藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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「青天を衝け」(10)がより面白くなる 町田明広先生の解説 4/18

2021年04月18日 21時31分34秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(10)「栄一、志士になる」
 
内容:
栄一、再び江戸へ!訥庵、河野に出会い草莽の志士に目覚める・・・。
麦芽進める和宮降嫁に怒る尊攘派。
安藤暗殺計画煮加わる長七郎・・・
惇忠、栄一らの必死の説得はどうなる!?
 
再び江戸を訪れた栄一は尊王論者・大橋訥庵や門下生の河野顕三に出会い
尊王攘夷の風を感じ草莽の志士に目覚めていく。
一方幕府は老中・安藤信正が孝明天皇の妹・和宮の将軍・家茂への降嫁を進め、
朝廷との結びつきを強めようとしていた。
そのことは尊攘派の怒りに火をつけ、
長七郎は安藤暗殺計画に命を捨てる覚悟を決めるが・・・
 
*町田先生は心配な事に体調を崩されているので、
 今週も他の先生の解説で凌ぎたいと思います。

  
1>町田 明広@machi82175302 4月17日
今週中ごろから、体調を崩しております。オーバーワークがたたったものですが、回復の兆しがいまいち見えません。。ついては、明日の大河ドラマ後のツイートはお休みいたします。
2>
町田 明広さんがリツイート
JBpress@JBpress 4月12日
[今日の注目記事] 英雄?悪人?
新着情報:
ここから過去の記事も御覧いただけます。
 
3>
最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、
多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
4>
NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺
 
著者名:亀田俊和(著者) 河内春人(著者) 矢部健太郎(著者) 高尾善希(著者) 町田明広(著者) 舟橋正真(著者)  定価:990円
  

1>桐野作人@kirinosakujin 4月1日
京都東山の東福寺塔頭、即宗院採薪亭での講演のお知らせ。
日時:5月9日(日)13:30~
場所:東福寺即宗院
講師:桐野作人
演題:五代友厚の事績(仮)
申込:とくに必要はありませんが、茶話会の人数確認のため、連絡してほしいとのこと。その際「桐野からの紹介」だと伝えて下さい。
2>
下記の即宗院サイトの右下に「問い合わせ」があります。そこをクリックすると、メルアドが表示されますので、ご利用下さい。電話でも可。
https://sokushuin.net/index.html
春の拝観期間かもしれないので、そのときなら境内の散策もできます。
不明な点があれば、小生にメッセージを。
3>
即宗院は島津家や薩摩藩ゆかりのお寺です。14世紀後半、島津氏6代氏久の菩提を弔うために建立。開基は剛中玄柔和尚(東福寺第五十四世住持)。
境内には、西郷隆盛が薩摩藩の戊辰戦争戦死者の名前を刻んだ「東征戦亡の碑」や西郷と僧月照が密談したと伝わる採薪亭の石碑のほか、
4>
即宗院には、著名な薩摩藩士である奈良原喜左衛門(生麦事件)、人斬り新兵衛で知られる田中新兵衛、寺田屋事件で有馬新七と戦い闘死した道島五郎兵衛、脱藩士で英国遊学や破天荒な足跡で知られる中井弘などの墓もあります。


1>桐野作人@kirinosakujin 4月18日
幕末期に「国家」といえば「藩」の意味で使われるケースが多かった。ところが、近年見つかった坂本龍馬の書簡(福井藩士の中根雪江宛て)で「新国家」と言葉あり。将軍慶喜の大政奉還の勅許後、新体制発足に臨み、同藩士の三岡八郎(のち由利公正)にその財政を担当させるために上洛を促したもの。

2>
この「新国家」は幕府に替わる日本政府の意味。ほかにも事例を見た記憶があるが、すぐには思い出さないでいた。たまたま見つけた蘭学者の箕作秋坪の書簡。薩摩藩主島津斉彬の死去を悼んでいる。安政5年(1858)8月21日付で、適塾の同窓で福岡藩医の武谷椋亭に宛てたもの。龍馬書簡より10年ほど前。
3>
その一節に「薩公(斉彬)御病気之趣実ニ 国家之不幸と嘆息仕」とある。「国家」の前に闕字を用いて敬意を表しているのは薩摩藩の意味ではないだろう。安政の大獄が発動されたなかでの島津斉彬の死が日本という「国家」の損失だと嘆いていると解釈してもよいのではないか。

