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けんいちの読みもの

好きなものについて書きたいことを書きます

【名馬物語】第5回 シーキングザパール

2020-03-18 23:30:00 | 名馬物語
先日、サウジアラビアのサンバサウジダービーCで武豊騎手が騎乗したフルフラットが勝ち、日本調教馬によるサウジアラビア初勝利となりました。
フルフラットは早くから海外遠征に目を向けていた森秀行調教師の管理馬。武豊-森コンビの海外遠征といえば、今回の主役、シーキングザパールです。


[外国産馬がゆえの「裏街道」]

父Seeking the Gold  母Page Proof(母の父Seattle Slew)
栗東・佐々木晶三厩舎→栗東・森秀行厩舎→米・アラン・E・ゴールドバーグ厩舎
牝 鹿毛

シーキングザパールは、アメリカのキーンランドで開催されたセールで購入され、日本にやって来ました。シーキングザパール=森厩舎のイメージが強いですが、実は当初、佐々木晶三厩舎の所属でした。
武豊騎手を鞍上に迎えたデビュー戦は小倉の芝1200m戦で、2着馬に1.1秒の大差をつけて圧勝。続く新潟3歳S(芝1200m)でも1番人気を集めますが、ここで後に有名となるアクシデントが発生。スタート直後に突然外側に逸走したのです。大きなロスとなりましたが、それでも後半追い上げて3着に食い込みます。

武豊騎手に逸走の真相を聞くと、「弁当買いに行きよったんです」と答えたそうですw

一躍、「おてんば娘」のイメージがついたシーキングザパールですが、続くデイリー杯3歳S(芝1400m)で圧勝。阪神3歳牝馬S(現・阪神ジュベナイルフィリーズ)でも1.5倍という圧倒的な人気に押されます。
ところがここでも人気を裏切る4着となり、「気性難」のイメージで定着していくことになりました。

当時の外国産馬はクラシック競走(皐月賞・ダービー・菊花賞・桜花賞・オークス)等への出走権が無かったため、トライアル競走ではない重賞レースは「裏街道」と呼ばれていました。
シーキングザパールはシンザン記念→フラワーC→NZT4歳Sで重賞3連勝。NHKマイルCへ駒を進めます。
今でこそお馴染みとなったNHKマイルCですが、元はダービーのトライアルレースとして行われていたG2「NHK杯」がモデルチェンジし、外国産馬も出走できる3歳限定のG1レースとして新設されたものでした。「裏街道」にもG1ができたのです。

「マル外ダービー」とも呼ばれた第2回NHKマイルCは、出走18頭中、12頭までもが外国産馬。「芦毛の怪物」と呼ばれ、有力候補と見られていたスピードワールド(大好きすぎる馬でした・・・w)が捻挫によって回避したことでシーキングザパールは圧倒的な人気となりました。
レースは中団から進めたシーキングザパールが直線抜け出し、ブレーブテンダー以下を振り切って快勝。

青嶋アナ「文句なし、名牝の道!」

牡馬混合のG1を勝ち切ったシーキングザパールは、春の牝馬クラシックをにぎわせた桜花賞馬キョウエイマーチ、オークス馬メジロドーベルとの決戦に挑むことになります。


[頂点と、適性を探す旅]

牝馬3冠の最終関門である秋華賞は、外国産馬にも出走が認められているレースでしたが、シーキングザパールに立ちふさがった壁は「距離」でした。

前哨戦のローズS(芝2000m)で桜花賞馬キョウエイマーチと初対決となり、シーキングザパールは1.4倍の一番人気に支持されますが、キョウエイマーチに逃げ切りを許しただけでなく、上り馬のメイプルシロップにも伸び負け、3着に敗れてしまいます。
さらにノド鳴りの症状が出たことで、手術に踏み切ることになり、秋華賞を断念することになってしまいます。

シーキングザパールがターフに戻ったのは翌年のシルクロードS(芝1200m)でした。短距離路線に活路を見出すことになったのです。
ここにはキョウエイマーチも出走していたほか、古馬の骨っぽいスプリンターが相手ということで、シーキングザパールは4番人気の低評価となっていました。しかし、マサラッキやシンコウフォレストら、後のG1馬を退けて快勝。見事に復活してみせました。

続く高松宮記念は一番人気に支持されますが、道悪で伸びきれず4着。続く安田記念はさらに悪い不良馬場となり、10着に大敗してしまいます。


[歴史の扉を開く]

復帰戦を絶好の形で飾ったものの、G1の舞台では馬場に泣く形で実力を発揮できず終わったシーキングザパールは、ベストの舞台を求めて海外遠征に向かいます。

ここで日本の馬による海外遠征について少し。
日本競馬は1981年に国際招待競走であるジャパンカップを創設し、世界に通用する馬作りを目指しました。ところが第1回のジャパンカップは、北米で重賞を勝っている程度の馬に1~4着を独占されるという衝撃的な結果。第2回も同様に外国馬に上位を独占され、日本馬による勝利は第4回のカツラギエースまで待たなければなりませんでした。
第5回のジャパンカップを勝った三冠馬・シンボリルドルフはアメリカに遠征を行いましたが、7頭立ての6着と完敗。「皇帝」と呼ばれたルドルフがこのような結果となってしまうと、当然ながらその後海外遠征にチャレンジする馬などなかなか現れませんでした。
その機運を高めたのは、他ならぬ森調教師でした。1995年の香港国際競走をフジヤマケンザンで勝利し、実に36年ぶりの海外重賞制覇、日本人スタッフによる勝利という点では史上初の快挙と言えました。

当時の日本馬の海外遠征とは、そんな状況だったのです。
そんな中で、森調教師はシーキングザパールの海外遠征を計画します。また、同じく国際派であった藤沢和雄調教師も、当時10戦9勝と無敵を誇ったタイキシャトルでの遠征を発表していました。

シーキングザパールの遠征するレースとして白羽の矢が立ったのはフランスのG1モーリス・ド・ギース(ゲスト)賞(芝直線1300m)でした。翌週のジャック・ル・マロワ賞(芝1600m)も候補にあったようですが、安田記念で完敗したタイキシャトルが出走を決めていたため、前者が選ばれました。

かくして、日本競馬の歴史に大きな1ページが刻まれます。
シーキングザパールは先手を取ると、豊富なスピードを活かして逃げ切り。国内でのレースとは違ったスタイルでの競馬でしたが、フランスでの騎乗経験の豊富な武豊騎手の好判断も光りました。

(ジェニアルで制したメシドール賞も日本でのレースとはうって変わって先行策でした。さすが天才!)

