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国宝・重要文化財:京都 青蓮院、三十三間堂 豊国神社

2021-03-31 09:07:15 | 旅行

 

国宝・重要文化財:京都 青蓮院、三十三間堂 豊国神社 National Treasure / Important Cultural Property: Kyoto Seiren-in

青蓮院は、京都市東山区粟田口にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する。山号はなし。開山は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来である。現在の門主(住...

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青蓮院は、京都市東山区粟田口にある天台宗の寺院。青蓮院門跡とも称する。山号はなし。開山は伝教大師最澄、本尊は熾盛光如来である。現在の門主(住職)は、東伏見家(旧伯爵家)出身の東伏見慈晃。
青蓮院は、梶井(現・三千院)、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である(天台三門跡)。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王・入道親王(皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶)が門主(住職)を務め、格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
国宝
絹本著色不動明王ニ童子像 - 「青不動」と通称される平安時代後期の仏画。奈良国立博物館に寄託されていたが、2014年(平成26年)10月に飛地境内の将軍塚に大護摩堂「青龍殿」が完成し、同所にて10月から12月まで開帳された。園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに三不動といわれている。現在、青龍殿に祀られているものは複製品であり、国宝本体は青龍殿奥殿に安置されている。
重要文化財
木造兜跋毘沙門天立像
金地著色浜松図 17面(うち1面盗難)
後光厳院宸翰消息(九月十日)
紺紙金泥大灌頂光明真言(光格天皇宸翰)
解深密経 巻第四(げじんみっきょう)(金砂子色麻紙)
門葉記 122巻(附:同写本149冊)
夜鶴庭訓抄
往生要集 上中下 3帖 承安元年僧弘恵書写奥書
観音応験記
八家秘録及び諸真言目録 10帖 寛治五年僧勝豪書写校合奥書
慈円一期思惟記(自筆本)
青蓮院吉水蔵聖教類(しょうぎょうるい) 1,622種
円仁自筆書状(十一月二十四日)
皇慶附嘱状1通・皇慶起請1通 永承三年
円仁入唐請来書目録 嘉承三年僧院昭書写奥書
慈円自筆四天王寺聖霊院願文案

三十三間堂は京都府京都市東山区三十三間堂廻町にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院の名称は千手観音の別称「蓮華王」に由来する。
この地には元々、後白河上皇(1127年 - 1192年)が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂としての三十三間堂である。上皇が眠る「法住寺陵」は三十三間堂の東隣にある[2]。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称されている堂であり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平清盛の父の平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音を祀る得長寿院千体堂(三十三間堂、文治地震で倒壊したとされる)を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進により寺院を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。

豊国神社は、京都市東山区に鎮座する神社。神号「豊国大明神」を下賜された豊臣秀吉を祀る。豊臣家滅亡とともに徳川家康の命により廃絶となったが、のちに明治天皇の勅命により再興された。
主祭神の居城があった大阪市中央区の大阪城公園や滋賀県長浜市のほか、出身地の名古屋市中村区などにも豊臣秀吉を祀る豊国神社が存在している。
慶長3年8月18日(1598年9月18日)に亡くなった豊臣秀吉の遺体は火葬されることなく伏見城内に安置されていたが、死去の翌年の慶長4年(1599年)4月13日、遺命により東山大仏(方広寺)の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬され、その麓に高野山の木食応其によって廟所が建立されたのに始まる。廟所は秀吉の死後間もなく着工されたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していた。この鎮守社は北野社に倣った八棟造りだったと『義演准后日記』慶長3年9月7日条に記されている。秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言したといわれる。「大仏の鎮守」として着工された社は、秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになる。
慶長4年(1599年)4月16日、朝廷から秀吉自身の望みとは相違して豊国乃大明神の神号が与えられた。『豊国大明神臨時祭礼御日記』によれば日本の古名である「豊葦原中津国」を由来とするが、豊臣の姓をも意識したものであった。神号下賜宣命には豊国大明神は兵威を異域に振るう武の神と説明されている。4月18日に遷宮の儀が行われ、社は豊国神社と命名された。4月19日には正一位の神階が与えられた。なお、豊国神社は豊臣秀頼の希望により大坂城内にも分祀された。秀頼自身は本社創建の際には参列しておらず、慶長16年(1611年)の二条城訪問の折に最初で最後となる参拝を行っている。大明神号となったのは、八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説や、反本地垂迹説を掲げる吉田神道による運動の結果とする説がある。


