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日光の手前の今市の街

伝説と愛情の起こる街

30.妹・川上慶子と私の三十年

2015-08-09 17:25:17 | エッセイ

妹・川上慶子と私の三十年

(あの絶望を越えて妹と歩んだ歳月と、御巣鷹山に消えた父、母、末妹)

 文芸春秋九月特別号に掲載された、川上千春氏の手記である。読んでいるうちに涙ぐんできた。1985年8月12日「日本航空123便」群馬県の御巣鷹山に墜落。五百二十人の尊い命が奪われた、痛ましい事故。それから三十年経ってからの手記である。

 

 そのジャンボ機には私の父親栄治(当時41歳)、母親和子(39歳)、そして慶子(12歳)咲子(7歳)が乗っていた。慶子は奇跡的に助かったが、両親と咲子は亡くなりました。

 

 ここまで読んで私の記憶が蘇ってきた。

―ヘリからのロープに、抱きかかえられた、空中の川上慶子さんを・・・ー

私の脳裏に鮮明に残っている。

自衛官に抱きかかえられ項垂れている少女の映像・・・

当時それを見て、良かった、本当によかったと・・・そしてなぜかせつない気持ちになったのである。

 

 川上千春氏の手記はつづく、

 事故以降、私は、当事者である慶子以上に精神的に不安定だったと思います。人生なんてどうでもいい。いつ死んだっていい。そう捨て鉢になって生きてきました。

事故と正面から向き合って自分で整理ができるまでに、30年という月日が必要だったのかもしれません。

現在、私は3人の子供たちに囲まれて、島根県で暮らしています。かつて、両親、私、慶子と咲子の5人が暮らしていた家に、今は私の家族が住んでいます。そして、慶子も同じく三児の母親として子育てに奮闘しています。

慶子とは、両親と咲子と過ごした時のことを語り合ったことはありません。しかし、川上家が3人兄妹だったことは、口に出さなくても、私たちの中では大切なことだったのです。

事故のことを話したこともありませんが、もしかしたら、慶子はまだ、あの事故について心の整理が出来ていないかも知れません。事故に遭い、目の前で家族が死んでいくという経験は私の想像を絶しています。慶子の脳裏には、今でも、あの日の事が鮮明な映像として残っているのでしょう。忘れようと思っても、決して忘れられない出来事であり、それについて語ることが慶子にとってどんなにつらいか、私にはよくわかります。

私だけ旅行に行かなかった

 父、母、慶子、咲子の4人が北海道旅行に行ったその日の事は、今でもよく思い出します。1985年の夏休みの真只中、私は中学2年生でした。みんなで計画していた北海道の家族旅行。結局、私だけが行きませんでした。

 当時、私は野球部に入っており、両親には「部活の練習があるからいけない」といったのでした。

 

 4人は札幌、小樽、襟裳岬、知床岬など北海道を一周する団体旅行に参加していたようで、両親は頻繁に電話をかけてきて、旅行の様子を報告してくれました。

(文芸春秋に12ページにわたって詳しく語られております。この文章は抜粋してます。)

 

 事故当日の8月12日の夕方、私と祖母は家にいました。辺りが暗くなり始めたころ、自宅の電話が鳴りました。祖母が受話器を取って、喋っています。祖母の緊迫した表情と会話の内容から、何か異常事態が起こったことだけはわかりました。

「4人が乗っている飛行機が行方不明になったって・・・?」

 

家族4人の安否が解らぬまま、高齢で持病があった祖母を家に残し、私は二人の伯母と一緒に翌日、朝一番の飛行機で出雲空港から羽田空港に飛びました。

また、大阪からはもう一人の伯母が、母の実家がある鹿児島からは伯父たちが羽田空港に駆けつけました。

ホテルでテレビのニュースでは飛行機の墜落現場は「御巣鷹山」だということを知りました。

そして、飛行機機体の残骸の中から慶子が救出されている瞬間の映像をみたのです。

 

慶子が無事だった・・・

 

思わず胸を撫で下ろしたが、 残る三人に関する情報はまだありません。

 

病院に到着したのは夕刻でした。

直ぐに病室に入り、ベットに横たわっている慶子と面会しました。

慶子は右手を負傷していました。意識はありましたが、相当辛そうにしていて、二言三言しか交わすことができません。

慶子は両親と咲子の安否をきにしていました。私は、「いや、まだわからん」と答えました。

救出されていないのだから、「もう助からないだろう」と思いながらも、慶子にはそう伝えることはできませんでした。

 

 翌日、伯母たちと一緒に遺体が安置されている藤岡市民体育館に向かいました。

しかし、伯母はこう言いました「千春は見ないほうがいい」伯母たちが遺体の確認をしている間、私は外で待っていました。そして、伯母たちがもどってきて、三人の遺体を確認したと告げられたのです。