日本調教馬による海外G1制覇達成という快挙の翌週、日本で無敵を誇るタイキシャトルでジャック・ル・マロワ賞に挑む岡部幸雄騎手は、とてつもないプレッシャーだったのではないでしょうか。レース前に岡部騎手は武豊騎手の元を訪れ、質問をしたそうです。
20歳も年下の武豊騎手に教えを請い、そしてタイキシャトルでジャック・ル・マロワ賞制覇を成し遂げた岡部さん、かっこよすぎです。

その後、シーキングザパールはフランスのムーラン・ド・ロンシャン賞(芝1600m)、アメリカのサンタモニカハンデ(ダート1400m)等にも遠征。勝利を挙げることはできませんでしたが、国内ではスプリンターズS、高松宮記念で2着、安田記念で3着など、一線級で活躍しました。

タイキシャトルのラストランとなったレース、一転して後方一気を選択した武豊騎手の神騎乗炸裂、と思いきや、タイキシャトルは交わしたものの前にもう一頭いた、という結末に。


シーキングザパールはその後アメリカにトレードされ、2戦しましたが勝利を挙げることができず、引退となりました。

2020年現在でも海外、地方問わずその馬に合ったレースを選び、積極的に挑戦を続ける森調教師。
シーキングザパールの快挙は日本競馬を大きく動かした、といえると思います。


【名馬物語】第4回 アグネスタキオン

2020-03-10 12:00:00 | 名馬物語
弥生賞ディープインパクト記念では、武豊騎手騎乗のサトノフラッグが圧勝しました。昨年も道悪でしたが、今年も「重」のコンディション。
道悪の弥生賞というと思い出すのが「幻の三冠馬」と言われた、アグネスタキオンです。


[新馬戦 偉大な兄]

父サンデーサイレンス 母アグネスフローラ(母の父ロイヤルスキー)
栗東・長浜博之厩舎 牡 栗毛

アグネスタキオンは2000年12月のデビュー前から注目を集める立場の馬でした。というのも、全兄がその年のダービー馬・アグネスフライト。武豊騎手の兄弟子としても知られる名手・河内洋騎手(現調教師)に初のダービー制覇をもたらしたバリバリのG1ホースでした。
しかし、アグネスタキオンは新馬戦で3番人気という評価に甘んじます。
1番人気はダービー馬・フサイチコンコルドを兄に持つ、ボーンキング。2番人気は名牝・ロジータの仔、リブロードキャストでした。その他にも良血馬・高額馬が集結した、今でいう「伝説の新馬戦」と言って差し支えないメンバーが揃っていました。

兄フライトは2月という遅いデビューから、5月の京都新聞杯を制してダービーの頂点まで駆け上がった馬で、タキオンもデビュー前の調教のペースはそれほど上がらず、「先々は走ってくるだろうが、現時点では兄ほどでは・・・」という雰囲気もあったように思います。

ところがアグネスタキオンはこの新馬戦で2着に0.6の差をつけ圧勝します。超スローペースのものではありましたが、上り3Fは33秒台と、兄を始めとしたサンデーサイレンス産駒らしい切れ味で他馬を圧倒しました。


[わずか2戦目にして「伝説」の誕生を予感させた]

新馬戦での勝ち方から、一気に注目の存在となったアグネスタキオンは、数々の名馬が走った出世レースとして名高いラジオたんぱ杯3歳Sに向かいました。

ここで1番人気となったのは、新馬、エリカ賞と2000mを2戦連続レコード勝ちしてきたクロフネです。外国産馬であったクロフネは、翌年の日本ダービーが初めて外国産馬に開放されることに合わせ、「開放初年のダービーを勝ってほしい」という願いで名付けられた馬でした。
アグネスタキオンが2番人気で、既に重賞を勝っていたジャングルポケットが3番人気となりました。


↑4コーナーで抜け出そうとするクロフネを、軽く仕掛けただけであっという間に突き放す瞬発力に注目です。

アグネスタキオンは1戦1勝の身であり、スローの経験しかないことが不安視されましたが、このメンバーを相手に圧勝。クロフネがエリカ賞で記録したレコードを0.4更新するおまけまで付けました。

「これはとんでもない大物が現れた」

このレースを見ていた多くの競馬ファンはそう思ったことでしょう。


[敵は身内にあり?]

クロフネ、ジャングルポケットという二頭の有力候補を子ども扱いしたアグネスタキオンのレースぶりを見て、「三冠」という言葉がささやかれるようになりました。
1994年にナリタブライアンが達成して以来、出現していなかった三冠馬の誕生を予感するファンは少なからずいました。

春を迎え、アグネスタキオンはクラシックへのステップとして弥生賞に向かいますが、回避馬が続出してわずか8頭でのレースとなりました。不良馬場だけが唯一の不安要素と考えられましたが、問題にせず圧勝。新馬戦で下した相手ではありましたが、京成杯で重賞制覇していたボーンキングに5馬身差をつけました。

そこに、新馬から4戦4勝できさらぎ賞、スプリングSを連勝し、クラシック戦線に名乗りを上げた馬がいました。

アグネスゴールドです。タキオンと同馬主、同厩舎、同騎手で、サンデーサイレンス産駒というところまで同じでした。タキオンのライバルが「身内」から現れたのです。

アグネスゴールドもレースセンスのある強い馬でしたが、実際のところはタキオンほどのインパクトは無かったように思います。「河内はタキオンを選ぶだろうな」と思っていましたが、残念ながらアグネスゴールドはスプリングSの後に骨折が判明し、直接対決は実現しませんでした。


[幻の三冠馬]

アグネスタキオンは盤石の競馬で皐月賞も圧勝。「まず一冠!」という実況はもちろん、兄アグネスフライトとのダービー兄弟制覇、さらには「三冠馬」の誕生への期待がこもったものだったはずです。
ところがダービーまで1ヶ月を切った頃、衝撃のニュースが舞い込みます。

