卒業式
2007-03-30 | 日記
3月半ば、卒業式に参加した。開式は10時からだと聞いていたため、その時間に合わせて会場に到着した。何故、他の人間に式の時間を聞いたかと言うと、俺は今回卒業しないからである。つまり、卒業式の招待状がこなかったため、会場や時間等が分からないという状態だった。
実際に現地へ着いてみると、10時からというのは受付の時間であり、式の開始はもっと後であることが判明した。その場に居れば、友人達も沢山集まっているかと思っていたが、まだ時間が早いため、殆ど見知らぬ人間ばかりであった。おそらく別のキャンパスなのだろう。誰かに連絡を取り、所在を聞こうとするが、案の定、俺の携帯電話は壊れていた。少し前から、電池パックが寿命に達したようで、この日に限って最も酷い壊れ方をしていた。メールを送ろうとすると電源が切れ、何度入れ直そうとしても電池交換を促す表示が出るという症状だ。仕方なく俺は、ひたすら我慢強くその場で仲の良い友人を待ち続けていた。1時間ほど経過した頃だろうか、やっと一人出現した。安堵しつつ共に受付を済ませ、会場内の席に着いた。
式の始まる前に、続々と見知った友人達が入ってきた。中には遅刻している人間もいたが、みな真面目に参加しにきていたので安心した。時折、「卒業生の皆さん早く席に着いて下さい、席は人数分しか用意しておりません。」というアナウンスに動揺させられた。そう、前述した通り俺は今回卒業生ではない。ただ、夏頃に一人で卒業するのはさすがに寂しいという気持ちから参加しに来ていたのだ。
そして卒業式が始まった。大学院・大学・短大とも合同の式であり、個人的にはもう少し緩い雰囲気を想定していたのだが、意外に厳粛であったことに息が詰まった。それにしても毎回、うちの学長の話は長い。大学生活開始直後の旅行でも、また卒業パーティーや保護者説明会など、学長が登場する場面では必ずと言っていいほど無駄に長い話が続く。しかもそれは、タイムスケジュールを毎回大幅に狂わせてしまうというのだから性質が悪いとしか言いようがない。長話が特徴なのでおそらく長めに時間を予定してあると思うが、今回はおよそ40分に及んだ。これだけでも俺たち学生を疲弊させるには十分だったが、後日去年の卒業式に参加した友人に聞いてみたところ、前回は1時間十数分も喋り続けていたというから驚きだ。きっと今回、学長としては極力話を短く切り上げたつもりなのだろう。「最後に」という意味を含んだ言葉を数回使用していたと記憶している。長い学長の一人相撲が終了すると、その後はすんなり進行し、無事に閉式した。今回、国歌と校歌、そして蛍の光を合唱するプログラムがあった。俺は日本が好きだが、特に国家主義というわけでは無いうえ、選挙にも行かないため、自分に相応しくないとして国歌を歌うことはしなかった。また、やはりうちの学校の生徒はほとんどが校歌を歌えないため、会場全体に皆の歌声が高らかに響き渡るという場面は無かった。
式終了後は、学位記の受け取りと集合写真撮影のため、他の階へ移動するのだが、この時点ではまだ再留年する人間がいなかったため、自分も同行して良いのだろうかと不安を抱えていた。しかし、みんなが学位記を受け取っている間に、再留年する友人が2人ほど現れたので安堵した。そして俺たちはちゃっかり、卒業生全体の集合写真撮影に交ざってきた。ここでは世話になった(なっている)教授も来ていたため、卒業しないのに何故この場にいるのか突っ込まれるかと思っていたのだが、不思議と日頃の学生生活を褒められた。
帰り際、違うキャンパスの連中にカメラのシャッターを押してくれと言われることが多く非常に不愉快だったので、数枚撮ってやった後は無視して、友人達と共に帰路についた。
夜になり、卒業生や留年生、また、既に社会人となった友人達や現役在校生も交えての飲み会が行われた。全部で11人ほどだったと思うが、それはなかなかに楽しい時間の共有であった。卒業する人間はやはり嬉しさからか、酒に弱いくせに少々飲み過ぎてしまったようで、トイレに行く途中、転んで後頭部を強打したりという災難もあった。俺も去年の卒業パーティーで飲み過ぎてしまったという出来事があったため、この飲み会ではかなり気を付けて飲んでいた。たとえば最初の一杯をカクテルにしたり、他の人間が飲んでいない間は自分も飲まないなどということを実践した。
今年は卒業パーティーへの参加権が無いため翌日は家に居たが、この式の日だけでも十分に有意義な時間を過ごせたと言える。これで今まで共に大学生活を送ってきた仲間は殆ど卒業してしまったことになる。またこの春休みが明けると、そこに残っている仲間は若干名。前途多難な幕開けだと感じるかもしれないが、卒業までに必要な単位数も残り少ないため、もう一息の頑張りである。何となく、俺にとっては終了なのか開始なのかよく分からない卒業式だったが、卒業生の席数が足らないなどという事態に陥ることが無く良かった。
