大嘗祭特集<2> 大嘗祭の主役はサカツコ(童女)だった!
下の写真は、令和元年9月27日に栃木県高根沢町の斎田(さいでん)で行われた「斎田抜穂の儀」の一部を映したものだ。掲載した毎日新聞の写真キャプションによると、天皇陛下の使者として宮内庁から派遣された抜穂使(ぬきほし:同庁掌典職)が、斎田で稲の収穫にあたった奉耕者(ほうこうしゃ:地元協力者)らが見守るなか、収穫したばかりの新米の確認に向かうところだという。抜穂使は男性で、奉耕者も全員男性だ。しかし、大嘗祭の歴史をひもとくと、こうした稲の収穫にかかわる神事は本来、女性が担うものだったことがわかる。
▲収穫した米の確認に向かう抜穂使(右)と、見つめる奉耕者ら(栃木県高根沢町、2019/09/27)
画像出所:毎日新聞(2019/09/27、小川昌宏氏撮影)
文献資料にとどまらず文化人類学的調査も重ねて大嘗祭の本質について研究してきた工藤隆氏は、日本文化の古層・深層は、中国・長江流域を中心としたアジア全域の基層文化に発していること、ヤマト的祭祀の頂点に位置する大嘗祭もまたアジア全域の基層文化の中に源をもつものであることを明らかにした。その36年に及ぶ大嘗祭研究の成果を盛り込んだ著書『大嘗祭--天皇制と日本文化の源流』をナビゲーターに、本来の大嘗祭の在り方、および女性がどのような役割を果たしていたかを確かめてみよう。(以下、工藤氏は著者と記す)
<INDEX>
1…大嘗祭の本質――縄文・弥生に淵源する日本文化の基層
2…平安朝大嘗祭は二段構成――前段に「原ニイナメ」の残影
3…大嘗祭前段の主役は「稲」と「サカツコ」
4…大嘗祭の抜穂はサカツコが第一番目に行う
5…ほかの重要行事もサカツコが一番目に行う
6…大嘗宮に向かう行列中央で白木輿に乗るサカツコ
7…大嘗宮内陣での神事は采女が補助役を務める
8…現代日本において大嘗祭がもつ意味・価値とは?
9…明治以降、大嘗祭から姿を消したサカツコ
●大嘗祭の本質――縄文・弥生に淵源する日本文化の基層
先に「本来の大嘗祭の在り方」と述べたが、時代によってその在り方は異なっている。著者は、大嘗祭を次の4つに区分して考察する。
①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方(<女のニイナメ>注1)
②男王たちが覇権を争う古墳時代の在り方
③600年代末頃の大嘗祭整備開始期の在り方(初期大嘗祭)――<女のニイナメ>の伝統と、剣・鏡などの神器や「天皇霊」の継承といった政治的正当性の儀礼の伝統を合体させる
④700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代の在り方
大嘗祭の本質を追究する視点から、著者は「①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方」に最も価値を置く。大嘗祭の本質は、縄文・弥生時代に根源を持つ、日本文化の最深部分に発していると考えるためだ。③や④は、大嘗祭の式次第が完成していく過程として評価されるが、それは「本質」が変質していく過程でもある。天皇位の権威付けとして取り入れられた剣や鏡は、弥生時代に大陸の先輩国家から伝わった舶来品であり、文化史的意味はあるものの、日本人のアイデンティティーにかかわる部分を重視する立場からは、副次的な意味にとどまる。
(注1)女のニイナメ(原ニイナメ):ニイナメとは「ニフ(稲の産屋)の忌み」の意であり、ニイナメ儀礼とは稲の仮の死(収穫)を翌年の稲の誕生(復活)へと転換させる意図をもつ収穫祭のこと。文化人類学によれば初期段階の農業の担い手は女性であり、東南アジアの稲収穫儀礼の主役は女性だった。水田耕作が開始された弥生時代の稲作儀礼(原ニイナメ儀礼)も女性が主役だったと考えられる。
●平安朝大嘗祭は二段構成――前段に「原ニイナメ」の残影
大嘗祭の文献資料の最古のものは、9世紀成立の『儀式』、10世紀成立の『延喜式』である。いずれも儀式書で、平安朝にはほぼ完成された大嘗祭の式次第について述べたものなので、「①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方」を知るにはあまり役立たない。だが著者は、儀式書を読み込み分析することで、平安朝の大嘗祭にも①の一部が継承されていることを見出す。
