藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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『青天を衝け」(11)がより面白くなる 町田明広先生の解説 4/25

2021年04月25日 22時42分02秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話

「青天を衝け」(11)「横濱焼き討ち計画」
 内容:
栄一に待望の子が生まれるが・・・
そして秘密裏に準備が進む。、惇忠発案の横濱焼き討ち計画。
慶喜は、家茂の後見職として政の表舞台に復帰。
かつての家臣、円四郎も戻ってくる。
 
栄一と千代に待望の子が生まれるが、すぐに亡くなり渋沢家は悲しみに暮れる。
そんな中、惇忠の横濱焼き討ち計画を秘密裏に準備する栄一。
攘夷決行のための武器や仲間を集め始める。
一方、謹慎を解かれた慶喜は、将軍・家茂の後見職となり政の表舞台に復帰するも、
薩摩の島津久光らから「一刻も早く攘夷の決行を」と迫られる始末・・・
公儀の弱体化に悲嘆する。
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1>町田 明広@machi82175302  4月25日
井伊直弼はなぜ「日米修好通商条約」を締結したのか
渋沢栄一と時代を生きた人々(6)「井伊直弼②」
月曜日に公開されています。未読の方は、ぜひ!
2>
新説 坂本龍馬
3>
薩長同盟は拙著『薩長同盟論』もどうかよろしくお願いいたします。

