とにかく必死で、3人の母として生きることに必死で、
たくさん考えてたくさん泣いた。
でもその分、苦しんだ分、辛かった分、
脆いけれど強い、醜いけれど濁りのない感情を得た。
そして、それらの感情を胸に、たくさんの幸せを感じた。

次のステージでは、
必死さから抜け出して、
朗らかに柔らかく母として女性として笑うのだ。


そんな段階にきているから、
私の人生の今このタイミングで、
引っ越しというチャンスが訪れているのだと思うのです。



なんて言いながら、
ベランダから見える空も日当りも風通りもすべて
大のお気に入りだった今の家への名残惜しさを
前向きな感情を語って見ないフリをしようとしているだけかも。



どれだけ回数を経験していても、
帰る場所を変えるというのは、
少なからず淋しさを伴うものなのです。

ありがとう、
この家での思い出たちよ。



深呼吸。

2014-10-10 22:14:03 | 日記


人間の生み出す色は
自然の生み出す色に
到底かなわない。

カメラがとらえる感動は
人の目がとらえる感動に
到底かなわない。

それでもシャッターを切るという行為は、
わずかながらでもその感動を留めておきたいという
人間の純粋な衝動によるものなのだろう。

自然の素晴らしさは
自然の一部である人間の目、耳、鼻、皮膚感覚という
自然の産物を通してでしか、本来の意味では味わえない。


子どもに目を配る日々の中で、
自分の視線が下にばかり向きがちだということを、
この圧倒的な空が伝えてくれました。

たまには上を見上げて、
自然がくれる偉大な空気感を
身体に深くしみ込ませることが、
とても大事。

だね。




日々、多々。

2014-09-11 21:46:15 | 日記


夏があっという間に過ぎてゆき、
朝夕の風に秋の気配を感じるようになりました。

…と優雅に言いたいところだけれど、
夏の日々は決してあっという間ではなく、
京の都の真夏の蒸し暑さに加えて、
醜い猜疑心が我が心に渦巻き、
この一ヶ月が、この一週間が、この一日が、
ずーっとずーっと続くのではないかという虚偽心に苛まれる、
そんな日々。

…なんてのも言い過ぎで、
ただ、平凡に毎日が、
子どもたちとの、いや、
子どもたちに向き合う自分との闘いでクタクタになっていた
ってなもんです。

小中学生を抱える夏休み中の母親って、そんなもんですよ。
母親には夏休みどころか休みはないんかいっ!!
って何度叫びそうになったことか。
叫んだところで、
何の痕跡も残さぬまま宙に静かに消えゆくだけのセリフ、なんてことはわかってるんですが。


そんな日々にも、多々幸せがあるから、やっていけるんです。
文句が言えるってのは、満たされている環境ってことなんだと、思うのです。
本当に、何も無ければ、文句さえ、生まれない。

失ったものが、大きければ大きいほど、
不満、悲しみ、憤り、憎しみ、苦しみ、軽々しく言葉になんてできない感情で溢れて、
つまらない文句さえ、失われる。

13年前に、文字通り、世界を震撼させた大事件で、
日常が日常であることの尊さを、
当たり前が当たり前でないことの重大さを、
明日が明日であることの奇跡を、
私は学んだはずなのです。

私だけでなく、
世界中の一人ひとりは、そう感じ学んだはずなのに、
どうして未だに世界はこうも争いだらけなのでしょう。



文句の言える日々
その有り難みを噛み締めて、
風の中に季節の気配を感じられる心の優雅さを保って生きたいと思う、
今日この頃です。

ちゃんちゃん。