俺の周囲には頭の弱い人間が非常に多い。確かに明晰な奴もいるが、殆どはお世辞にも頭が良いとは言えない。だがそれも仕方の無いことだと諦めている。俺が自ら、下降してゆくことを望んだ結果だ。おそらく、もっと偏差値が高い土壌であれば、少なくとも勉強は出来る。ならば、論理的な会話も可能だろう。しかしここには、勉強も出来なければ頭も弱い、どうしようもない人間で溢れ返っている。
まず誰も真剣な話が不可能だ。何故なら、人の弁を理解する頭を持っていないためだ。どれほど冷静だとしても、何かしらの理由をつけては自己弁護に徹する。更には、自分が正しいことを述べているつもりなので、誰に落ち度があったのかを判別できない。当然、学が足りないために意見のパターンが少ない。言葉を変えているつもりでも、同じ意味の内容を繰り返す。確かに程度が低いのだから仕方のないことではある。おそらく、思考の行き止まりまで来たとき、一旦中継点まで引き返すことを知らないのだろう。なので、どのような質問を投げ掛けたところで、常に一つの答えしか引き出せない。
質問力というものがある。その名の通り、質問する力を指す。これを養うことによって、相手からなるべく有力な意見を引き出すことが可能だ。しかし、バカには通用しない。生きている間、誰もが感じたことがあるだろう、生きる意味とは。そして、個々の人生に関して。だが、これらに答えは無い。言い換えるならば、答えは無限にあるとも言える。それと同じことで、人の行動からは幾らでも答えを見出せる。誰にも正解は分からない。その基準も個人により様々であり、自分のためか他人のためかで変化する。行動は人生を形成する言わば塵のようなものだ。地球が消滅するその日まで、誰にも正解は導き出せない。
さて、頭の弱い人間は、簡単に自分を信頼して行動できる。選択肢を多く見つけられないためだ。とはいえ、これには個人差が強く関係するため、自分でも間違ったことを言ったと思う。ただ、俺はこれだけは確信している。頭の弱い人間は、質問に対して答えの種類が明らかに少ない。考え方が一辺倒になってしまうのだ。当然、物事を多面的に見る能力にも欠けている。というより、感情的になり易いため、一つの面だけに没頭してしまい、他の要素が目に入らないのだと思う。
まず重要な質問に関して、相手の質問の意図、その意味をよく考えることを推奨する。俺の場合、幾つかの意味を考え、それぞれに答えを複数出していく。分かり易く記号を用いて説明すると、質問AをAa、Ab、Acと分ける。Aaに対しての答えを幾つか考え、他も同じように考えていく。だが念のため、質問を自分の言葉で言い換え、相手に確認してみるといい。とびきり極端な内容でない限りは、答えが一つしか出ないということは有り得ないのだ。最終的な結論は、互いの考えに最も近いものを選択するだろう。
また、非を認めることに欠陥を持つ人間がいる。慣例どおりの謝罪をするまでは良い。明らかな反省の色を出し、同じ過ちを繰り返すことが無いだろうと、こちらは安心する。しかし、頭の弱い人間は、何が悪いことだったか理解していない場合がある。何に対しての謝罪なのか聞いておくことを推奨する。ここで的確な返答を得られたとて、実はまだ安心できない。反省と復唱は違うと教えてあげるべきだ。単語の一つ一つから、どんなに些細なことであろうと入念に確認するといい。問題は、頭が弱いためにオーバーヒートし兼ねないことだ。さらに、苛々を募らせて余計に悪化する。こうなってはどうしようもない。一旦諦める他は無い。頭に難があれば、冷静に考えることが苦手でも仕方が無いのだ。
と言ってみたものの、以上のことが実際に仕方ないと思えるだろうか。自分の意見が何一つとして相手に伝わらず、相手は正しいと盲信しながら混沌とした意見をぶつけてくる。はっきりいって会話が成り立たない。関係を保ちたいと願うならば、潔くこちらが妥協するしかない。相手が語り、こちらが語り、そう繰り返されても、会話でないことは多い。こちらがどのように切り口を変えても、相手に分からない言葉は永久に伝わらない。