儀式書に記された平安朝の大嘗祭は、稲が大嘗宮に運ばれるまでの前段と、その後に大嘗宮で営まれる後段の二段構成となっている。このうち前段は「稲」と「女」を重視する内容で、「原ニイナメ」の一部が継承されていると考えられるのだ。次項から、大嘗祭前段においてサカツコと呼ばれる童女がどのような役割を果たしたかを見ていこう。
●大嘗祭前段の主役は「稲」と「サカツコ」
平安朝大嘗祭は、まず亀の甲を焼く亀卜(きぼく)によって、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国郡を卜定(ぼくじょう=卜占によって決定)し、その後、次のように進む。
・八月上旬と下旬に、大祓使(おおはらえし)を全国に派遣して祓(はらえ)をする。
▲令和の大嘗祭で行われた大祓(おおはらえ)。厳島神社に広島県内18の神社から27人の若手神職が参加した。画像出所:NHK(2019/08/30/16:36)
・八月上旬に、悠紀・主基両国に、抜穂使(ぬきほし)を二人ずつ派遣する。抜穂使二人は稲実卜部(いなのみのうらべ)と禰宜卜部(ねぎのうらべ)と称する。
・この卜部たちは大祓をしてから、稲の穂を抜く「抜穂」の行事のための「稲実殿(いなみのとの)」の場所と、「御田」を卜定し、さらに抜穂行事にかかわるさまざまな人たち(雑色人)を卜定する。すなわち、造酒児(さかつこ。『儀式』では「造酒童女」と表記)一人、御酒波(さかなみ)一人、篩粉(こふるい)一人、共作(あいつくり)二人、多明酒波(ためつさかなみ)一人。以上はすべて女性で、このほか稲実公(いなのみのきみ=大田主おおたぬし)一人、焼灰(はいやき)一人、採薪(きこり)四人、歌人二十人、歌女(うため)二十人。
このうち造酒児(以下、サカツコと表記)は、“酒(サカ)の(ツ)童女・巫女(コ)”の意で、卜定で選ばれた女たちの中でも別格の存在だ。
▲令和の「斎田抜穂の儀」は全て男性が行った(2019年9月27日、京都府南丹市) 画像出所:NHK(2019/09/27/12:21)
●大嘗祭の「抜穂」はサカツコが第一番目に行う
サカツコの選定に際しては、その条件として、「悠紀・主基両国の現地の郡の大領・少領の未婚の娘で、卜占で選ばれた者」と記されており、家柄の良さと高度な神聖性が求められていることがわかる。
八月下旬から九月にかけて、抜穂の行事が行われる。卜部たちは、国司・郡司その他を率いて田にのぞむ。抜穂は、サカツコと呼ばれる童女が第一番目に行い、次に稲実公、御酒波、その他の雑色人、最後に庶民が抜く。これらの稲は、九月下旬までには平安京の斎場に運ぶ。その行列では、「御飯の稲(みいいのしね)」が先頭を進む。
●ほかの重要行事もサカツコが一番目に行う
サカツコは抜穂以外にも、大嘗祭の前段において主役として活躍する。
・平安京の斎場(北野)では、抜穂の稲が到着すると、サカツコがまず斎鋤(いみすき=神聖な鋤)を取って、初めて地を掃き、四隅の柱の穴を掘る。
・大嘗宮のための材木も、サカツコが山に入って、最初に斎斧(いみおの)を取り、初めて木を伐る。
・大嘗宮のための「草(かや)」をまず刈るのもサカツコだ。
・十月、酒造りのための「斎場御井(みい)」を掘る際にも、サカツコが斎鋤で最初の一堀をする。
・十一月上旬、黒酒(くろき)、白酒(しろき)のための米を臼で舂(つ)くのも、サカツコが最初の一振りをし、続いて女たちが舂き、酒造りをする。黒酒とは、白酒に「くさき=山うつぎの焼灰」を入れたもの。白酒とは米と米麹で醸造した原酒を濾した済んだ酒。
・大嘗祭当日の七日前から大嘗宮の造営を開始する。悠紀・主基両国のサカツコが朝堂院(ちょうどういん)の四角(よすみ)および門に榊(さかき)を立てる。
全てにおいてサカツコが「最初に行う」存在として重んじられていることがわかる。さらにサカツコは、次に述べるように、大嘗祭当日に大嘗宮に向かう行列において、神聖な稲の黒木輿(くろきのこし)の前を、白木輿(しろきのこし)に乗せられて進むのである。
●大嘗宮に向かう行列中央で白木輿に乗るサカツコ
大嘗祭の当日(十一月の下の卯の日、冬至の頃)の朝、北野の斎場から、四千人を超える大行列が大嘗宮に向けて出発する。行列中央には、稲実卜部(いなのみのうらべ)がいる。次にサカツコが白木輿に乗せられて続き、次には黒木輿に稲を乗せた御稲輿(みしねのこし)、そして稲実公(いなのみのきみ)がいる。
なお、白木輿は木の皮をはいで作った輿で、黒木輿は皮付きの木で作った輿である。稲およびそれにかかわるものが神聖視され、特別に扱われていることがわかる。