4>
拙著『グローバル幕末史』。某大学院の授業でテキストに採用。
ありがたいこと。

5>
本日は「青天を衝け」11回目です。3週間ぶりに可能な範囲で、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
6>
「青天を衝け」11回目を拝見!尊王志士として渋沢栄一が世界に飛び出す劇的な瞬間が、家族愛も描きながら巧みに展開してました。また、激動の政治情勢をコンパクトに慶喜の視点からまとめており、見ごたえ十分でした!それにしても、登場する事件・人物の選択、脚本家の腕の見せ所ですね。
7>
本日の時間的スパンはおおよそ、文久2年(1862)初めからから文久3年8月ころ。実はこの間、国内では未来攘夷VS即時攘夷の政争がピークを迎えた大激動の時代。坂下門外の変から始まり、島津久光の率兵上京、寺田屋事件、一橋慶喜・松平春嶽の復権、生麦事件。まだまだ続きます。
8>
文久の改革、攘夷別勅使の江戸派遣、奉勅攘夷宣言、将軍家茂の上洛、下関戦争、薩英戦争、八月十八日政変などなど、あげればきりがない大激動時代をさらりと上手くまとめていました。これ、すべて触れていたらきりがないですね。 ここは主役の、渋沢栄一の動向を追うことに。
9>
ここ数回、事後ツイートをしていないので、文久元年(1861)からスタート。渋沢栄一は江戸に行き、下谷練塀小路の儒者・海保漁村塾やお玉が池北辰一刀流千葉道場・玄武館に出入りを始める。正式な入門ではなく、あくまでも顔を出す程度。
10>
ここで、渋沢は天下の有志と交流を開始し、同志を獲得していった。いつしか、幕府を揺るがす大騒動を起こし、幕政の腐敗を洗濯し国力回復を企図するようになった。しかし、この時は父市郎右衛門との約束通り、約2か月後に帰郷している。
11>
渋沢は尊王志士になることを夢想しながら、一方では豪農の跡取り息子ゆえ、そう簡単に決断はできなかった。それが約束通りの短期の江戸滞在、帰郷に繋がった。栄一、たった1人の判断が渋沢家・一族全体に悪夢をもたらすかもしれず、封建社会の中では長男の選択は極めて重いのだ。
12>
文久2年(1862)1月15日、水戸浪士や宇都宮藩の儒者大橋訥庵(渋沢と面識があったか不明)が計画した坂下門外の変(老中安藤信正暗殺未遂事件)が勃発した。先週描かれたが、大河ドラマで安藤信正や坂下門外の変がここまでフォーカスされたことはなかったのでは?
13>
尾高長七郎について、恥ずかしながらこれまでノーマーク人物。しかし、渋沢栄一との関連で調べたが、交友があったメンツを見ても、尊王志士としての経歴が一廉でない事実が見えてくる。例えば、長州藩の久坂玄瑞・多賀谷勇、薩摩藩の中井弘・伊牟田尚平、そして清河八郎らと接触している。
14>
清河八郎は、文久元年に2回も下手計村の尾高長七郎を訪問している。ちなみに、清河は庄内藩郷士で、弘化4年(1847)18歳で江戸に出て東条一堂の塾に入門、剣は北辰一刀流の千葉周作に学んだ。関西、四国、九州へ旅行し熱烈な攘夷論者となり、真木和泉、平野国臣らと親交を結んだ。
15>
清川八郎について、文久3年2月、幕府の浪士組編成に応じて上洛し、その中心人物であったが、近藤勇・土方歳三らと対立、その後、江戸に戻った。横浜外国人居留地の焼打ち準備を進めていたが、同年4月13日に、江戸麻布一の橋で幕府見廻組佐々木只三郎らに暗殺された。
16>
尾高長七郎に話を戻そう。長七郎は、坂下門外に連座した。しかし、それ以前に多賀谷勇と謀議し、上野寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて日光山に挙兵し、幕府を開国から攘夷に転換させることを画策した。まずは水戸に出向き、原市之進に協力を求めたが謝絶されて方向転換する。
17>
尾高長七郎の申し出を峻拒した原市之進は、平岡円四郎の暗殺後、本日ちらっと登場した川村恵十郎を抑え、一橋家の中心人物となり、慶喜の将軍就任に尽力、最側近として活躍することになる。原はキャスティングされているか?
18>
