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藝藩志・藝藩志拾遺研究会

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仙台口征討軍 富岡駅付近(福島県双葉郡富岡町) 慶応4年7月28日

2019年04月08日 23時57分44秒 | 芸藩志第九部 戊辰戦争
<戊辰役戦史>
官軍は26日広野駅付近から敵を追撃、弁天坂の堅固な陣地を大した抵抗もなく容易に奪取し、木戸駅に進軍、岩国兵はこの付近に宿営した。27日の行動については『復古記』には何の記述もない。(『復古記』をメインテキストにしているらしい)($①P534)
前後の記述から判断すると、因州・芸州兵は広野・下浅見川付近の陣地に帰って宿営した後、27日には木戸北方本道上の北田・井出付近に到着、新たに筑前藩(黒田)兵一中隊と砲二門が井出村に到着。因州・芸州兵が多数の死傷者を出した分の補充が出来た。
同盟軍の記録も甚だお粗末で、集結地も兵力も記載がない。($①P535)
熊ノ町南側の高地帯が当時の相馬中村藩境で、その少し南側の浜側から小良浜、夜ノ森、手岡に陣地を構え、戦線7Kmに渡って防衛ラインとしていた。(複雑なので説明を簡略化した)計画配備されたものではなく、何となくそういう配置になったものの様で、陣地は薄弱なものであった。
同盟軍は、小良浜は仙台兵主力、夜ノ森は相馬・米沢兵、手岡は『相馬藩記』の記述からすると相馬兵と思われる。($①P535)
新政府軍は、小良浜は筑前一中隊とその砲二門で、敵は砲台3カ所となっているが、若干の交戦の後退却したので、容易に砲台を奪取し、長洲半隊と川を渡り、熊川を占拠。
中央方面は長兵に岩国兵一中隊が主力で、後方から因州・芸州兵。敵は堡塁によって頑強に抵抗するが、後続の芸兵も戦闘に加わる。新政府軍の砲は芸州一門のみで砲火の威力が足りずに苦戦。長兵は死2、傷12を出したが、勇敢に敵堡塁に突っ込み、接戦、格闘の末、占領。追撃して熊ノ町南方の関門を奪取した。
($①P537)
手岡は長州・因州各一中隊で、上手岡を占領して宿営、翌29日に熊ノ町に転進、主力と合流した。($①P538)
この日の戦闘に於いて、長兵は死2、傷12。岩国兵は死7、傷5。因州兵は傷3で、芸洲兵、筑前兵は報告なし。津藩兵は戦闘に間に合わず。
同盟軍は相馬兵が本道付近を守備、左翼を米沢兵が守備した様だが、本道付近が破られ、米沢兵も持ち堪えられず後退、更に何故か仙台の槍隊が居たらしいが、火戦中は後方に隠れていたが、正面と側面から不意に突っ込まれたので指揮号令も行き届かない程混乱し、多数の犠牲を出して北方へ退却した。
相馬兵は死7、傷5を出しただけだった。($①P538)


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