おそらく、ある程度の偏差値と知能指数さえ持っていれば、上記の全てに当てはまる人間はまずいないと思う。あくまで、思い込みの域は出ないのだが、少なくとも会話が成り立つのではないだろうか。驚愕を齎す事実だが、実際に全てが当てはまる人間は、俺の周囲に存在する。これはもう、義務教育が甘いのではなかろうか。多分、低い知能では十年学んでも思考力が身につかないのだと考える。英単語や漢字、歴史の年号や数式を覚えることは誰にでも可能だ。これらは問いに対し明確な答えが用意されている。反復練習の積み重ねで、身につくまでの時間こそ個人差はあれど、最終的には絶対にマスターできる。問題は答えの無い物事に対する考察だ。俺は教育者ではないので、それがどうやって身につくものかは分からない。だが、教育、学習により身につくものだとは思っている。なので、やはり義務教育を徹底すべきだと考える。卒業には試験を設けるといい。筆記の他に口答試験もだ。これをクリアしさえすれば、今まで通り卒業とし、無理ならば最大で十年間の留年制度を設けるべきだ。当然、義務教育なので学び続けるほかは選択肢が無くなる。
浅はかな考えを真剣に延べるのは可愛げがあって良いが、話が通じない人間は実に不愉快だ。なので俺は、こういった無謀な方向性を夢想する。こんな制度が実現すれば、多様な供給が枯渇し、国ごと荒廃してしまいそうだ。まぁ、それは無理なので、知能が人並みの人と、偏差値が低過ぎる人は、頼むから勉強して欲しい。知識ではなく、考える力を養ってくれると善い。同じ言語を話す人間同士なのに、これほどやきもきするのは嫌だ。結果として、今まで俺は何人の人間を切り捨ててきただろう。悪いタイプのバカは心から願い下げだ。バカならバカなりに、良いバカになって欲しい。向上心があり、人の話を一生懸命理解しようと努める。そんなバカは、いや、それはきっと本当に賢い人間だろう。俺は決して賢く無い。なので全能の言葉は残念ながら知らない。どうすれば、理解出来ない人間に、理解させることが可能であるかも知らない。しかし、少なくとも俺は、自分の発言通りに努めてはいる。茶化している時は別だが、真剣な時は根底の真面目さが露呈する。
そうだ。俺に見透かされているような気がすると言う人達へ。実際、見透かしてる。全部ではないけど、俺は他人の一挙一動を決して見逃さない。たとえ相手が気分を害すると分かっていても、許せない間違いは指摘する。まぁそこから、この記事は始まるわけだ。あと考えは説得で曲げるけど、信念は揺るがない。頑固者だから。それに、見下してる奴の意見は耳に入らない。こういうと最低に聞こえるね。だけど、俺に見下されたり、決別されるのってよっぽどだよ。基本的に頭の悪い奴のが好きだもん可愛らしいから。だから、よっぽどのことが無い限り、俺に嫌われるのは難しいんだよ。だって基本的に人間好きだからね。ほとんど全ての人間を尊敬してるからね実際に。良いところ、自分に無いところを見ると、凄いなぁって、その都度見直すよ。つまり、俺に嫌われる奴はそうとう頭悪いと思ってくれて構わないよ。
最後に。この文章はまったく推敲せず、気分に任せて書き殴ったので、整っていないよ。でもまぁ、いつものことだから分かるよね。PCの(たぶん)CPUが半壊して、ずっと五月蝿い異常音を出してて、いまいち集中できないんだよ。叩くと止まるんだけどね。音と共にPC自体が。
まず誰も真剣な話が不可能だ。何故なら、人の弁を理解する頭を持っていないためだ。どれほど冷静だとしても、何かしらの理由をつけては自己弁護に徹する。更には、自分が正しいことを述べているつもりなので、誰に落ち度があったのかを判別できない。当然、学が足りないために意見のパターンが少ない。言葉を変えているつもりでも、同じ意味の内容を繰り返す。確かに程度が低いのだから仕方のないことではある。おそらく、思考の行き止まりまで来たとき、一旦中継点まで引き返すことを知らないのだろう。なので、どのような質問を投げ掛けたところで、常に一つの答えしか引き出せない。