文久元年11月8日、尾高長七郎は宇都宮城下で宇都宮藩の儒者大橋訥庵と密会した。それを契機にして、大橋が進める安藤襲撃に目的は転換したが、決行直前になって、兄の尾高惇忠に無意味な行為として反対され、離脱した。その後、上州佐位郡の国領村に潜伏した。
19>
つまり、渋沢は尾高長七郎に危険な情勢を伝えるとともに、京都に逃避することを勧説しており、その同意を得ることに成功した。長七郎は信州経由で上京し、以降は即時攘夷を標榜する長州藩が席巻していた中央政局の動静を渋沢らに報告する役割を担う。
20>
渋沢栄一について、文久3年(1863)4月頃、再び江戸に出て海保塾および千葉塾に正式に入門した。7月に坂下門外の変で闘死した河野顕三の「春雲楼遺稿」を刊行している。4月以降の4ヶ月間、時々帰郷して攘夷について議論し、また渋沢・尾高惇忠は武器類を買い集めて実家に隠匿した。
21>
渋沢栄一はこの頃を述懐し、「朝廷からは終始かわらずに攘夷鎖港の勅諚があるにもかかわらず、幕府においてはいつまでも因循して居て、今に朝旨を遵奉せぬというのは、(略)征夷将軍の職分を蔑如するものである」(『雨夜譚』)と幕府を批判している。
22>
文久3年8月頃、渋沢は尾高惇忠、渋沢喜作と3人で「幕政の腐敗を洗濯した上で、国力を挽回する」ため、攘夷実行の計画を密議した。高崎城を乗っ取り、武器弾薬を奪略して横浜外国人居留地を襲撃。焼き打ちして外国人を残らず殺害する無謀な計画を立案した。
23>
尾高惇忠が執筆した「神託」は興味深い。「近日高天ケ原より神兵天降り」として、「皇天子十年来憂慮し給ふ横浜箱館長崎三ケ所ニ住居致ス外夷の畜生共を不残踏殺し天下追々彼の欺に落入石瓦同様の泥銀にて日用衣食の物を買とられ自然困窮の至りニて」と、外国人殺傷の趣意を述べる。
24>
神託は「畜生の手下に可相成苦難を御救被成候間神国の大恩相弁ひ異人ハ全狐狸同様と心得征伐の御供可致もの也」と続く。また、「此度供致候者ハ天地再興の大事を助成仕候義に候得は永く神兵組」と自らを称した。そして、「天地再興文久三年癸亥冬十一月吉辰」と記す。新しい元号のようだ。
25>
確かに無謀であり、なんでこんな荒唐無稽な計画を!と現代の我々は思うが、さすがに渋沢らだって成功するなんて思っていない。魁として死んだ事実が大切なのであり、この「神託」も喧伝させるための決意表明というより、仲間の団結を図る意味合いが強い。
26>
この横浜焼き討ち計画は、11月の冬至の日、総勢69名(渋沢、尾高惇忠・長七郎、渋沢喜作、千葉塾で懇意の真田範之助、佐藤継助、竹内練太郎、横川勇太郎、海保塾の中村平三郎、その他親戚郎党など)で決行することを決定した。正真正銘な志士・渋沢栄一の誕生である。
27>
9月13日、渋沢は既に身を以て国に殉ずる決意をしたため、父市郎右衛門に家督を辞すことを希望し、徹夜で議論した。明け方になって遂に許可を得た。父も、そう簡単にOKというわけにはいかなかった。
28>
翌9月14日、渋沢は挙兵準備のため江戸に出て約1ヶ月滞在し、10月末、帰郷し土蔵に秘匿した武器類を整理し、役割分担を策定するなど挙兵準備を進めた。
29>
今年の準主役である一橋慶喜に話を移そう。将軍継嗣問題の決着のあたりから。安政5年(1858)4月23日に井伊直弼が大老就任し、6月19日には通商条約の違勅調印、6月23日に堀田正睦・松平忠固両老中が罷免された。なお、将軍継嗣問題は南紀派の勝利、次期将軍は家茂でこの頃は決まっていた。
30>
6月24日に水戸斉昭・慶勝(尾張藩主)・慶篤(水戸藩主)は不時登城し、井伊直弼に条約の無断調印を面責した。実際は、彼らも通商条約の調印はやむなしと思っており、その狙いは将軍継嗣の公表を遅らせる深謀であった。朝廷からの一橋慶喜を次期将軍に、との内勅を期待したのだ。
31>
6月24日、松平春嶽も登城しており、老中久世広周に将軍継嗣発表の延期を勧説しているが、1日前の6月23日、慶喜は井伊直弼と対面し、違勅による無断調印を詰問したが、暖簾に腕押し状態でなす術がなかった。
32>
一橋慶喜は井伊直弼との面談時、将軍継嗣を直接井伊に確認し、家茂に内定したことを聞かされた。このあたり、ドラマでも描かれたが、安堵とともに、何とも言えない喪失感が去来したかも知れない。このあたり、いずれどこかでちゃんと書いてみたい。