アグネスタキオン、屈腱炎。

ダービー制覇、三冠馬誕生の夢は消滅することになります。
結局アグネスタキオンは放牧に出され、そのまま引退、種牡馬入りすることが決まりました。

ラジオたんぱ杯でアグネスタキオンに敗れたクロフネはNHKマイルCを勝ち、秋にはダートで史上最強クラスのパフォーマンスを見せました。
皐月賞で3着だったジャングルポケットが日本ダービーを勝ち、秋にはジャパンCを制覇。
皐月賞2着のダンツフレームがダービー2着となり、後に宝塚記念でG1制覇。
弥生賞で4着だったマンハッタンカフェも菊花賞などG1を3勝。

彼らの活躍により、アグネスタキオンの評価はさらに高まっていきます。

「タキオン」とは、光速を超える速さの仮想粒子。
まさに光のような速さの競走馬人生を歩んだアグネスタキオンは、「幻の三冠馬」と呼ばれました。


【名馬物語】第3回 セイウンスカイ

2020-03-04 12:00:00 | 名馬物語
名馬物語第3回は セイウンスカイ です。



[廃用種牡馬の産駒]

父シェリフズスター 母シスターミル(母の父ミルジョージ)
美浦・保田一隆厩舎 芦毛 牡

セイウンスカイの父、シェリフズスターはイギリスで走り、競走馬としてG1を2勝し、引退後は種牡馬として西山牧場にやって来ました。4年間で200頭余りの産駒を送り出したものの全く活躍馬を出すことができず、牧場の経営状況の関係もあり「廃用」となってしまいました。
残された仔の中から現れたのがセイウンスカイです。

セイウンスカイは新馬戦(芝1600m)で16頭立ての5番人気と、注目度は高くありませんでしたが、2着に1秒の差をつけ圧勝します。
続くジュニアC(芝2000m)でも11頭立ての3番人気でしたが、またまた5馬身差で圧勝。若手の徳吉孝士騎手とともにクラシックの登竜門、弥生賞に向かいます。
弥生賞は父ダンシングブレーヴ、母グッバイヘイロー(米G1 7勝)のキングヘイローが1番人気、父サンデーサイレンスできさらぎ賞勝ちのスペシャルウィークが2番人気となり、セイウンスカイはそれに次ぐ3番人気でした。レースはゴール寸前でスペシャルウィークに差されて2着に敗れましたが、クラシックの有力候補であったキングヘイローには先着し、さらに評価を上げました。

皐月賞に向かうことになったセイウンスカイですが、実績の無かった徳吉騎手は降板。横山典弘騎手に乗り替わりとなりました。勝負の世界である競馬では、時として非情とも思える決断が下されます。ジョッキーは悔しい経験を重ねて、自らの技術を磨き続け、信頼を勝ち取っていくしかありません。

当時の皐月賞は開催の週に内の仮柵が外され、「グリーンベルト」と呼ばれる馬場の荒れていないルートがインコースに出現していました。先行集団につけたセイウンスカイはこれを見事に生かし切り、追いすがるキングヘイロー、スペシャルウィークを抑えて優勝。クラシック第一冠を制しました。
「廃用となった父の仔が良血馬を尻目にクラシックを勝つ」というドラマが生まれました。



[ダービーから充実の秋へ]

皐月賞は2番人気に押されて制したものの、ダービーでは3番人気と人気を落とす形になりました。これは前述したグリーンベルトが皐月賞で有利に働いたとみられたこと、脚質や血統的にキングヘイロー・スペシャルウィークが東京の2400mで伸びしろがあるとみられたこと等が考えられます。
競馬好きで知られる明石家さんまさんはこのレースの予想が◎スペシャルウィーク〇キングヘイローで、杉本清さん、井崎脩五郎さんらと同じ印であったことについて「競馬のことを知っている人は絶対こうしている」と語っていました。

レースではデビュー3年目でダービー初騎乗の福永祐一&キングヘイローがハナに立つという意外な展開となり、ハイペースで進行。セイウンスカイは番手から進めますが、直線ではスペシャルウィークらに一気に交わされ、離れた4着に敗れてしまいます。
「3強」と呼ばれた98年クラシックは、スペシャルウィークが圧勝でダービーを制し、頂点に立ちました。

セイウンスカイは秋初戦に古馬との混合戦となる京都大賞典を選択しました。菊花賞のトライアルレースである京都新聞杯を選ばなかった理由は、セイウンスカイが抱える「ゲート入りの不安」があったためです。万が一、京都新聞杯でゲート再審査になった場合、一定期間出走が不可能となり、菊花賞に間に合わなくなることが考慮されたのです。
京都大賞典はメジロブライト、シルクジャスティスら強力なメンバーが揃っていましたが、横山典騎手が絶妙な逃げでこれらを完封。同日東京競馬場では毎日王冠が行われており、サイレンススズカとともに両メインレースが「逃げ切り」という結果でした。

菊花賞は、京都新聞杯でキングヘイローを下したスペシャルウィークが1番人気。セイウンスカイは2番人気に押されました。
スペシャルウィークはレース前半で引っ掛かる面があり、後方で折り合いに専念して構える形に。セイウンスカイは前半から単騎逃げで軽快にリードして進めます。スペシャルウィークは折り合いはついたものの、今度は勝負所での反応が悪くなり、4コーナーで離した距離は、気分よく進めたセイウンスカイにとってセーフティリードでした。
3000mの菊花賞で逃げ切りという結果は何と38年ぶり。さらにレコードタイムのおまけまでつけ、セイウンスカイは二冠馬となりました。
後の「武豊TV」でこのレースが回顧され、武豊騎手は「引っ掛かるのを恐れて抜きすぎた」「失敗作」とし、横山典騎手は「豊が失敗してくれたから勝てた」と振り返っていました。



[雑草二冠馬の戦い]