質問力というものがある。その名の通り、質問する力を指す。これを養うことによって、相手からなるべく有力な意見を引き出すことが可能だ。しかし、バカには通用しない。生きている間、誰もが感じたことがあるだろう、生きる意味とは。そして、個々の人生に関して。だが、これらに答えは無い。言い換えるならば、答えは無限にあるとも言える。それと同じことで、人の行動からは幾らでも答えを見出せる。誰にも正解は分からない。その基準も個人により様々であり、自分のためか他人のためかで変化する。行動は人生を形成する言わば塵のようなものだ。地球が消滅するその日まで、誰にも正解は導き出せない。
さて、頭の弱い人間は、簡単に自分を信頼して行動できる。選択肢を多く見つけられないためだ。とはいえ、これには個人差が強く関係するため、自分でも間違ったことを言ったと思う。ただ、俺はこれだけは確信している。頭の弱い人間は、質問に対して答えの種類が明らかに少ない。考え方が一辺倒になってしまうのだ。当然、物事を多面的に見る能力にも欠けている。というより、感情的になり易いため、一つの面だけに没頭してしまい、他の要素が目に入らないのだと思う。
まず重要な質問に関して、相手の質問の意図、その意味をよく考えることを推奨する。俺の場合、幾つかの意味を考え、それぞれに答えを複数出していく。分かり易く記号を用いて説明すると、質問AをAa、Ab、Acと分ける。Aaに対しての答えを幾つか考え、他も同じように考えていく。だが念のため、質問を自分の言葉で言い換え、相手に確認してみるといい。とびきり極端な内容でない限りは、答えが一つしか出ないということは有り得ないのだ。最終的な結論は、互いの考えに最も近いものを選択するだろう。
また、非を認めることに欠陥を持つ人間がいる。慣例どおりの謝罪をするまでは良い。明らかな反省の色を出し、同じ過ちを繰り返すことが無いだろうと、こちらは安心する。しかし、頭の弱い人間は、何が悪いことだったか理解していない場合がある。何に対しての謝罪なのか聞いておくことを推奨する。ここで的確な返答を得られたとて、実はまだ安心できない。反省と復唱は違うと教えてあげるべきだ。単語の一つ一つから、どんなに些細なことであろうと入念に確認するといい。問題は、頭が弱いためにオーバーヒートし兼ねないことだ。さらに、苛々を募らせて余計に悪化する。こうなってはどうしようもない。一旦諦める他は無い。頭に難があれば、冷静に考えることが苦手でも仕方が無いのだ。
と言ってみたものの、以上のことが実際に仕方ないと思えるだろうか。自分の意見が何一つとして相手に伝わらず、相手は正しいと盲信しながら混沌とした意見をぶつけてくる。はっきりいって会話が成り立たない。関係を保ちたいと願うならば、潔くこちらが妥協するしかない。相手が語り、こちらが語り、そう繰り返されても、会話でないことは多い。こちらがどのように切り口を変えても、相手に分からない言葉は永久に伝わらない。
おそらく、ある程度の偏差値と知能指数さえ持っていれば、上記の全てに当てはまる人間はまずいないと思う。あくまで、思い込みの域は出ないのだが、少なくとも会話が成り立つのではないだろうか。驚愕を齎す事実だが、実際に全てが当てはまる人間は、俺の周囲に存在する。これはもう、義務教育が甘いのではなかろうか。多分、低い知能では十年学んでも思考力が身につかないのだと考える。英単語や漢字、歴史の年号や数式を覚えることは誰にでも可能だ。これらは問いに対し明確な答えが用意されている。反復練習の積み重ねで、身につくまでの時間こそ個人差はあれど、最終的には絶対にマスターできる。問題は答えの無い物事に対する考察だ。俺は教育者ではないので、それがどうやって身につくものかは分からない。だが、教育、学習により身につくものだとは思っている。なので、やはり義務教育を徹底すべきだと考える。卒業には試験を設けるといい。筆記の他に口答試験もだ。これをクリアしさえすれば、今まで通り卒業とし、無理ならば最大で十年間の留年制度を設けるべきだ。当然、義務教育なので学び続けるほかは選択肢が無くなる。