33>
6月25日に家茂の継嗣が発表され、7月5日には慶喜に登城停止、斉昭・春嶽らに隠居・謹慎の沙汰があった。一橋派の敗北が確定した瞬間であるが、慶喜への沙汰はいかがか。慶喜は井伊に言われるがまま登城しており、不時登城には当たらない。無理やりの罰である。
34>
翌安政6年(1859)8月27日、慶喜にも隠居・謹慎の沙汰が下り、「強情公」らしい徹底した謹慎生活を送り始める。1年も経っての追罰、いかに家茂・井伊にとってみて、慶喜の存在が危険視されていたかが窺えよう。
35>
安政7 年(1860、3月18日に万延に改元) 3月3日、桜田門外の変で大老井伊直弼が横死した。その半年後、万延元年9月4日に慎解除、文久2年(1862)4月25日に他人面会・文書往復の禁解除、5月7日に将軍家茂に謁見した。因果な再会である。
36>
7月6日、再び一橋家を継ぎ将軍後見職に補任された。これは、島津久光の率兵上京(4/16)に端を発した一連の政治動向の一環で、勅使による幕政(人事)改革圧力に屈する形で、幕府は本来乗り気でなかった慶喜復権に同意せざるを得なかった。
37>
将軍後見職・一橋慶喜は、政治総裁職に補任した松平春嶽とともに、文久改革を実施することになる。最も重要な政策は、参勤交代の緩和(3年に1度に改め江戸在留期間100日。大名妻子の帰国許可)であろう。その慶喜には、後見職就任以降、試練が連続して襲うことになる。
38>
文久2年10月27日、攘夷別勅使(議奏三条実美)が出府し破約攘夷を要求した。当初は条約容認を唱えた慶喜ではあったが、公武融和を優先することとし、一転して奉勅攘夷に同意した。文久3年(1863)1月5日、一橋慶喜は将軍家上洛の地ならしのため、将軍家茂の上洛に先立ち上京した。
39>
2月11日、久坂玄瑞らが攘夷期日決定等を関白鷹司輔煕に迫ったため、三条実美らは勅を奉じて慶喜の旅館に押しかけて、速に攘夷期日の決定を命令した。慶喜は松平春嶽・松平容保(京都守護職・会津藩主)・山内容堂らを急遽集めて、徹夜で協議し将軍帰府後20日後に攘夷実行を奉答した。
40>
3月4日、慶喜は上洛した家茂とともに孝明天皇に拝謁し、大政委任を奏上した。天皇自身は容認したものの、即時攘夷派に与する鷹司関白は、国事は直接諸藩へ沙汰するとの勅書を与え、大政委任は事実上、否定されてしまった。
41>
それどころではなく、徳川将軍家の役割は国政全般ではなく、攘夷実行に限定されてしまい、これ以降、政令二途(命令が朝廷・幕府両方から出てしまう)の状態となった。なお、攘夷実行期限については、幕府はその明言を先送りした。
42>
しかし、4月20日に至り、追い詰められた家茂は5月10日と奏聞したため、長州藩による攘夷実行(下関戦争)が開始された。しかし、攘夷を実行したのは長州藩のみであり、攘夷実行を各藩に迫るため、孝明天皇による大和親征を企図した。
43>
こうして、即時攘夷で方向を一にする孝明天皇から、長州藩は過激過ぎると嫌悪され、八月十八日政変に帰結することになる。それにしても、今日はドラマでどの事象を取り上げるか、難しい選択だったのでは。
44>
藤田小四郎が登場。天狗党の乱、小四郎らが西上して慶喜・渋沢と対峙する伏線か。その出会いは、「私が二十五、人選御用で下つて来た時関戸であいました」(「市河晴子筆記」)とするので、元治元年、渋沢が関東に下った時とする。
45>
なお、渋沢は「幾分自分の方へさそつてゞも見られるかの下心があつたのかも知れないが、会つて見るとまるで望みがなさそうと見てとつたか、別にこれって話もしませんでしたが、敏活そうな人でした」と、藤田小四郎を評している。
46>
本来は専門中の専門である、薩摩藩・島津久光の解説を期待されていた方もおられるでしょうが、キリがなくなりますので、敢えて今回は言及していません。島津久光については、
拙著町田明広
をご参照ください。
47>
島津久光については、専門書では拙著
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。