●大嘗宮内陣での神事は采女が補助役を務める
稲が大嘗宮に運び込まれた後(大嘗祭の後段)は、サカツコに代わり采女(うねめ)が登場する。采女のうち最姫(もひめ)、次姫(じひめ)の二人は天皇の補助役として内陣(奥の部分)に入ることが許され、そこで「秘すべきことがはなはだ多い」とされる神事が営まれる。
『江家次第(ごうけしだい)』はじめ関連資料を調査し、内陣における天皇と采女の所作を調べた著者は、大嘗祭の本質・原型・源に直結するような秘儀は、この時期(平安時代)の大嘗宮においてはすでに消滅あるいは変質しているとの結論に至り、次のように述べる。
したがって、平安朝大嘗祭の式次第で、本質・原型・源に通じる巫女性の残形と見なされるのは、ユキ国・スキ国での抜穂行事に始まり、行列が北野の斎場および大嘗祭当日に大嘗宮に到着するまで主役を務めている、サカツコおよび稲の存在の部分だということになる。
(『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』p53)
▲昭和天皇の大嘗祭(昭和3年)の主基田=福岡県で開催された「斎田御田植祭八少女舞」の写真。この田植祭では少女による舞が奉納されている。画像出所:国立国会図書館デジタルコレクション「大嘗祭主基斎田写真帖」
●現代日本において大嘗祭がもつ意味・価値とは?
歴代の天皇が即位後にただ一度だけ行う大嘗祭とは、いま現在の日本にとっていかなる意味・価値をもつのか? 日本の伝統文化に対する意識が希薄化していることなどから、“大嘗祭不要論”が前面に出てくる可能性を危惧する著者は、存続論を支える視点として、次の6項目を挙げる。著者が40年近い月日をかけて追究してきた、大嘗祭の本質・原型・源からの視点である。
①大嘗祭は、1300年余の伝統を持つことそれ自体が、多くの無形民俗文化財と同じく、手厚く保護すべき価値を持っている。
②剣・鏡などの神器が大陸伝来の舶来品であることや、即位の礼の高御座(たかみくら)その他、唐文化の模倣部分もあるが、これらもまた2000余年以前からの異文化移入の歴史的実態を伝えるものとして、文化史的価値がある。
③大嘗祭後段の大嘗宮での行事に、太陽の衰弱からの復活、「天皇霊」の継承という意味が内在している点は、アニミズム・シャーマニズム的観念の残存したものとして、宗教学や文化人類学の対象となる貴重な事例である。
④しかし、最も貴重なのは、大嘗祭の、特に稲と造酒児(サカツコ)を主役とする前段であり、それは、古くは縄文時代晩期の粟の収穫儀礼や、弥生時代以来の水田稲作文化の収穫儀礼の、<女>が主体となる部分の痕跡を伝えているものである。
⑤日本文化の基層は、縄文・弥生に発するアニミズム・シャーマニズム・神話世界性にあり、大嘗祭の特に稲とサカツコを主役とする前段は、それらの結晶として貴重なものである。
⑥伊勢神宮の式年遷宮の価値は、弥生時代の穀物倉庫に神聖性を感じるアニミズム・シャーマニズム・神話世界性を継承し続けている点にある。同じように、大嘗祭も、特に稲とサカツコを主役とする前段は、縄文・弥生時代以来のヤマト的なるものの源に通じる文化資質を結晶させているので、可能な範囲で丁寧に復元するのがよい。
以上6項目のうち、④、⑤、⑥を色文字として強調したが、そこに書かれている通り、著者が大嘗祭の存在価値として最も高く評価しているのは、「稲と女(サカツコ)を主役とする前段」である。著者はそこにこそ大嘗祭の本質・原型・源を見ており、大嘗祭のみならず天皇制と日本文化の本質・原型・源をもそこに見ているといっていいだろう。
▲昭和天皇の大嘗祭は京都で行われた。写真は京都御苑に設けられた大嘗宮の全景。屋根はもちろん茅葺だ。画像出所:国立国会図書館デジタルコレクション「昭和大礼要録」
●明治以降、大嘗祭から姿を消したサカツコ
江戸期最後の大嘗祭までサカツコは存在していたが、明治政府が仕切った明治天皇の大嘗祭では姿を消してしまった。その理由は、「女性原理が排除される時代背景」にあったとみて間違いないようだ。明治政府は、欧米列強による日本の植民地化を恐れて富国強兵を推進し、天皇にも軍の先頭に立つことを求めた。
明治天皇は、歌会始など公の場で恋歌を詠むことを禁じられた。日本文学の中心は和歌であり、万葉集の巻頭が雄略天皇の相聞歌であるように、その中心は天皇の恋歌であったのだが。また、諸神社で祭祀にかかわってきた女性たちは職掌を奪われ、女性神職は姿を消し、公的には神職はほぼ男性のみとなってしまった。こうした女性原理の排除の極みは女性天皇の排除だろう。明治二十二年制定の皇室典範は、第一章第一条で「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とし、江戸期までは確かに存在していた女性天皇の伝統を退け、皇位は「男系男子」に限定してしまった。
