甲斐の国・山梨に生まれて幼児期を過ごし、親の転勤に伴い東京・世田谷で小学校に入った。国民学校4年まで世田谷、5年生の4月から縁故疎開で再び父母の故郷である山梨で学ぶことになった。
山々に囲まれた甲府盆地で育ったけど、それらの山に登って記憶はない。一つだけ、復員してきた父が彼の生まれた家からすぐ前に見える山に一緒に登った覚えがある。
大蔵経寺山(715.6m)に案内してくれた。岡部村松本集落の小さな祠から藪こぎで頂上へ。尾根伝いに延びる防火線を歩いたが、途中で足がいたくなり横根の開拓村へ降りてしまった。
翌年、妹と隣家の友と3人で同じルーとを辿り、甲府市の北にある帯那山(1422.3m)まで歩き昇仙峡に下山した。
これが私にとって初めての山歩きであった。
故郷の山は遠きにありて思うもの==以後は就職で上京してからの山歩きである。上った山々の記録を辿ってみたい。
【山梨県内編】
御坂山系・鬼ケ岳(1738m)~節刀ケ岳(1736m)=単独行
富士五湖の一つ西湖畔の根場集落から鍵掛峠へ、御坂山系の稜線伝いに二つの峰を越えて大石峠(1527m)から上芦川へ降りた。
南八ヶ岳・硫黄岳(2760m)~横岳(2829m)~赤岳(2899.2m)
=教会の青年会の3人=1958年8月
小海線小海駅からバスで稲子湯へ。本沢温泉を経て夏沢峠から硫黄岳を越えて石室に泊まる。横岳の大同心、小同心と鎖場も無事通り抜け赤岳から県境尾根を清里へ下る。
富士山(3775.6m)=1959年7月、職場の友人と2人
夜勤明けに新宿から富士吉田へ、4駆バスで5合目の古御嶽神社へ。夜中に吉田口登山道を登り明け方に山頂へ。火口壁の雪渓を底の金明水、銀明水を覗き、お鉢を回り御殿場登山道で宝永火山脇の砂走りを下る。
甲斐駒ヶ岳(2965.6m)=職場の仲間と2人。
夜行列車で飯田線伊那市駅へ、始発バスで終点の戸台まで。戸台川の河原を遡上、赤河原分岐から八丁坂を詰めて北沢峠を越えて北沢長衛小屋に泊まる。翌日は雨模様の中を仙水峠から尾根伝いに駒津岳、六万石を経て山頂を探す。無人の七合目小屋に泊まる。雨上がりの翌日は黒戸山(2258.7m)やナイフエッジを越えて柳沢の駒ケ岳神社に下山。
鳳凰三山・薬師岳(2787m)~観音岳(2840.4m)~地蔵岳(2764m)
=会社の仲間(先輩女性と後期入社の男性)との3人。
芦安村桃ノ木鉱泉に泊まった翌日、夜叉神峠から大崩頭山、辻山(2584.7m)と南アルプス前衛の稜線を辿り南御室小屋まで。翌朝は小屋の裏から急登して薬師岳へ、野呂川越えの白根三山を眺めながら花崗岩の上で朝飯を作ったのが忘れられない。観音、地蔵(オベリスクは根っこで眺めただけ)と辿り鳳凰小屋泊り。ラジオの気象情報を聞いて天気図をつけることで有名な小屋の主人の甲州弁を通訳したり。翌日はドンドコ沢の急な道を下りて青木鉱泉に泊まる。
三つ峠山(1785.2m)=父と幼稚園児の娘と3人で。
旧道の御坂峠トンネルの東口から少し林道に車を止めて、歩き出す。娘は先の登ってしまったが、高齢の父はゆっくりと。
大菩薩嶺(2056.9m)
=1979年6月、会社の山歩き好きの仲間と。
大阪在勤4年から本社勤務となって最初の山行。塩山からバスで終点の裂石へ。みそぎ沢沿いの山道を丸川峠へ、草場で昼食。大菩薩嶺からの富士山を遠望、大菩薩峠から長衛小屋に泊まる。峠付近で記念写真を撮ったとき、〝こんなに女性がいたっけ”と言ったのが話題になり、グループ名を「もどき会」と呼ぶことに(女もどき/男もどき?)。翌日も急坂の草原を再び大菩薩嶺へ、峠から東へ伸びる尾根を下り、白糸の滝を経て小菅村のバス停へ。
甘利山(1671m)~千頭星山(2138.5m
=会社の仲間4人(小学生1人) ツツジが綺麗でした。
= 続く =
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