めでたくもあり めでたくもなし
実際に現地へ着いてみると、10時からというのは受付の時間であり、式の開始はもっと後であることが判明した。その場に居れば、友人達も沢山集まっているかと思っていたが、まだ時間が早いため、殆ど見知らぬ人間ばかりであった。おそらく別のキャンパスなのだろう。誰かに連絡を取り、所在を聞こうとするが、案の定、俺の携帯電話は壊れていた。少し前から、電池パックが寿命に達したようで、この日に限って最も酷い壊れ方をしていた。メールを送ろうとすると電源が切れ、何度入れ直そうとしても電池交換を促す表示が出るという症状だ。仕方なく俺は、ひたすら我慢強くその場で仲の良い友人を待ち続けていた。1時間ほど経過した頃だろうか、やっと一人出現した。安堵しつつ共に受付を済ませ、会場内の席に着いた。
式の始まる前に、続々と見知った友人達が入ってきた。中には遅刻している人間もいたが、みな真面目に参加しにきていたので安心した。時折、「卒業生の皆さん早く席に着いて下さい、席は人数分しか用意しておりません。」というアナウンスに動揺させられた。そう、前述した通り俺は今回卒業生ではない。ただ、夏頃に一人で卒業するのはさすがに寂しいという気持ちから参加しに来ていたのだ。
そして卒業式が始まった。大学院・大学・短大とも合同の式であり、個人的にはもう少し緩い雰囲気を想定していたのだが、意外に厳粛であったことに息が詰まった。それにしても毎回、うちの学長の話は長い。大学生活開始直後の旅行でも、また卒業パーティーや保護者説明会など、学長が登場する場面では必ずと言っていいほど無駄に長い話が続く。しかもそれは、タイムスケジュールを毎回大幅に狂わせてしまうというのだから性質が悪いとしか言いようがない。長話が特徴なのでおそらく長めに時間を予定してあると思うが、今回はおよそ40分に及んだ。これだけでも俺たち学生を疲弊させるには十分だったが、後日去年の卒業式に参加した友人に聞いてみたところ、前回は1時間十数分も喋り続けていたというから驚きだ。きっと今回、学長としては極力話を短く切り上げたつもりなのだろう。「最後に」という意味を含んだ言葉を数回使用していたと記憶している。長い学長の一人相撲が終了すると、その後はすんなり進行し、無事に閉式した。今回、国歌と校歌、そして蛍の光を合唱するプログラムがあった。俺は日本が好きだが、特に国家主義というわけでは無いうえ、選挙にも行かないため、自分に相応しくないとして国歌を歌うことはしなかった。また、やはりうちの学校の生徒はほとんどが校歌を歌えないため、会場全体に皆の歌声が高らかに響き渡るという場面は無かった。
式終了後は、学位記の受け取りと集合写真撮影のため、他の階へ移動するのだが、この時点ではまだ再留年する人間がいなかったため、自分も同行して良いのだろうかと不安を抱えていた。しかし、みんなが学位記を受け取っている間に、再留年する友人が2人ほど現れたので安堵した。そして俺たちはちゃっかり、卒業生全体の集合写真撮影に交ざってきた。ここでは世話になった(なっている)教授も来ていたため、卒業しないのに何故この場にいるのか突っ込まれるかと思っていたのだが、不思議と日頃の学生生活を褒められた。
帰り際、違うキャンパスの連中にカメラのシャッターを押してくれと言われることが多く非常に不愉快だったので、数枚撮ってやった後は無視して、友人達と共に帰路についた。
夜になり、卒業生や留年生、また、既に社会人となった友人達や現役在校生も交えての飲み会が行われた。全部で11人ほどだったと思うが、それはなかなかに楽しい時間の共有であった。卒業する人間はやはり嬉しさからか、酒に弱いくせに少々飲み過ぎてしまったようで、トイレに行く途中、転んで後頭部を強打したりという災難もあった。俺も去年の卒業パーティーで飲み過ぎてしまったという出来事があったため、この飲み会ではかなり気を付けて飲んでいた。たとえば最初の一杯をカクテルにしたり、他の人間が飲んでいない間は自分も飲まないなどということを実践した。
今年は卒業パーティーへの参加権が無いため翌日は家に居たが、この式の日だけでも十分に有意義な時間を過ごせたと言える。これで今まで共に大学生活を送ってきた仲間は殆ど卒業してしまったことになる。またこの春休みが明けると、そこに残っている仲間は若干名。前途多難な幕開けだと感じるかもしれないが、卒業までに必要な単位数も残り少ないため、もう一息の頑張りである。何となく、俺にとっては終了なのか開始なのかよく分からない卒業式だったが、卒業生の席数が足らないなどという事態に陥ることが無く良かった。
めでたくもあり めでたくもなし
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