セイウンスカイは有馬記念に駒を進めますがグラスワンダー、メジロブライト、ステイゴールドに次ぐ4着。
休養明けの日経賞を快勝しますが、春の天皇賞では菊花賞での反省を活かしたスペシャルウィークに早めに来られて3着。武豊TVの中で横山典騎手は「同じ失敗はしてくれない」と振り返りました。
札幌記念では逃げ・先行にこだわらない形のレースを選択し、見事に「差し切り勝ち」。
1番人気に押された天皇賞・秋ではゲート難が顔を出し、5着に敗れます。しかし一瞬の切れ味ではなく長く脚を使うセイウンスカイにとって、2000mのレコード決着の競馬で0.5差の5着ならば、地力を証明しているとも思います。

ところがこの後、セイウンスカイは屈腱炎になってしまいます。
屈腱炎は完治が難しく、復帰しても競走能力に大きく影響してしまうことが多く競走馬の「不治の病」とも言われます。

セイウンスカイを何とかもう一度、ターフに

この思いから1年半もの長期休養を経て、天皇賞・春で復帰します。結果は大差の最下位となりましたが、無事、G1の舞台でハナを切る姿をファンに見せてくれました。
宝塚記念への出走も目指されましたが、脚部に不安が出たためそのまま引退となりました。


[引退後]

種牡馬となったセイウンスカイには廃用となった父の分まで期待されましたが、目立った活躍馬を送り出すことができませんでした。
セイウンスカイの馬主である西山氏は、自家生産のG1ホースであるニシノフラワーにも一度だけセイウンスカイを配合しています。ニシノフラワーに配合した種牡馬はブライアンズタイム(2度)、ラムタラ、ダンシングブレーヴ、タイキシャトル、パントレセレブル、アグネスタキオン(2度)。どれも超のつく名馬です。その中で実績もないセイウンスカイは明らかに見劣りますが、夢を追いかけて種付けされたことがうかがえます。

結果、ニシノミライと名付けられた牝馬は残念ながら未勝利のまま引退。本当に勝負の世界は厳しいです。

しかし繫殖牝馬となったニシノミライの仔は勝利を挙げます。さらに初仔のニシノヒナギクは未勝利で引退したものの、繫殖牝馬としてニシノデイジーを産んでいます。
セイウンスカイのひ孫が札幌2歳S、東スポ杯を連勝。クラシックにも出走し、ダービーでは5着に頑張りました。菊花賞ではルメール人気もあったでしょうが、2番人気に押されました。まだ現役のニシノデイジーには頑張ってもらいたいものです。

「ブラッドスポーツ」と呼ばれる競馬は、優れたエリートのみが勝ち残っていく構図が基本的にはありますが、その中で生まれる血のドラマにも注目すると、また一歩深く競馬を楽しめると思います。


【名馬物語】第2回 ステイゴールド

2020-02-25 21:00:00 | 名馬物語
名馬物語。第2回は ステイゴールド です。


[3~4歳時。「善戦マン」と呼ばれて]

父サンデーサイレンス 母ゴールデンサッシュ(母の父ディクタス)
栗東・池江泰郎厩舎 黒鹿毛 牡

1994年生まれといえば、前回の主人公サイレンススズカと同世代になります。前年までのサンデーサイレンス旋風の中、クラシックはブライアンズタイム産駒が大活躍したり、メジロライアン産駒が注目された世代ではありますが、サンデーサイレンス産駒にも個性派がいたわけです。
デビュー戦は2歳12月で、鞍上は短期免許で来日していたオリビエ・ペリエでした。芝2000mで3着。同じ条件で迎えた未勝利戦は1番人気となりますが、最下位の16着に敗れます。
さらに休養明けの未勝利戦(ダート1800)では、その後長くコンビを組む熊沢騎手を鞍上に迎えますが、なんとコーナーを曲がらずに逸走。さらに騎手を振り落として競走中止となってしまいます。
芝に戻った後も2000m戦で2着、2400m戦でまた2着、と、なかなか勝ちきれないレースが続きます。勝ち切れない原因の一つと考えられたのが、「左にモタれる癖」です。右回りでコーナーを曲がれなかったように、常に左へ斜行してしまう悪癖を持っていたのです。
そこで次走は左回りの東京競馬場の2400m戦が選ばれます。また、真っ直ぐ走らせるための厩舎の努力もあり、念願の初勝利を手にします。

次走は再び左回りの中京競馬場で行われるすいれん賞が選ばれ、2連勝。
右回りに戻ったやまゆりSは4着に敗れますが、夏の北海道では阿寒湖特別で勝利。右回りでも初勝利を挙げ、秋には菊花賞が目指されます。
京都新聞杯で4着、菊花賞では8着となり、大舞台では結果が出ませんでした。

同じく秋に結果が出なかったサイレンススズカは、この後香港で武豊と出会うわけですが、ステイゴールドにもこのとき神の導きがあります。

当時は12月に行われていたワールドスーパージョッキーズシリーズ(WSJS)です。現在は夏の札幌でワールドオールスタージョッキーズ(WASJ)として行われていて、昨年は「美しすぎる」ミシェル騎手が勝利を挙げて話題になりました。
抽選で騎乗馬が決定するこのシリーズに出走し、ステイゴールドにあの人が騎乗することになったのです。はい、武豊です。持っとるなーこの人は(笑)
しかし、ゴールデンホイップトロフィーでは2着に敗れ、次走からはまた熊ちゃんに戻ります。神の導き、スルーです(笑)

〇2~3歳時の戦績
新馬  3着
未勝利 16着
未勝利 中止
未勝利 2着
未勝利 2着
未勝利 ①着
すいれん賞 ①着
やまゆりS 4着
阿寒湖特別 ①着
京都新聞杯 4着
菊花賞 8着
GホイップT 2着

古馬となったステイゴールドは、オープンの万葉Sに格上挑戦し、2着。
次走は自己条件の松籟Sに戻りますが、また2着。
いつまでも賞金が加算できずにいましたが、続くダイヤモンドS(G3)でも2着となり、勝てなかったもののようやくオープン入りを果たします。

春の天皇賞の前哨戦として日経賞(G2)が選ばれますが、ここでは4着。
本番の天皇賞は3200mで超一流が終結するレース。ステイゴールドは10番人気に甘んじます。

天皇賞の主役は、メジロブライトでした。クラシック三冠で4、3、3着だったものの、ステイヤーズS、日経新春杯、阪神大賞典を3連勝しており、特に阪神大賞典では前年の有馬記念の覇者・シルクジャスティスとの一騎打ちを制していました。天皇賞では同じ斤量で再びこの二頭のマッチレースが期待されました。