世界遺産:メキシコ チチェン・イッツァ遺跡

2021-03-29 19:38:15 | 旅行

 

世界遺産:メキシコ チチェン・イッツァ遺跡 World Heritage Site: Chichen Itza Ruins, Mexico

チチェン・イッツァは1988年に世界遺産に登録されたメキシコ南部のユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡。チチェン・イッツア、チチェン・イツァーと...

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チチェン・イッツァは1988年に世界遺産に登録されたメキシコ南部のユカタン半島にあるマヤ文明の遺跡。チチェン・イッツア、チチェン・イツァーとも表記する。
ユカタン半島のユカタン州州都メリダの東、約120キロメートルにある後古典期マヤの遺跡で総面積は約1.5平方マイル。半島のつけ根の密林にある。現在、高速道路により分断されているが、北部はトルテカ期、南部にはプウク期の建物が残っており、南北での町の構成がはっきりと違いを見せている。
チチェン・イッツァとはマヤ語で「聖なる泉のほとりの水の魔法使いを意味する。
古典期を代表するティカルなどのマヤ中央部の諸都市は9世紀に崩壊して、ほとんど無人に近い状態になり、後古典期には北部と南部高地に人口が集中した。チチェン・イッツァは北部マヤの中心地であるが、その遺物は中央メキシコ(トルテカ)の強い影響を受けて、マヤとメキシコの混合した国際的な特徴を示す。
プウク式の建物に残る碑文は多くカクパカル・カウィール(在位869-881ごろ)に関連する。
13世紀以降になるとチチェン・イッツァは衰退し、中心地は西のマヤパンに移るが、マヤパンもシウ家の攻撃によって1441年ごろに放棄された。チチェン・イッツァがいつ滅んだかは不明だが、セノーテ(井戸)はスペイン人による植民地化の後も長く巡礼地として機能した。


世界遺産:京都 東寺

2021-03-28 16:57:19 | 旅行

 

世界遺産:京都 東寺 World Heritage Site: Toji Temple, Kyoto

東寺は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、総本山である。教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名...

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東寺は、京都市南区九条町にある東寺真言宗の寺院。東寺は真言宗の根本道場であり、総本山である。教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる(名称については「寺号」の節を参照)。本尊は薬師如来。寺紋は雲形紋(東寺雲)。
東寺は、平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界遺産に登録された。
8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから二十数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。
東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。
中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
なお、東寺の執行は代々に渡って空海の母方の叔父である阿刀大足の子孫が、弘仁14年(823年)から1871年(明治4年)まで務めた。
1934年(昭和9年)3月13日に史跡に指定され、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録された。

五重塔(国宝)
国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。北にある池は瓢箪池と言い五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。


日本の桜:コロナ禍でも満開の近場の桜と春の花々

2021-03-27 19:03:17 | 旅行

 

日本の桜:コロナ禍でも満開の近場の桜と春の花々 Japanese cherry blossoms: cherry blossom in full bloom even in the corona

撮影映像日は2021年3月26-27日。 横浜市神奈川区内の桜や春の花々は、美しく満開の花を咲かせています。この映像で少しでも 癒されれば幸...

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撮影映像日は2021年3月26-27日。
横浜市神奈川区内の桜や春の花々は、美しく満開の花を咲かせています。この映像で少しでも
癒されれば幸いです。私を含め皆様もコロナ感染に注意を。


天然記念物 日本五大桜 三春の滝桜 神代桜 淡墨桜 石戸蒲ザクラ 狩宿の下馬ザクラ

2021-03-26 21:21:40 | 旅行

 

天然記念物 日本五大桜 三春の滝桜 神代桜 淡墨桜 石戸蒲ザクラ 狩宿の下馬ザクラ

三春滝桜は、福島県田村郡三春町大字滝字桜久保(地図)に所在する推定樹齢1000年超の国の天然記念物の枝垂れ性のサクラの巨木。三春の滝桜、また...