大正、昭和、平成においても、サカツコ不在のまま大嘗祭が営まれた。著者は平成の次の御世に「今日的形でのサカツコの復活」がなされることを期待したが、令和の大嘗祭においてもサカツコは姿を見せていない。「斎田抜穂の儀」がすべて男性により行われたことは冒頭に見た通りだ。経費削減を理由に、大嘗宮の屋根が茅葺きではなく板葺きに変えられてしまうという残念なことも起きた。次の御世の大嘗祭においては、茅葺屋根の復活、サカツコの復活、そして何よりも明治政府が排した「女性天皇の復活」を望みたい。
次回は「大嘗祭特集3」として、秋篠宮の「大嘗祭は宗教行事であり、内廷会計で身の丈にあった儀式にすべき」という発言、大嘗宮が板葺きに変えられた経緯、民間からの反対運動など、各方面から発せられた大嘗祭をめぐる異論について取り上げ、大嘗祭の現代日本における意味について改めて考えることとしたい。
<参考資料>
・『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(工藤隆著、中公新書、2017年11月18日)
・『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』の「著者に聞く」がアップされました(工藤隆のサブルーム、2017年12月07日)
https://blog.goo.ne.jp/susanowohimiko/e/d00ed0ca0f4e42358c4ee38c89df220f
・大嘗祭で使う米収穫 京都と栃木で「斎田抜穂の儀」(毎日新聞2019/09/27)
https://mainichi.jp/articles/20190927/k00/00m/040/239000c
・皇位継承式典(NHK NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/japans-emperor6/news/news_all.html
・大嘗祭主基斎田写真帖(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906703
・昭和大礼要録(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190283
下の写真は、令和元年9月27日に栃木県高根沢町の斎田(さいでん)で行われた「斎田抜穂の儀」の一部を映したものだ。掲載した毎日新聞の写真キャプションによると、天皇陛下の使者として宮内庁から派遣された抜穂使(ぬきほし:同庁掌典職)が、斎田で稲の収穫にあたった奉耕者(ほうこうしゃ:地元協力者)らが見守るなか、収穫したばかりの新米の確認に向かうところだという。抜穂使は男性で、奉耕者も全員男性だ。しかし、大嘗祭の歴史をひもとくと、こうした稲の収穫にかかわる神事は本来、女性が担うものだったことがわかる。
▲収穫した米の確認に向かう抜穂使(右)と、見つめる奉耕者ら(栃木県高根沢町、2019/09/27)
画像出所:毎日新聞(2019/09/27、小川昌宏氏撮影)
文献資料にとどまらず文化人類学的調査も重ねて大嘗祭の本質について研究してきた工藤隆氏は、日本文化の古層・深層は、中国・長江流域を中心としたアジア全域の基層文化に発していること、ヤマト的祭祀の頂点に位置する大嘗祭もまたアジア全域の基層文化の中に源をもつものであることを明らかにした。その36年に及ぶ大嘗祭研究の成果を盛り込んだ著書『大嘗祭--天皇制と日本文化の源流』をナビゲーターに、本来の大嘗祭の在り方、および女性がどのような役割を果たしていたかを確かめてみよう。(以下、工藤氏は著者と記す)
<INDEX>
1…大嘗祭の本質――縄文・弥生に淵源する日本文化の基層
2…平安朝大嘗祭は二段構成――前段に「原ニイナメ」の残影
3…大嘗祭前段の主役は「稲」と「サカツコ」
4…大嘗祭の抜穂はサカツコが第一番目に行う
5…ほかの重要行事もサカツコが一番目に行う
6…大嘗宮に向かう行列中央で白木輿に乗るサカツコ
7…大嘗宮内陣での神事は采女が補助役を務める
8…現代日本において大嘗祭がもつ意味・価値とは?