結果はメジロブライトが人気に応えて快勝。
ステイゴールドはここで2着に飛び込み、波乱を演出します。またまた勝てなかったものの、G1で連対を果たし、ステイゴールドは古馬のG1戦線で戦っていく馬として、認知されるようになりました。

重賞初制覇を狙った目黒記念では、天皇賞2着馬の力を見せることができず3着に敗れ、宝塚記念へと駒を進めます。
宝塚記念は天皇賞馬となったメジロブライトと、金鯱賞を大差勝ちしたサイレンススズカ、前年の年度代表馬エアグルーヴらがぶつかる豪華メンバーで、ステイゴールドは再び9番人気と完全に脇役の扱いになってしまいます。
しかしここでもサイレンススズカに迫る2着となり、再びアッと言わせる走りを見せます。

秋になり、京都大賞典は4着に敗れますが、天皇賞・秋では(サイレンススズカの悲しい事故はありましたが)オフサイドトラップに迫ってまたまた2着。
ジャパンCは10着に大敗したかと思うと、有馬記念で11番人気の低評価を覆す3着。
この頃からステイゴールドは

「シルバーコレクター」「善戦マン」「ナイスネイチャの再来」

などと呼ばれ、親しまれていくようになりました。
しかし、おそらく陣営は苦しんでいたのではないでしょうか。G1戦線でこれだけの活躍をしながら、重賞は未勝利。

「主な勝ち鞍・阿寒湖特別」

勝利、1着という結果を得るための陣営の様々な努力や苦労があったことは想像に難くないでしょう。
「ゴールド」を追いかける長い長い戦いが続いていきます。

〇4歳時の戦績
万葉S 2着
松籟S 2着
ダイヤモンドS 2着
日経賞  4着
天皇賞・春 2着
目黒記念 3着
京都大賞典 4着
天皇賞・秋 2着
ジャパンC 10着
有馬記念 3着


[5~6歳時。まだまだ善戦マン。そして・・・]

5歳時は京都記念で7着に大敗し、続く日経賞で3着。まだ勝利はありません。
春の天皇賞では「この馬はG1でこそ一発あるぞ」と穴人気しましたが5着。
金鯱賞、鳴尾記念と勝利を目指しましたが連続で3着となり、どうしても1着でゴールできない。

グラスワンダー・スペシャルウィークの対決となった宝塚記念では、きっちり2強に次ぐ3着。善戦マンっぷりはもはや名人芸(馬ですが)とも思えました。
京都大賞典で6着に敗れ、秋の天皇賞では2000mが不暗視されたこともあったのか、12番人気の低評価となりました。

しかし、ステイゴールドはまた、激走するのです。アンブラスモアが逃げるハイペース。脚をためて長い直線で思う存分爆発!まさに完璧といえる熊沢渾身の騎乗です。
安田記念を制していたエアジハードを外からねじ伏せ、ついには先頭に!
夢に見た、栄光のゴールが目前に迫った瞬間・・・!
さらに外からステイゴールドを差し切ったのは、同じく京都大賞典で大敗して人気を落としていたスペシャルウィークでした。
スペシャルウィークにしてみれば復活勝利。勝者のウイニングランを、またしてもすぐ近くで見せつけられることとなったステイゴールド。
これでG1レースでの2着は4度目となりました・・・。
続くジャパンC、有馬記念は6着、10着に敗れてしまい、5歳時を終えます。

〇5歳時の戦績
京都記念 7着
日経賞 3着
天皇賞・春 5着
金鯱賞 3着
鳴尾記念 3着
宝塚記念 3着
京都大賞典 6着
天皇賞・秋 2着
ジャパンC 6着
有馬記念 10着


年明けのアメリカジョッキークラブCでは久しぶりの勝利への大きなチャンスが訪れます。
強力なライバルは見当たらず、ステイゴールドは1番人気に押されました。何と、武豊が騎乗したWSJS以来の1番人気です。
それでも、正攻法から勝ちに行ったところをマチカネキンノホシに差され、2着・・・。

続く京都記念はテイエムオペラオー、ナリタトップロードのG1馬2頭に続く3着。
その後出走した日経賞は大本命・グラスワンダーが凡走するという大チャンスでもありましたが、また2着・・・
天皇賞では「3強」と思われたテイエムオペラオー、ラスカルスズカ、ナリタトップロードに続く4着・・・

完全に名人芸に磨きがかかっている・・・

「1着」を追い求める彼の旅は、あまりにも苦しい。

ここまでで実に重賞競走の2着が7回(うちG1は4回)。3着も7回(うちG1は2回)。4着は3回(うちG1は1回)。
1着は、ゼロです。
まだ、「主な勝ち鞍・阿寒湖特別」のまま。

陣営はついに非情の決断をします。

悲願の初重賞制覇を目指す目黒記念で、それまで37戦中、実に33戦で手綱をとってきた熊沢重文騎手に代わり、武豊騎手を鞍上に迎えたのです。
未勝利時代からずっと調教に乗り、レースを教え、G1レースでは度々前評判を覆す好騎乗を見せてきた熊沢騎手とのコンビが解消されるというのは、なかなかショッキングなニュースでした。
しかし、メンバー的にも大きなチャンス。陣営の「何としても勝利を」という気持ちの表れだったことは間違いないでしょう。

目黒記念は重馬場の中、前残りを狙ってホットシークレットが大逃げを打ちます。ハイペースで進む中、ステイゴールドはいつもより後方からレースを進め、直線では内を突き、馬群を縫うように脚を伸ばします。左へモタれる傾向があるステイゴールドは、左回りだとインに切れ込む形になりやすく、スムーズな誘導です。
そして、AJCCで後塵を拝していたマチカネキンノホシを決め手で上回り、ついに先頭に!

場内は大歓声。大きな拍手に迎えられてついに1着でゴール!