 その時、私は何を思ったのか。三人が死んでしまったという事実を慶子にどのように伝えたのか。実は、その記憶はほどんとありません。それから数日間、私は群馬に滞在したのだと思いますが、その間何をしていたのかさえ思い出せないのです。

―そして千春氏は語るー

 

 あとになって分かったのですが、4人は「123便」にキャンセル待ちを使って乗っていました。最後尾の並び4席にキャンセルが出て、すべりこんだのです。最後尾だったことで、慶子は命拾いすることになったのですが、一方で、もし私が旅行に一緒に行っていたなら、5席が必要だったから、「123便」に乗らずに済んだかもしれない・・・。そんなことを考えたりもしました。

 また、伯母たちが「慶子が事故直前にこんな証言をしていた」と話していたことを覚えています。〈堕ちた時は真っ暗で、お父ちゃんや咲子はまだ生きていた。3人で声をかけて励まし合ったが、やがてお父ちゃんの体が冷たくなった。咲子も何か吐き出すような音を出した後、冷たくなった〉

 救出があと少し早ければ、みな、助かったかも知れないというのです。私は「運命」というものの残酷さに押しつぶされそうでした。

※この辺まで読んでくると、もういけない。胸の中には涙が湧き出てくる感じである。それは、やるせなさから来る悲しみである。

まだ手記は半分以上残っている。涙が目に来ないように心を落ち着かせ、前に進みます。

 

 

 ―千春氏は語るー

 

 しかし、私と慶子の両親はもうおらず、二度と戻ってこない。どんなに頑張ってみても、その喪失感を埋めることはできませんでした。

 この頃から、事故の生存者4人のうちの1人である慶子は、マスコミの取材攻勢に頭を悩ませることになります。自宅の周りには、常に何人ものカメラマンがいましたし、中学校の通学路で記者に待ち伏せもされました。過酷な事故の経験に加えて、相当なストレスになっていたと思います。

 両親と咲子の話は絶対にしませんでしたし、テレビに事故のことが映ればチャンネルを変えました。事故に関するものは意図的に遠ざけていました。

母に贈った詩

 一方の私は高校では進学クラスに入り、部活は文芸部に所属していました。慶子と一緒に御巣鷹山に登った高校1年生の秋口のことです。島根県で『お母さんの詩コンクール』というイベントが開催されました。文芸部の先生に「川上君、出してみんかね」と言われたので、母の思い出と事故の描写をまじえた詩をつくって応募しました。タイトルは『僕の宝石』。私なりの思いを込めた詩でしたが、なんと、これがコンクールの最優秀賞に選ばれたのです。天国の両親も喜んでくれたのではないかと思っています。

 

 私は、ふと、こんなことを思いました。

 慶子の長男はもう小学5年生で、気がつけば、咲子よりも随分と年上になっています。私の長男も今年、咲子と同じ7歳になります。そして、今年で私は44歳、慶子は42歳を迎えます。父親は41歳9か月で亡くなっているので、今年で私たち兄妹は2人とも親の年齢を超えることになるのです。なんだか不思議なようで少しだけ、照れくさいような感じもします。

 30年目を迎えた今夏、私は3人へ向けた手紙を書きました。この先、何年経っても私たちはずっと家族です。3人は私の手紙をきっと読んでくれるでしょう。そして、これからも、私たち兄妹と、その家族を見守ってくれると信じています。

 

 

※川上千春さん、慶子さん、人生はまだ半ばです。残りある人生幸多かれと願わずにはいられません。

2015年8月10日

川端 慎太郎 神々の国日光より


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2 コメント

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日航ジャンボ123便ソ連自衛隊核攻撃惨事 (アッキードF19で小沢一郎を撃退希望)
2018-08-21 21:33:47
日航ジャンボ123便ソ連自衛隊核攻撃惨事におけるJAL123便の元気な生存者が、日本の埼玉県警察の警察官(日本語で おまわりさん?)らの手により
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した

一方、救助に奔走したのは米国のみであった
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Unknown (アッキードF19で小沢一郎を撃退希望)
2019-05-07 06:39:37
日航ジャンボ123便ソ連自衛隊核攻撃惨事における たくさんのJAL123便の元気な生存者及び、ご搭乗の昭和天皇が、日本の埼玉県警察の警察官らの襲撃(日本語で おまわりさん?らの手により)により
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/ainugakuin/e0011938_16494167[1].jpg
といった惨憺たる虐殺死体と化した

一方、救助に奔走したのは米国のみであった


なお、米国機関で改めて調査を行ったところ、生存者の一部は、伊豆の達磨山の地下にヘリで連れていかれ、少なくとも十数年は生存していたことが新たに判明した
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