9…明治以降、大嘗祭から姿を消したサカツコ
●大嘗祭の本質――縄文・弥生に淵源する日本文化の基層
先に「本来の大嘗祭の在り方」と述べたが、時代によってその在り方は異なっている。著者は、大嘗祭を次の4つに区分して考察する。
①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方(<女のニイナメ>注1)
②男王たちが覇権を争う古墳時代の在り方
③600年代末頃の大嘗祭整備開始期の在り方(初期大嘗祭)――<女のニイナメ>の伝統と、剣・鏡などの神器や「天皇霊」の継承といった政治的正当性の儀礼の伝統を合体させる
④700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代の在り方
大嘗祭の本質を追究する視点から、著者は「①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方」に最も価値を置く。大嘗祭の本質は、縄文・弥生時代に根源を持つ、日本文化の最深部分に発していると考えるためだ。③や④は、大嘗祭の式次第が完成していく過程として評価されるが、それは「本質」が変質していく過程でもある。天皇位の権威付けとして取り入れられた剣や鏡は、弥生時代に大陸の先輩国家から伝わった舶来品であり、文化史的意味はあるものの、日本人のアイデンティティーにかかわる部分を重視する立場からは、副次的な意味にとどまる。
(注1)女のニイナメ(原ニイナメ):ニイナメとは「ニフ(稲の産屋)の忌み」の意であり、ニイナメ儀礼とは稲の仮の死(収穫)を翌年の稲の誕生(復活)へと転換させる意図をもつ収穫祭のこと。文化人類学によれば初期段階の農業の担い手は女性であり、東南アジアの稲収穫儀礼の主役は女性だった。水田耕作が開始された弥生時代の稲作儀礼(原ニイナメ儀礼)も女性が主役だったと考えられる。
●平安朝大嘗祭は二段構成――前段に「原ニイナメ」の残影
大嘗祭の文献資料の最古のものは、9世紀成立の『儀式』、10世紀成立の『延喜式』である。いずれも儀式書で、平安朝にはほぼ完成された大嘗祭の式次第について述べたものなので、「①大嘗祭の原型(弥生時代)の在り方」を知るにはあまり役立たない。だが著者は、儀式書を読み込み分析することで、平安朝の大嘗祭にも①の一部が継承されていることを見出す。
儀式書に記された平安朝の大嘗祭は、稲が大嘗宮に運ばれるまでの前段と、その後に大嘗宮で営まれる後段の二段構成となっている。このうち前段は「稲」と「女」を重視する内容で、「原ニイナメ」の一部が継承されていると考えられるのだ。次項から、大嘗祭前段においてサカツコと呼ばれる童女がどのような役割を果たしたかを見ていこう。
●大嘗祭前段の主役は「稲」と「サカツコ」
平安朝大嘗祭は、まず亀の甲を焼く亀卜(きぼく)によって、悠紀(ゆき)・主基(すき)の国郡を卜定(ぼくじょう=卜占によって決定)し、その後、次のように進む。
・八月上旬と下旬に、大祓使(おおはらえし)を全国に派遣して祓(はらえ)をする。
▲令和の大嘗祭で行われた大祓(おおはらえ)。厳島神社に広島県内18の神社から27人の若手神職が参加した。画像出所:NHK(2019/08/30/16:36)
・八月上旬に、悠紀・主基両国に、抜穂使(ぬきほし)を二人ずつ派遣する。抜穂使二人は稲実卜部(いなのみのうらべ)と禰宜卜部(ねぎのうらべ)と称する。
・この卜部たちは大祓をしてから、稲の穂を抜く「抜穂」の行事のための「稲実殿(いなみのとの)」の場所と、「御田」を卜定し、さらに抜穂行事にかかわるさまざまな人たち(雑色人)を卜定する。すなわち、造酒児(さかつこ。『儀式』では「造酒童女」と表記)一人、御酒波(さかなみ)一人、篩粉(こふるい)一人、共作(あいつくり)二人、多明酒波(ためつさかなみ)一人。以上はすべて女性で、このほか稲実公(いなのみのきみ=大田主おおたぬし)一人、焼灰(はいやき)一人、採薪(きこり)四人、歌人二十人、歌女(うため)二十人。
このうち造酒児(以下、サカツコと表記)は、“酒(サカ)の(ツ)童女・巫女(コ)”の意で、卜定で選ばれた女たちの中でも別格の存在だ。
