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ラジオ深夜便79・・・明日への言葉;南木佳士氏

2020年04月02日 16時25分44秒 | ラジオ深夜便

4月1日朝4時台のNHKラジオ深夜便は、医師で芥川賞作家の南木佳士へのインタビュー。

南木佳士氏の経歴等は次の通り。

昭和26年(1951年)群馬県嬬恋村に生まれる。3歳のときに教師であった母親を失うが、秋田大学医学部を卒業して医師となる。68歳の今も嬬恋村に近い佐久総合病院内科に勤務、作家活動も続ける。

昭和56年(1981年)、難民医療チームに加わってタイ・カンボジア国境に赴いている最中書いた小説「破水」にて第53回文学界新人賞を受賞。

昭和60年(1985年)、軽井沢病院内科医長として一年間出向し、この病院が舞台の小説『ダイヤモンドダスト』で第100回芥川賞受賞。

平成2年(1990年・38歳)、呼吸器科医として、肺ガンで死んでいく患者を多く看取りすぎた心労が原因でパニック障害を発症、うつ状態になるが、うつ病のリハビリのために小説「医学生」を書く。そして、平成13年(2001年)10月、50歳の誕生日に登山靴を買い山歩きを始め、うつ病を克服する。

平成14年(2002年)小説「阿弥陀堂だより」が映画化される。

 

南木佳士氏の作品は、自身の体験をモチーフにした私小説と言われる。とくに「阿弥陀堂だより」は映画とテレビで2回観た感動の作品である。

「阿弥陀堂だより」は、東京の暮らしに疲れ果てた一組の夫婦が、大自然の暮らしの中で再生していく姿を描いたヒューマン・ドラマで、主演の寺尾聰と樋口可南子の夫婦の味が今でも忘れられない。

インタビューの中で末期がん患者にモルヒネの使用について語られていたのが印象的だった。本人が痛みに耐えられず苦しんでいる。家族は何とかしてという。モルヒネの量を多くすれば痛みは和らぐが、どんどん安楽死に近い状態になる。医者として家族の言うとおりにしていいのか悩む。

がんの告知は今でこそ本人に伝えられるようになったが、以前は本人に知らせないことも多かった。昭和47年に私の妻が末期のガンで亡くなった時も、本人には最後まで言わずじまいだった。

それから南木佳士氏はうつ病に悩まされ、自分の死を考えたこと、精神科の同僚のサポートを受けつつも執筆活動と山歩きでうつを克服したことも強い刺激を受けた。

私自身、うつ状態になった経験がある。昭和63年郷里浜松から転勤する話があった時、長男の大学入学、二男の高校受験、横浜の家の建て替え等が重なり体調を崩した。この時、大学病院で処方されたうつ状態の薬を1回飲んだが合わず、1ケ月会社を休んだがすぐ職場復帰した。この時は死を考えたが、亡き妻に約束した「息子二人を大学出すまでは頑張る」という言葉が蘇り自死を留まった。

その後も極めて短期うつ状態の経験が2度あったが、いずれも1~2ケ月程度で元通りの生活が出来るようになった。好き勝手して生きて来た私は、父親として夫として、家族に対してすまない気持ちが強くなるとうつ状態に陥りやすいようだ。

南木佳士氏が話していた「心身がタフでないとダメ」という言葉が耳に残る。しかし、こうしていい家族に囲まれ、いい友人知人と交流出来て、好きなことをして、申し分のない人生を歩んでいる。過去のことを悔やんだり、自分のことを責めても仕方がないと思うようになったら、気持ちが楽になった。

 

 

 

 

 



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