実に2年8ヶ月振りの勝利。ステイゴールドはついに念願の重賞タイトルを獲得しました。土曜日、それも雨の中で起こった大歓声は、ステイゴールドが多くのファンに愛されていたことの表れにほかならないものでした。
レース後、池江調教師は涙を流していたそうです。

熊沢騎手は「複雑な気持ち」であったとしながらも、レース後はすぐに武豊騎手に祝福の言葉をかけたそうで、人柄の良さが伺えます。個人的には、これまで育ててきた熊沢騎手の努力が実った瞬間でもあると思っています。


悲願の重賞制覇後、宝塚記念4着、オールカマー5着と、ステイゴールドらしさ(?)を取り戻してしまいますが、秋のG1では7着、8着、7着と見せ場を作れずに終わってしまいます。

〇6歳時の戦績
アメリカJCC 2着
京都記念 3着
日経賞 2着
天皇賞・春 4着
目黒記念 ①着
宝塚記念 4着
オールカマー 5着
天皇賞・秋 7着
ジャパンC 8着
有馬記念 7着


[悲願の重賞制覇から海外遠征へ]

年が明けて7歳となったステイゴールドは、目黒記念と同じハンデ戦の日経新春杯に出走します。藤田伸二騎手が初騎乗となりましたが、好位のインで折り合って抜け出す完璧な競馬で重賞2勝目をマークしました。

まだまだ力が健在であることを見せたステイゴールドは、同じ厩舎のトゥザヴィクトリーがドバイワールドCに遠征するため、パートナーとして遠征し、武豊騎手が騎乗してドバイシーマクラシック(当時の格付けはG2)に出走することになりました。
G2という格付けではあったものの、当時の芝路線では世界のトップクラスのメンバーが揃っていましたが、直線を矢のように伸びたステイゴールドは、先に抜け出したL.デットーリ騎乗のファンタスティックライトを急追し、ついには並んでゴール!
非常に際どい体勢でしたが、ステイゴールドはハナ差で勝利となりました。

ファンタスティックライトはジャパンCでテイエムオペラオー、メイショウドトウと激戦を繰り広げており、日本のファンにもなじみの深い馬でした。それだけでなくシーマクラシックの前年の勝ち馬で、G1を2勝しているトップホース。ステイゴールドの勝利は海外のホースマンからも高く評価を受けるものでした。

「善戦マン」「シルバーコレクター」と呼ばれたステイゴールドが、海外の強豪を相手に勝利する。それもハナ差の接戦で競り勝つとは・・・!
ただ、ドバイシーマクラシックは翌年からG1に格上げされることになり、「やはりG1勝利には縁がない」というところはステイゴールドらしさも感じさせました。

ステイゴールドには、G1制覇という最後の夢が残されていました。
海外での重賞制覇という勲章を持って望んだ宝塚記念は4着で、やはり悲願達成は成らず。秋シーズンは年齢的にもラストチャンスのように思われました。

秋初戦の京都大賞典では、絶対王者テイエムオペラオー、菊花賞馬ナリタトップロードに激しく競りかけますが、左にモタれる悪癖によりナリタトップロードの進路を妨害してしまいます。テイエムオペラオーよりも先にゴール板を駆け抜けたものの、失格処分。
左回りの天皇賞・秋では武豊に手綱が戻り3番人気に押されますが、好位のインから直線に向くとやはり左にモタれ、7着。内ラチを頼って真っ直ぐ走らせる作戦も、彼には通用しませんでした。

長く走り続けてきたステイゴールドも年内での引退が決まり、ジャパンCを経て香港国際競走をラストランとすることが決まりました。
しかし一流馬を相手にするには大きな問題がありました。
もちろん、モタれ癖をはじめとする気の悪さです。
陣営は何とかして真っ直ぐ走らせる方法を探ります。ハミを工夫し、左側だけブリンカーを装着。血のにじむような努力がうかがえます。

国内の最終戦となったジャパンCでは、外目からモタれることなく、真っ直ぐに走るステイゴールドの姿がありました。それでも、頂点には届かず、4着。ついにステイゴールドは日本でG1を勝つことはできませんでした。

そしてついにラストランとなる香港国際ヴァーズ(G1・芝2400m)に向かうことになります。鞍上には天皇賞から3戦続けての騎乗になる、武豊騎手が指名されました。

ところで、香港では馬名が漢字表記されます。ステイゴールドは「黄金旅程」。ステイの部分がどのように解釈されたのか微妙なところではありますが、黄金を探し続ける旅、という意味でとらえるとピッタリすぎるネーミング。
Stay Goldは「輝き続けなさい」みたいな意味ですが、なんだよ黄金旅程ってカッコええやん、と思ったものです。

レースでは中団につけ、勝負どころでの進出を待ちますが、エクラールに騎乗したL.デットーリが奇襲を仕掛けます。早めのスパートで出し抜けを図り、4コーナーから直線で大きなリードを取ります。ステイゴールドも良い伸びを見せて2番手に上がりますが、先頭とは大きな差・・・
さらに想定外のことが起こります。左にモタれる癖のあるステイゴールドが、いつもとは逆の右側(右回りなので、内側になります)に斜行しようとしたのです。

「また2着」

という思いが頭を過りますが、武豊騎手は慌てて修正します。そして体制を立て直したところから、ステイゴールドは猛然と追い込みます。
武豊騎手はレース後「まるで羽が生えたようだった」と表現しました(どんな時も「使える言葉」を残す武豊騎手、さすがすぎるw)。
早めに抜け出していたエクラールの脚色が鈍ったところでステイゴールドが一気に差を詰め、アタマ差交わしてゴール!