▲令和の「斎田抜穂の儀」は全て男性が行った(2019年9月27日、京都府南丹市) 画像出所:NHK(2019/09/27/12:21)
●大嘗祭の「抜穂」はサカツコが第一番目に行う
サカツコの選定に際しては、その条件として、「悠紀・主基両国の現地の郡の大領・少領の未婚の娘で、卜占で選ばれた者」と記されており、家柄の良さと高度な神聖性が求められていることがわかる。
八月下旬から九月にかけて、抜穂の行事が行われる。卜部たちは、国司・郡司その他を率いて田にのぞむ。抜穂は、サカツコと呼ばれる童女が第一番目に行い、次に稲実公、御酒波、その他の雑色人、最後に庶民が抜く。これらの稲は、九月下旬までには平安京の斎場に運ぶ。その行列では、「御飯の稲(みいいのしね)」が先頭を進む。
●ほかの重要行事もサカツコが一番目に行う
サカツコは抜穂以外にも、大嘗祭の前段において主役として活躍する。
・平安京の斎場(北野)では、抜穂の稲が到着すると、サカツコがまず斎鋤(いみすき=神聖な鋤)を取って、初めて地を掃き、四隅の柱の穴を掘る。
・大嘗宮のための材木も、サカツコが山に入って、最初に斎斧(いみおの)を取り、初めて木を伐る。
・大嘗宮のための「草(かや)」をまず刈るのもサカツコだ。
・十月、酒造りのための「斎場御井(みい)」を掘る際にも、サカツコが斎鋤で最初の一堀をする。
・十一月上旬、黒酒(くろき)、白酒(しろき)のための米を臼で舂(つ)くのも、サカツコが最初の一振りをし、続いて女たちが舂き、酒造りをする。黒酒とは、白酒に「くさき=山うつぎの焼灰」を入れたもの。白酒とは米と米麹で醸造した原酒を濾した済んだ酒。
・大嘗祭当日の七日前から大嘗宮の造営を開始する。悠紀・主基両国のサカツコが朝堂院(ちょうどういん)の四角(よすみ)および門に榊(さかき)を立てる。
全てにおいてサカツコが「最初に行う」存在として重んじられていることがわかる。さらにサカツコは、次に述べるように、大嘗祭当日に大嘗宮に向かう行列において、神聖な稲の黒木輿(くろきのこし)の前を、白木輿(しろきのこし)に乗せられて進むのである。
●大嘗宮に向かう行列中央で白木輿に乗るサカツコ
大嘗祭の当日(十一月の下の卯の日、冬至の頃)の朝、北野の斎場から、四千人を超える大行列が大嘗宮に向けて出発する。行列中央には、稲実卜部(いなのみのうらべ)がいる。次にサカツコが白木輿に乗せられて続き、次には黒木輿に稲を乗せた御稲輿(みしねのこし)、そして稲実公(いなのみのきみ)がいる。
なお、白木輿は木の皮をはいで作った輿で、黒木輿は皮付きの木で作った輿である。稲およびそれにかかわるものが神聖視され、特別に扱われていることがわかる。
●大嘗宮内陣での神事は采女が補助役を務める
稲が大嘗宮に運び込まれた後(大嘗祭の後段)は、サカツコに代わり采女(うねめ)が登場する。采女のうち最姫(もひめ)、次姫(じひめ)の二人は天皇の補助役として内陣(奥の部分)に入ることが許され、そこで「秘すべきことがはなはだ多い」とされる神事が営まれる。
『江家次第(ごうけしだい)』はじめ関連資料を調査し、内陣における天皇と采女の所作を調べた著者は、大嘗祭の本質・原型・源に直結するような秘儀は、この時期(平安時代)の大嘗宮においてはすでに消滅あるいは変質しているとの結論に至り、次のように述べる。
したがって、平安朝大嘗祭の式次第で、本質・原型・源に通じる巫女性の残形と見なされるのは、ユキ国・スキ国での抜穂行事に始まり、行列が北野の斎場および大嘗祭当日に大嘗宮に到着するまで主役を務めている、サカツコおよび稲の存在の部分だということになる。
(『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』p53)
▲昭和天皇の大嘗祭(昭和3年)の主基田=福岡県で開催された「斎田御田植祭八少女舞」の写真。この田植祭では少女による舞が奉納されている。画像出所:国立国会図書館デジタルコレクション「大嘗祭主基斎田写真帖」
●現代日本において大嘗祭がもつ意味・価値とは?