49>
NHK青山・新講座(対面:5月スタート)「新説 坂本龍馬」
5/15(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
6/19(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
7/17(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
8/21(土)薩長同盟と寺田屋事件
9/18(土)海援隊と薩土盟約
日時未確定 大政奉還と龍馬暗殺

50>
JBpressで連載を開始しました。
が公開中です。ぜひ、ご覧下さい!4回目は以下です。
51>
JBpressの最新記事、渋沢栄一と時代を生きた人々(7)井伊直弼3回シリーズの最終回、明日26日(月)朝6時に公開されます。今回は桜田門外の変の知られざる真実を書きました。ご味読をよろしくお願いいたします。1・2回目は以下です。
52>
この10日間、本当に調子が悪かった。今も完調には程遠いのだが、だいぶ戻ったことは事実。改めて、年相応にしなければダメだと痛感。オーバーワークは禁物。この間、多くの方にご心配いただいた。改めて、御礼申し上げます。

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1>桐野作人@kirinosakujin 4月25日
本日の大河「青天を衝け」第11回「横濱焼き討ち計画」。渋沢栄一、同喜作、尾高惇忠らがいよいよ攘夷挙兵に起ち上がろうとする。その時期の幕府や社会の動きはどうだったか? 幕府では大きな変化が生じた。久世-安藤政権が倒れて、幕府の新たな体制づくりが急務となった。
2>
幕府の改革は内部からではなく外部の圧力で強行された。それは島津久光の登場で始まった。ドラマでは、将軍後見職に就いた一橋慶喜と政事総裁職となった松平春嶽と会合の場で、久光が攘夷を強調して、慶喜から偽善だと嫌みを言われて久光が不機嫌になる様子が描かれたが少し違うと思う。
3>
久光は率兵上京したときから、攘夷派とは一線を画しており、それは藩内攘夷派を粛清した寺田屋事件に顕れている。久光も一般的な攘夷に反対ではなかったが、政略上、攘夷は保留して強く主張しておらず、朝廷と幕府の改革を優先していた。だから、慶喜に攘夷を迫るというのは考えにくい。
4>
それはともあれ、勅使大原重徳を伴って江戸へ下った久光は銃砲で武装した薩摩藩兵の威力もあって、まず春嶽の政事総裁職就任を幕府に認めさせた。しかし、幕府は慶喜の復権には抵抗した。そこで、薩摩藩は一計を案じた。
5>
勅使大原の宿所である龍ノ口の伝奏屋敷(現在の丸ノ内)に老中の脇坂安宅と板倉勝静を招いて慶喜の将軍後見職就任を迫った。2人が即答を拒むと、刺客を隣室に潜ませていることを匂わせたので、ついに2老中は屈したのである。そうした薩摩の強迫もあったせいか、慶喜の同職就任の辞令は奇妙だった。
6>
「此度、叡慮を以て仰せ下され候に付き、後見相勤められそうろう様に」と、どこかよそよそしく、幕府の意向というより、「叡慮」すなわち天皇の意向なので仕方なく後見職に就けたといわんばかりだった。もともと、将軍後見職も政事総裁職も幕府の常置の役職ではなく、臨時職である。
7>
そのため、ほとんど権限がなくお飾りにすぎないことが明らかになってくる。ともあれ、自身の実力で慶喜の将軍後見職を実現した大久保一蔵はひそかに快哉を叫んだ。日記には「数十年来苦心焦慮したことは夢のような心地である」と書いた。前藩主島津斉彬の宿願が叶ったという思いだった。
8>
大河ドラマ「青天を衝け」続き。一方、渋沢栄一たちの攘夷挙兵計画である。この頃、北武蔵では、栄一たちのほか、血洗村がある大里郡の西隣、榛沢郡阿賀野村の儒者、桃井可堂とその同志たちも挙兵を計画していた。渋沢たちは「慷慨組」、桃井らは「天朝組」と称した。
9>
渋沢たちは高崎城を乗っ取ったうえで横浜居留地の焼き討ちを計画したが、桃井らは南朝の忠臣、新田義貞の後裔、岩松俊純を擁して赤城山挙兵をめざし、新田義貞の鎌倉攻略に倣い、横浜襲撃も計画していたという。しかし、肝心の岩松が恐れを成して江戸町奉行所に訴え出たため失敗に終わる。
10>
一方、渋沢たちのほうも結果として計画を中止してしまうが、それは次回のお楽しみ。ただ、不思議なのは、なぜ高崎城を奪ったあと、鎌倉街道を進んで横浜の焼き討ちなのか? その戦略の意味がよくわかならない。栄一の自伝『青淵回顧録』によれば、挙兵参加者は69名の同志だったという。
11>
わずか69名で高崎城を維持できるはずがない。あくまで城乗っ取りという驚天動地のことをやって天下の耳目を集めたいという目的か? それなら横浜の居留地焼き討ちも同様で、しかも外交問題となって英仏などと戦争になってもおかしくない。こちらがはるかに驚天動地である。
12>
むしろ、高崎城乗っ取りなどやめて北武蔵から一気に鎌倉街道を南下し、横浜を襲撃したほうがよいのでは? 69名いたらかなりのことができるはず。渋沢たちと相前後して、高杉晋作らが建設中の英国公使館を焼き討ちしたが、わずか10数名である。渋沢たちのほうがよほど有利だと思うが。
13>
文久3年(1863)は関東、関西で同時多発的な攘夷挙兵が行われている。しかし、八月十八日政変によって、長州勢力が都落ちしてから、天誅組の潰滅など攘夷派は大打撃を蒙った。一方、関東では家元の水戸藩以外でも、慷慨組と天朝組、さらに下総九十九里でも真忠組が挙兵した。
14>
真忠組は楠音次郎や三浦帯刀を首領として、窮民救済の世直しをスローガンとした。攘夷色はそれほど強くない。この挙兵は貧民に支持されて1年間ほど持ちこたえた。彼らも水戸藩攘夷派とつながっていたかもしれない。新田や楠といった鎌倉幕府打倒の忠臣たちに倣うのもこの時期の傾向。
15>


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