動機付けというのは、中々難しい。
逆説的には、治療が進まない場合にしばしば取り上げられるのが「動機付け」だという気がする。
普通は、動機付けはインフォームドコンセントや治療教育中になされる事が多い。その場で「よーしやっていこう」となって、まあその後も面接中にチョコチョコ修正したりしながら、めでたく治療終了まで持っていく。そういう面接においてはあんまり動悸付けが取りざたされない。
途中修正を要する時とは、課題がなされていない時とか、面接に変更や遅刻やキャンセルが多いときだろうか。つまりCBTのカウンセリングそのものを扱う必要が生じた時だ。ここをどう扱うかで治療者としての何かが問われる部分だと思う。
まず「扱わない」というのは論外だろうと思う。それはCBTの持つ構造化の利点を放棄するという事に等しい。
そこで問題は「どの程度扱うか」という事になる。「多量に(きっちりたっぷり)扱う」から、「少量に(やんわりと)扱う」まで、趣味が分かれるところだろう。
多量に扱う事は、普通に考えて「嫌味」になりがちだと思う。もう二度と課題を忘れない可能性がある一方で、もう二度と面接に来ない可能性もある。
「CBTでうまくいく人だけをCBTで扱う」事が目的の人には別にこれで良いだろうが、それは私の主義とするところでは無い。
家族療法などではここで「治療者側の課題の出し間違い」である事を強調せよと書いてあるが、それだって十分に嫌味だ。
少量に扱う時、やはり前述の構造化の放棄の危険性をはらんで来る。あるいは治療が進まず、いわゆる「なあなあ」で面接回数がかさむ。
私は面接中にコラムを書いてもらう事はほとんど無いが、面接中にホームワークを手伝うという治療者もいる。それもそれで1つのやり方だろう。
とりあえず教科書の思惑通りにCBTが進む事は万に一つも無いので、あれやこれやとオンデマンドに変更しながら、なんとか治療に乗せていく率を上げるというのが難しいと思う。
最近はのらりくらりとだましだましでも治療に乗せていけるようになって、結果昔より脱落が減った気がする。つまり「なあなあ」が上手になった(いい意味で)。
私が上手だと思う先輩・師匠筋の人は皆ぬらりひょん(いい意味で)のように、しれっと粘り強い感じがあるので、見習っていきたい。
逆説的には、治療が進まない場合にしばしば取り上げられるのが「動機付け」だという気がする。
普通は、動機付けはインフォームドコンセントや治療教育中になされる事が多い。その場で「よーしやっていこう」となって、まあその後も面接中にチョコチョコ修正したりしながら、めでたく治療終了まで持っていく。そういう面接においてはあんまり動悸付けが取りざたされない。
途中修正を要する時とは、課題がなされていない時とか、面接に変更や遅刻やキャンセルが多いときだろうか。つまりCBTのカウンセリングそのものを扱う必要が生じた時だ。ここをどう扱うかで治療者としての何かが問われる部分だと思う。
まず「扱わない」というのは論外だろうと思う。それはCBTの持つ構造化の利点を放棄するという事に等しい。
そこで問題は「どの程度扱うか」という事になる。「多量に(きっちりたっぷり)扱う」から、「少量に(やんわりと)扱う」まで、趣味が分かれるところだろう。
多量に扱う事は、普通に考えて「嫌味」になりがちだと思う。もう二度と課題を忘れない可能性がある一方で、もう二度と面接に来ない可能性もある。
「CBTでうまくいく人だけをCBTで扱う」事が目的の人には別にこれで良いだろうが、それは私の主義とするところでは無い。
家族療法などではここで「治療者側の課題の出し間違い」である事を強調せよと書いてあるが、それだって十分に嫌味だ。
少量に扱う時、やはり前述の構造化の放棄の危険性をはらんで来る。あるいは治療が進まず、いわゆる「なあなあ」で面接回数がかさむ。
私は面接中にコラムを書いてもらう事はほとんど無いが、面接中にホームワークを手伝うという治療者もいる。それもそれで1つのやり方だろう。
とりあえず教科書の思惑通りにCBTが進む事は万に一つも無いので、あれやこれやとオンデマンドに変更しながら、なんとか治療に乗せていく率を上げるというのが難しいと思う。
最近はのらりくらりとだましだましでも治療に乗せていけるようになって、結果昔より脱落が減った気がする。つまり「なあなあ」が上手になった(いい意味で)。
私が上手だと思う先輩・師匠筋の人は皆ぬらりひょん(いい意味で)のように、しれっと粘り強い感じがあるので、見習っていきたい。