歴代の天皇が即位後にただ一度だけ行う大嘗祭とは、いま現在の日本にとっていかなる意味・価値をもつのか? 日本の伝統文化に対する意識が希薄化していることなどから、“大嘗祭不要論”が前面に出てくる可能性を危惧する著者は、存続論を支える視点として、次の6項目を挙げる。著者が40年近い月日をかけて追究してきた、大嘗祭の本質・原型・源からの視点である。
①大嘗祭は、1300年余の伝統を持つことそれ自体が、多くの無形民俗文化財と同じく、手厚く保護すべき価値を持っている。
②剣・鏡などの神器が大陸伝来の舶来品であることや、即位の礼の高御座(たかみくら)その他、唐文化の模倣部分もあるが、これらもまた2000余年以前からの異文化移入の歴史的実態を伝えるものとして、文化史的価値がある。
③大嘗祭後段の大嘗宮での行事に、太陽の衰弱からの復活、「天皇霊」の継承という意味が内在している点は、アニミズム・シャーマニズム的観念の残存したものとして、宗教学や文化人類学の対象となる貴重な事例である。
④しかし、最も貴重なのは、大嘗祭の、特に稲と造酒児(サカツコ)を主役とする前段であり、それは、古くは縄文時代晩期の粟の収穫儀礼や、弥生時代以来の水田稲作文化の収穫儀礼の、<女>が主体となる部分の痕跡を伝えているものである。
⑤日本文化の基層は、縄文・弥生に発するアニミズム・シャーマニズム・神話世界性にあり、大嘗祭の特に稲とサカツコを主役とする前段は、それらの結晶として貴重なものである。
⑥伊勢神宮の式年遷宮の価値は、弥生時代の穀物倉庫に神聖性を感じるアニミズム・シャーマニズム・神話世界性を継承し続けている点にある。同じように、大嘗祭も、特に稲とサカツコを主役とする前段は、縄文・弥生時代以来のヤマト的なるものの源に通じる文化資質を結晶させているので、可能な範囲で丁寧に復元するのがよい。
以上6項目のうち、④、⑤、⑥を色文字として強調したが、そこに書かれている通り、著者が大嘗祭の存在価値として最も高く評価しているのは、「稲と女(サカツコ)を主役とする前段」である。著者はそこにこそ大嘗祭の本質・原型・源を見ており、大嘗祭のみならず天皇制と日本文化の本質・原型・源をもそこに見ているといっていいだろう。
▲昭和天皇の大嘗祭は京都で行われた。写真は京都御苑に設けられた大嘗宮の全景。屋根はもちろん茅葺だ。画像出所:国立国会図書館デジタルコレクション「昭和大礼要録」
●明治以降、大嘗祭から姿を消したサカツコ
江戸期最後の大嘗祭までサカツコは存在していたが、明治政府が仕切った明治天皇の大嘗祭では姿を消してしまった。その理由は、「女性原理が排除される時代背景」にあったとみて間違いないようだ。明治政府は、欧米列強による日本の植民地化を恐れて富国強兵を推進し、天皇にも軍の先頭に立つことを求めた。
明治天皇は、歌会始など公の場で恋歌を詠むことを禁じられた。日本文学の中心は和歌であり、万葉集の巻頭が雄略天皇の相聞歌であるように、その中心は天皇の恋歌であったのだが。また、諸神社で祭祀にかかわってきた女性たちは職掌を奪われ、女性神職は姿を消し、公的には神職はほぼ男性のみとなってしまった。こうした女性原理の排除の極みは女性天皇の排除だろう。明治二十二年制定の皇室典範は、第一章第一条で「大日本国皇位ハ祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」とし、江戸期までは確かに存在していた女性天皇の伝統を退け、皇位は「男系男子」に限定してしまった。
大正、昭和、平成においても、サカツコ不在のまま大嘗祭が営まれた。著者は平成の次の御世に「今日的形でのサカツコの復活」がなされることを期待したが、令和の大嘗祭においてもサカツコは姿を見せていない。「斎田抜穂の儀」がすべて男性により行われたことは冒頭に見た通りだ。経費削減を理由に、大嘗宮の屋根が茅葺きではなく板葺きに変えられてしまうという残念なことも起きた。次の御世の大嘗祭においては、茅葺屋根の復活、サカツコの復活、そして何よりも明治政府が排した「女性天皇の復活」を望みたい。
次回は「大嘗祭特集3」として、秋篠宮の「大嘗祭は宗教行事であり、内廷会計で身の丈にあった儀式にすべき」という発言、大嘗宮が板葺きに変えられた経緯、民間からの反対運動など、各方面から発せられた大嘗祭をめぐる異論について取り上げ、大嘗祭の現代日本における意味について改めて考えることとしたい。