実に通算50戦目。丸4年の間、常に重賞戦線で上位争いをし続け、G1では惜敗し続けてきた個性派。
多くのファンに愛されたステイゴールドは、ラストランで劇的なG1初制覇を飾りました。


〇7歳時の戦績
日経新春杯 ①着
ドバイシーマC ①着
宝塚記念 4着
京都大賞典 失格
天皇賞・秋 7着
ジャパンC 4着
香港ヴァーズ ①着



[種牡馬・ステイゴールド]

ステイゴールドは種牡馬になってからその秘めていた能力を知らしめたと言えるかもしれません。産駒は切れ味もさることながら、優れたスタミナと大レースでの爆発力を持っています。代表産駒が凄い。

オルフェーヴル 牡馬三冠、有馬記念2勝、宝塚記念
ゴールドシップ 皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念2勝、天皇賞・春
ドリームジャーニー 有馬記念、宝塚記念、朝日杯FS
オジュウチョウサン 中山グランドジャンプ4勝、中山大障害2勝
フェノーメノ 天皇賞・春2勝
インディチャンプ(現役) 安田記念、マイルCS
ウインブライト(現役) QE2世S、香港カップ
などなど。

父があれだけ勝てなかったG1を、何勝もする産駒をどんどん排出し、遺伝力の強さ、ポテンシャルの高さを感じさせます。
現役馬で応援したい馬がいます。

エタリオウ
父ステイゴールド 母ホットチャチャ(母の父Cactus Ridge)
栗東・友道康夫厩舎 牡

ダービー4着、菊花賞2着をはじめ、その他に重賞2着が3回。
何とまだ1勝馬です。成績でいえば父に一番よく似ている産駒かもしれません。



ステイゴールド産駒の多くが気難しい馬である、というのは言うまでもありませんw


【名馬物語】第1回 サイレンススズカ

2020-02-18 17:30:00 | 名馬物語
名馬物語のコーナーではわたくしが競走馬をピックアップし、その魅力や記録、思い出について語りたいと思います。基本的にはリアルタイムで見た馬を取り上げていきたいと思いますので、わたくしが競馬を見始めた1995年以前に引退してしまっている馬は登場しません。(リアルタイムで見ていない名馬については別枠で取り上げてもいいかもしれませんねー)

記念すべき第1回は サイレンススズカ です。


[デビューからダービーまで]

父サンデーサイレンス 母ワキア(母の父Miswaki)
栗東・橋田満厩舎 栗毛 牡

日本の競馬界に「サンデーサイレンス旋風」が巻き起こっている真っ只中の1997年2月。
サイレンススズカはクラシック三冠を目指すには少し遅いデビューを果たします。京都芝1600m戦で上村騎手が騎乗し、2着馬(後のオープン馬パルスビート)に1.1秒差をつける圧勝を飾りました。

2戦目にはいきなりクラシック競走の登竜門、弥生賞(2020年からディープインパクト記念弥生賞)が選ばれました。
筆者はこのとき、武豊騎乗のランニングゲイルを応援していました。ランニングゲイルは前年秋の京都3歳S(旧表記)で2歳レコード(ナリタブライアンが持っていた)を更新していて、競馬歴の浅かった筆者は単純に注目したのでしたw紫のメンコと真っ黒な馬体がカッコいい馬でした。オールドファンは、父がいぶし銀のランニングフリーだったことで応援している人が多かったように記憶しています。

レース発走直前、サイレンススズカは何とゲートの下をくぐり抜けてしまいます。こんなことは前代未聞で、外枠発走となった上に大出遅れをして惨敗に終わります。コーナーから一気にマクって勝ったランニングゲイルとは対照的に、サイレンススズカの若さが出たレースとなりました。それでも道中は盛り返して馬群に取り付いたサイレンススズカの姿を見て、「やっぱり只者じゃない」と思ったものです。

皐月賞は断念となりましたが、立て直して自己条件で再び圧勝。続くダービートライアルのプリンシパルS(当時は2200m)では3番手からレースを進め、後の菊花賞馬マチカネフクキタル・弥生賞で敗れたランニングゲイルとの叩き合いを制して、ついに3歳馬の頂点を決めるダービーへと駒を進めます。

ついに檜舞台に登場したサイレンススズカでしたが、道中は折り合いを欠き、9着に敗れてしまいます。勝ったのは低評価を覆した皐月賞馬・サニーブライアン。皐月賞に続いて大外18番からのレースで2冠を制した大西騎手は「1番人気はいらない、1着がほしい」との名言を残しました。そして、奇しくもサニーブライアンの2冠はどちらも「逃げ切り」でした。


[成長とレーススタイルの確立]

神戸新聞杯で復帰したサイレンススズカは、プリンシパルSで下したマチカネフクキタルの2着となり、3000mの菊花賞は回避して天皇賞からマイルチャンピオンシップへと進みました。これを6着、15着と敗れますが、この3レースではいずれも前半からスピードを活かすレースで、長い距離での折り合いを意識したダービーまでのスタイルから変化が見られました。
筆者はこのとき「スピードあってもハイペースで潰れちゃってて、だめじゃん」ぐらいにしか思っていませんでしたが、「サイレンススズカは絶対に強くなる」と思っている競馬関係者は少なくなかったといいます。そのうちの一人が、武豊騎手です。

武豊騎手はサイレンススズカが香港国際カップに出走するにあたって、「乗せてほしい」と直訴したそうです。香港でのレースはやはりハイペースとなったことで5着に敗れましたが、このレースで武豊騎手の評価は「サイレンススズカは化け物だと思った」という最大級のものでした。

年が明けて4歳となったサイレンススズカは、武豊騎手とのコンビを継続し、オープン特別のバレンタインS(芝1800m)を逃げ切って圧勝。バレンタインの時期になるといつもサイレンススズカを思い出す・・・何でダートなんだよと言いたいですw
続いてGⅡ中山記念で重賞初制覇。道中はハイペースで後続馬もなし崩し的に脚を使ってバテる展開で、皐月賞馬イシノサンデーやスタミナ自慢のローゼンカバリーを完封しました。

ハイペースの逃げというスタイルが確立され、古馬となって精神的にも肉体的にも成長したサイレンススズカの快進撃が始まりました。


[快進撃、そして運命の天皇賞へ]