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三春滝桜は、福島県田村郡三春町大字滝字桜久保(地図)に所在する推定樹齢1000年超の国の天然記念物の枝垂れ性のサクラの巨木。三春の滝桜、また単に滝桜とも呼ばれる。品種はエドヒガン系の栽培品種のベニシダレ(紅枝垂桜)。
日本五大桜または三大巨桜の1つとして知られる。2012年時点で推定樹齢1000年超、樹高12m、根回り11m、幹周り9.5m、枝張り東西22m・南北18m。
三春町の滝地区に所在すること、毎年4月中・下旬に四方に広げた枝から薄紅の花が流れ落ちる滝のように咲き匂うことから、この名がある。毎年全国から30万人の観光客が訪れる[1]。
天保の頃、加茂季鷹の詠歌「陸奥にみちたるのみか四方八方にひびきわたれる滝桜花」によってその名を知られ、三春藩主の御用木として保護された。

日本三大桜:神代桜(山梨県)天然記念物
神代桜は、山梨県北杜市武川町山高の実相寺境内にあるエドヒガンザクラの老木である。国指定の天然記念物であり、天然記念物としての名称は山高神代ザクラ(やまたかじんだいざくら)である。樹齢は1800年とも2000年ともいわれ、日本五大桜または三大巨桜の1つであり、1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物に、1990年(平成2年)6月に新日本名木百選(大阪市と読売新聞社の企画)に指定された。
日本武尊が東征の際にこの桜を植えたといわれており、13世紀の鎌倉時代に日蓮が樹勢の回復を祈願したとの伝説がある。
1922年(大正11年)には国の天然記念物に指定された。当時は、高さ13.6m、枝張り東西27.0m、南北30.6m、高さ1.5m地点の幹回りは10.6mあり、衰えが見られたとはいえ現在と比べればかなり樹勢はあった。しかし1930年(昭和5年)に撮影された写真で、1907年(明治40年)に撮影された写真と比べて神代桜の高さや枝張りが小さくなっていることが確認されており、1948年(昭和23年)には「あと3年で枯れる」と言われ、1951年(昭和26年)に撮影された写真では南側に張り出していた太い枝が枯死してさらに神代桜が小さくなっていたことが確認されている。1959年(昭和34年)には台風でさらに太枝が折れてますます小さくなり、1984年(昭和59年)には、ついに幹の上に保護用の屋根がかけられるようになった。

日本三大桜:淡墨桜
淡墨桜とは、岐阜県本巣市の根尾谷・淡墨公園にある一本桜。樹齢1500年以上のエドヒガンの古木である。日本五大桜または三大巨桜のひとつ。国の天然記念物である。


日本五大桜:石戸蒲ザクラ(埼玉県北本市)
石戸蒲ザクラは、埼玉県北本市石戸宿にあるカバザクラの古木である。東光寺の境内にて生育している。
1922年(大正11年)10月12日、国の天然記念物に指定された。また、日本五大桜の1本に数えられている。2000年(平成12年)5月5日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。


日本五大桜:狩宿の下馬ザクラ(静岡県富士宮市)
狩宿の下馬ザクラは、静岡県富士宮市にある一本桜。日本最古級のヤマザクラであり、正式な和名はアカメシロバヤマザクラという。国の特別天然記念物であり、日本五大桜の1つ。
1193年(建久4年)に源頼朝が富士の巻狩りを行った際にこの場所に立ち寄ったという伝承から、「狩宿の下馬ザクラ」と呼ばれる。またこの桜に馬を繋ぎ止めたという伝承から駒止めの桜という別名も存在する。樹齢は800年を越える老樹であり、開花時期は4月中旬である。
1922年(大正11年)10月12日に国の天然記念物に指定され、1952年(昭和27年)3月29日には特別天然記念物に指定された。また当桜から望む富士山の風景は、環境省が公開した「富士山がある風景100選」に選定されている。