<参考資料>
・『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(工藤隆著、中公新書、2017年11月18日)
・『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』の「著者に聞く」がアップされました(工藤隆のサブルーム、2017年12月07日)
https://blog.goo.ne.jp/susanowohimiko/e/d00ed0ca0f4e42358c4ee38c89df220f
・大嘗祭で使う米収穫 京都と栃木で「斎田抜穂の儀」(毎日新聞2019/09/27)
https://mainichi.jp/articles/20190927/k00/00m/040/239000c
・皇位継承式典(NHK NEWS WEB)
https://www3.nhk.or.jp/news/special/japans-emperor6/news/news_all.html
・大嘗祭主基斎田写真帖(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1906703
・昭和大礼要録(国立国会図書館デジタルコレクション)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190283
私は敬宮愛子さまが皇太子に立太子されるのを楽しみにしているのですが
女性という理由だけで徳仁天皇陛下の直系長子を無視する政府&宮内庁には疑問しかありません(つд`)
これに携わるのは御巫、猿女といった女性の巫女です。このあたりも、女性と神事の原型との近さが感じられますね。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=689
日テレニュースが動画付でネットに上げています。
http://www.news24.jp/articles/2019/11/12/07543168.html
この行事は大嘗祭前の重要祭祀だと思うのですが、なぜ秋篠宮ではなくて常陸宮様が「皇族を代表」されたのでしょうか?常陸宮様は高齢で車椅子使用という状態でもきちんと祭祀に出て下さいましたが、一方で秋篠宮が重要祭祀を「すっぽかした」ように見えて少し腹立たしくなりました。
ここで秋篠宮が不在で「皇族の代表」すら務めなかった理由を幾つか考えてみました。
●秋篠宮体調不良説。以前から酒と睡眠薬を併用している?という穏やかでない噂を聞く秋篠宮ですが、今回の不在もそういう体調不良が原因だった?そうすると秋篠宮はもはや皇嗣や次の天皇など危くて務められないのでは?
●秋篠宮仮病サボリ説。彼は元々内廷皇族ではなく祭祀はいつも外から洋装で見守っているだけの方でした。そして例の大嘗祭予算削減(身の丈)発言といい、彼は大嘗祭や祭祀をかなり軽視している節がある。謝礼も出ないし、秋篠宮がこの重要儀式を軽視して「サボった」という見方もできるのでは?
●大嘗祭に関わる神職や技術者らから総スカンを受け「締め出し」を食らった説。秋篠宮は例の「大嘗祭予算削減(身の丈)発言」で、大嘗祭に関わる全ての人々の怒りを買い、大嘗祭前の重要儀式への参列を拒否されたのでは?という見方もできるかなと。
●まさかの天皇陛下自らが「秋篠宮は来るに及ばず」と弟をビシッと退けた説。お優しい陛下のことなのでこれは最も考えにくいかもしれませんが、ここぞという時は毅然とした対応をなさる陛下です。もし陛下自らが愚かな弟を祭祀から遠ざけたのだとしたら…と考えるとちょっとドキドキしますね。
●秋篠宮が祭祀よりも謝礼公務を選択した説。これは12日の秋篠宮公務ニュースが報じられていないのでそもそも公務はなかったと考えられるのであり得ないかと。しかし祭祀には出ずに私的にお忍びでどこかにフラッと出かけて不在だったという説はあり得るでしょう。それも祭祀の軽視が甚だしいですね。
いずれにせよ、秋篠宮自身に不都合な真実があれば、マスコミは絶対に報じることができませんよね。
肝心な時に重要な場にいない皇族が皇嗣?次の天皇?冗談じゃありませんよ。高齢の常陸宮様にご足労かけてまで何やってるんでしょうね、この男は。