さらにGⅢ小倉大賞典(中京開催)で57.5キロを背負ってレコード勝ち。
続く金鯱賞には、4連勝中の菊花賞馬マチカネフクキタル、5連勝中のミッドナイトベット、4連勝中のタイキエルドラドが揃い、3連勝中のサイレンススズカと合わせて豪華な顔ぶれとなりました。
しかし、ふたをあけてみると想像をはるかに超える衝撃的な光景が展開されます。連勝馬同士の激しい争いによる名勝負ではなく、完全に「サイレンススズカの独壇場」として記憶されるレースとなりました。
道中から大きなリードを保って直線に入ったサイレンススズカは、何とさらに差を広げたのです!厳密には広がっていないのかもしれませんが、少なくとも画面越しではそう見えました。いや、わからんwようつべ等で簡単に見られるので、ぜひ皆さんの目で確認してみてください。
力差の大きい下のクラスのレースやスタミナが要求されるダート戦ならいざ知らず、芝の中距離重賞ではまずお目にかかれないような、とてつもない大差勝ちをやってのけたサイレンススズカの金鯱賞。この1戦だけでも伝説になったと言えるでしょう。


次にサイレンススズカが向かったのは春のグランプリ・宝塚記念です。武豊騎手が先約のあったエアグルーヴに騎乗することが決まっていたため、南井騎手がピンチヒッターで起用されました。
GⅠホースがズラリと並ぶ上、2200mという距離、テン乗り、と不安要素が多いと思われましたが、サイレンススズカはねじ伏せるようにして後続を封じ込め、GⅠ初制覇となりました。

金鯱賞と並んで伝説的レースとして語られるのが、秋初戦となった毎日王冠です。
前年の朝日杯3歳S(現朝日杯フューチュリティステークス)まで4戦4勝。「怪物」と言われたグラスワンダーと、デビューから5戦5勝でNHKマイルカップを制したエルコンドルパサーの無敗馬2頭が参戦してきたのです。
グラスとエルコンドルはともに外国産馬でした。ディープインパクトやキングカメハメハ、ロードカナロアなどの産駒が勝ちまくり、ほとんど内国産馬で占められている現在の日本競馬と違って、当時の外国産馬は「マル外」と言われて猛威を振るっていました。また、ダービーなど、クラシックへの出走権が無かったことも「本当に強いのはダービー馬よりも外国産馬なのではないか」という見方を生み、日本の国民性とも相まって(要出典w)、脅威の存在と認識される向きがあったように思います。(円高という時代背景も、外国産馬の増加に影響を与えていたと思われます)
金鯱賞・宝塚記念も十分豪華メンバーでしたが、当時としては「夢の対決」とも思われた毎日王冠。GⅡでありながら13万人もの観客動員があったこと(2019年の日本ダービーが約11万人)からも、注目度の高さが感じていただけるかと思います。

「伝説の毎日王冠」はサイレンススズカが2着エルコンドルパサーに2馬身半の差をつけ、完勝に終わりました。当時をご存知でない方はぜひ動画で雰囲気を感じてもらいたいです。また、ご存知の方も久しぶりに見返してみてはいかがでしょうか。何度見ても鳥肌モノですね。
ちなみに、フジテレビの実況では青嶋アナが最後の直線で黙って見届けようとしています。
「さあ真っ向勝負・・・!!」
筆者は青嶋アナの実況は好きです。自分がのめり込むことで視聴者の興奮を表現してくれている。で、何より、度胸が凄いと思うw
「どこまで行っても逃げてやる!!」
その後に解説の吉田さんがボソッと「・・・すんごい」とつぶやいているように聞こえます。
うむ、これを書き上げたら、もう一度見返そう。


こうしてサイレンススズカは大本命として「運命の」天皇賞・秋を迎えます。


[天皇賞、夢の続き]

1998年11月1日。11レース第118回天皇賞・秋。
年明けから成績欄に6つ「1」を並べたサイレンススズカは、逃げ馬には絶好と言われる1枠1番に入りました。
外国産馬であったグラスワンダー、エルコンドルパサーは出走権利が無く、不在。前年の勝ち馬エアグルーヴはエリザベス女王杯に回り、もはや敵はなし。武豊騎手はオールカマー、ローズS、セントウルS、毎日王冠、京都新聞杯、デイリー杯&秋華賞と6週連続重賞制覇中。
どう考えてもサイレンススズカは勝つ。競馬ファンの興味は「どんな伝説的な勝ち方をするのか」に注がれました(要出典ですけど許してくださいw)。

好スタートからいつも通りのポールポジション。同じ逃げ馬のサイレントハンターはいましたが、楽に先頭に立つと、大きく離して逃げるサイレンススズカ。1000mの通貨は57秒4。毎日王冠は57秒7で「比較的ゆっくり行けた」のだから、もちろん彼にとっては許容範囲内だったはず。
大ケヤキを過ぎてさあここから最終コーナーへ・・・!




故障発生、競走中止。



大歓声は悲鳴に変わりました。

左前脚の手根骨粉砕骨折。

予後不良。

サイレンススズカが作るはずであった「伝説」は誰も見ることがありませんでした。

その夜、お酒に強い武豊騎手は生まれて初めて泥酔したそうです。
サイレンススズカは天皇賞を制することだけでなく、次に予定されていたジャパンC挑戦、アメリカ遠征、優秀な競走馬の最大の使命とも言える子孫を残すことさえもできませんでした。
後にディープインパクトが登場し、「サンデーサイレンスの最高傑作」と称され、そのことに異論はありませんが、まるでタイプが逆だったサイレンススズカのような競走馬も、ほぼ見ることがありません。

悪夢のような天皇賞で、サイレンススズカに見た夢は終わってしまったかのように思われました。

しかし、競馬は続いていきます。

毎日王冠でサイレンススズカに完敗したエルコンドルパサーはジャパンCを制し、翌年はヨーロッパに長期遠征。サンクルー大賞を制し、世界最高峰の凱旋門賞で激闘の末2着。「チャンピオンが2頭いた」と称されました。
グラスワンダーは有馬記念で復活し、翌年の宝塚記念、有馬記念を制してグランプリ3連覇を達成。
スペシャルウィークとグラスワンダーの2強対決に沸いた宝塚記念では、杉本清アナが「あなたの夢はスペシャルウィークかグラスワンダーか。私の夢はサイレンススズカです。」と語り、競馬ファンの気持ちを代弁しました。

そしてサイレンススズカの悪夢から1年後の天皇賞・秋。

勝ったのは武豊騎乗・スペシャルウィーク。

武豊騎手は「サイレンススズカが後押ししてくれました」と語りました。


彼に抱いた夢は、続いているのかもしれません。