4>
本日の大河ドラマ「青天を衝け」第10回。老中安藤信正が襲撃された坂下門外の変が描かれました。桜田門外の変はいつも詳しく描かれますが、坂下門外の変は少し触れられたらいいほうで、ナレーションだけで終わったりすることも。今回はその背景も含めて、比較的詳しく描かれました。
5>
老中安藤信正(陸奥磐城平藩主)は大老井伊直弼に引き立てられて老中に昇進。安政の大獄のさなかも水戸藩に戊午の密勅の返納を迫ったので、水戸藩などから敵視された。井伊大老の死去後、老中に再任した久世広周(下総関宿藩主)とともに幕閣の中心となり、久世・安藤政権とも呼ばれた。
6>
老中安藤は井伊大老の後継者だったが、井伊の強権政治により悪化した公武関係を修復させようとして公武一和政策に転じた。その中心が孝明天皇の妹和宮親子内親王と将軍家茂の縁組、いわゆる和宮降嫁だった。しかし、尊王攘夷派の浪士たちは幕府が和宮を人質にして廃帝を迫るものと激高。
7>
もともと老中安藤襲撃策は桜田門外の変から4カ月後、万延元年(1860)7月、長州の桂小五郎と水戸の西丸帯刀らの間で水長盟約で、品川沖碇泊中の長州藩船丙辰丸の船中で結ばれたため、「丙辰丸盟約」ともいう。しかし、翌文久元年から長州藩では長井雅楽の航海遠略策が藩論となった。
8>
一方、水戸藩浪士も高輪東禅寺の英国公使館襲撃事件を起こして幕府から弾圧されていた。その頃、ドラマでも登場した宇都宮藩の儒者、大橋訥庵が和宮降嫁に憤激して挙兵しようとして水戸藩に協力を求めたが、水戸藩有志は安藤老中の襲撃を主張したため、合同は成らなかった。
9>
その後、大橋は輪王寺宮の擁立を策したが、これも失敗したため、再び水戸藩有志と合流して、安藤老中の襲撃を計画することになった。文久2年(1862)1月15日に決行と決まった。しかし、幕府に探知されて、12日には小梅の大橋の塾に手入れがあり、大橋らが幕吏に捕縛されてしまった。
10>
結局、襲撃メンバーは水戸から平山兵介、小田彦三郎、川辺左次右衛門、東禅寺襲撃の生き残りの黒沢五郎、高畑総次郎、宇都宮から河野顕三、大橋方に寄寓していた越後の川本杜太郎も加わった。都合7名である。人数が少なかったのは、大橋の小梅塾への事前の手入れと、水戸藩の検問が厳重だったため。
11>
襲撃は予定どおり、1月15日に決行された。しかし、老中安藤も桜田門外の変以来、警備を厳重にしていたのと、襲撃者が少数だったため、安藤は負傷しただけで、6名が闘死した。川辺だけは遅刻してしまい、あとで桂小五郎を訪ねて斬奸趣意書を手渡したのち切腹した。

12>
大河ドラマ「青天を衝け」続き。坂下門外の変で負傷した老中安藤信正の負傷の程度はどうだったのか諸説ある。「文久壬戌筆記」には「目の下耳の辺へ二処ほど疵これあり」、「福岡藩江戸詰用人書翰」には「御背に二ヶ所御疵を負いに相成り、内一ヶ所は御深さ凡そ一寸計り(約3センチ)」、
13>
興味深いのは「弘前藩喜良野某書翰」で「対馬守様(安藤)御頬にか御眉間の辺にかに御疵所御座候よし」とある。頬か眉間の傷は目に見える場所。もし事実なら、老中失脚はこれが原因の一つかも。老中安藤のその後だが、内願により老中罷免、溜間格に進み、2万石の加増を受けた。
14>
しかし、半年後、加増2万石を没収され、さらに同年11月に永蟄居、さらに2万石削封の追罰を受け、慶応2年(1866)に赦された。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加盟したものの城を落とされて、安藤は仙台に逃れている。戦争終結後、再び永蟄居、明治2年(1869)に赦された。波瀾の生涯である。

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