浅はかな考えを真剣に延べるのは可愛げがあって良いが、話が通じない人間は実に不愉快だ。なので俺は、こういった無謀な方向性を夢想する。こんな制度が実現すれば、多様な供給が枯渇し、国ごと荒廃してしまいそうだ。まぁ、それは無理なので、知能が人並みの人と、偏差値が低過ぎる人は、頼むから勉強して欲しい。知識ではなく、考える力を養ってくれると善い。同じ言語を話す人間同士なのに、これほどやきもきするのは嫌だ。結果として、今まで俺は何人の人間を切り捨ててきただろう。悪いタイプのバカは心から願い下げだ。バカならバカなりに、良いバカになって欲しい。向上心があり、人の話を一生懸命理解しようと努める。そんなバカは、いや、それはきっと本当に賢い人間だろう。俺は決して賢く無い。なので全能の言葉は残念ながら知らない。どうすれば、理解出来ない人間に、理解させることが可能であるかも知らない。しかし、少なくとも俺は、自分の発言通りに努めてはいる。茶化している時は別だが、真剣な時は根底の真面目さが露呈する。
そうだ。俺に見透かされているような気がすると言う人達へ。実際、見透かしてる。全部ではないけど、俺は他人の一挙一動を決して見逃さない。たとえ相手が気分を害すると分かっていても、許せない間違いは指摘する。まぁそこから、この記事は始まるわけだ。あと考えは説得で曲げるけど、信念は揺るがない。頑固者だから。それに、見下してる奴の意見は耳に入らない。こういうと最低に聞こえるね。だけど、俺に見下されたり、決別されるのってよっぽどだよ。基本的に頭の悪い奴のが好きだもん可愛らしいから。だから、よっぽどのことが無い限り、俺に嫌われるのは難しいんだよ。だって基本的に人間好きだからね。ほとんど全ての人間を尊敬してるからね実際に。良いところ、自分に無いところを見ると、凄いなぁって、その都度見直すよ。つまり、俺に嫌われる奴はそうとう頭悪いと思ってくれて構わないよ。
最後に。この文章はまったく推敲せず、気分に任せて書き殴ったので、整っていないよ。でもまぁ、いつものことだから分かるよね。PCの(たぶん)CPUが半壊して、ずっと五月蝿い異常音を出してて、いまいち集中できないんだよ。叩くと止まるんだけどね。音と共にPC自体が。
まぁ君も自己弁護に徹している時は結構あるし、俺もあるし
300万部売れてベストセラーになったバカの壁を読めば大体わかる話だと思うし
ウィドゲンシュタイン的には人は自己の主観からしか物事を考えられず客観は存在しないらしいし
それぞれがそれぞれの考えを持っていて、それに干渉し合わず尊重し合えばいいんじゃないかな
頭が弱いと言っても健常者だからね
理解とは、1+1の積み重ねであり、1+1なら誰でもわかる事であり
そして頭が悪いと自他共に認めるような人でも
自分の嗜好物に対してなら人並以上の理解をもっている
とどのつまり理解しようと思えば理解できる
君の言う事を理解しない、聞かないのは、頭が悪く理解できないからではなく
興味が薄いから聞きたくない
自己が否定される要因が入っていて不快
が双方を隔絶させている原因だと個人的には思う
>>理解とは、1+1の積み重ねであり、1+1なら誰でもわかる事
文章中でも述べていると思うが、1の説明を積み重ねるほど根気は無いんだよ、喋る側も、聞く側もね。時間も無いし。
自己弁護に徹するのは絶対悪じゃないよ。時には弁護も必要だからね。問題は内容。嘘と話の飛躍だけで塗り固められた言葉を、どう理解すればいいの?ってことさ。「それは分かったから・・・」と言って他の言葉を求めても、全く同じ内容が返ってくるというデジャヴだね。
>>自己が否定される要因が入っていて不快
それは俺だね。むやみに否定されるの大嫌いだからね。
だからといって、すぐ怒ったりしないよ、極限まで冷静に物事を処理しようとするよ。
同じ失敗を3回以上続けて繰り返されると拒絶するんだよ。俺は何よりも自分に寛容だし、相手にも寛容なほうだと思うよ。
くくく、詳しく