藝藩志・藝藩志拾遺研究会

藝州浅野家の幕末史料『藝藩志・藝藩志拾遺』の情報発信サイト

「青天を衝け」(6)がより面白くなる 町田明広先生の解説 3/21

2021年03月21日 23時56分16秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
「青天を衝け」(6)「栄一胸騒ぎ」
内容:
栄一、喜作、千代、それぞれの思いが交錯する。そこへ、同上破り・真田が現れて・・・。
美賀君、篤君は江戸へ。慶喜は東湖を失って暴走する父・斉昭に引退を勧める。
 
栄一は、長七郎や喜作と共に剣術稽古に励んでいた。そんなとき突然千代から思いを告げられ、胸がぐるぐるしてしまう栄一。さらに、道場破りの真田範之助が現れて・・・。一方、江戸には美賀君や篤君がやってくる。東湖を失った斉昭は暴走し、慶喜は引退を勧めるが・・・。慶喜と栄一の偶然の出会にも注目!
 
*今週は町田先生ご多忙につき、町田先生の解説はお休みです。
 が、しかし、少しTweetありました。
 他の先生方のTweetをお楽しみください。(先生は教育者とは限りません)
この色で少し文字が大きいのは、URL貼っています。

 
先ほど、青天を衝け!拝見。今回は事後ツイート満載な内容でしたが、出来ずに残念でした。次週は復活しますので、またよろしくお願いいたします。
2>町田 明広@machi82175302 3月21日
公開されました!ぜひ、ご覧下さい。
3>町田 明広@machi82175302 3月21日
本日の大河、島津斉彬に岩瀬忠震が登場でしたね。この2人でお腹いっぱいのツイートだったな。
 

 
中村武生 歴史地理史学@busyo3 3月21日
篤姫が家定の男子を生むより、慶喜を継嗣にする方が望まれたという根拠はなんだろう。
中村武生 歴史地理史学@busyo3 3月21日
岩瀬が禁裏を「朝廷」とよんでよいのでしょうか。このころの「朝廷」とは徳川公儀を指していたのではないのですか。

 *tatsu uwa@TatsuUwa 3月21日
斉昭から慶喜への訓示のこと、明治も終わりに近づいたころになって慶喜は伊藤博文に話すんだよなぁ。

 *大山 格@itaru_ohyama 3月21日
将軍宣下の勅使を江戸城に迎えるとき、将軍が上座に立つという不遜な態度をとり続けた徳川家。14代将軍家茂の将軍宣下に際しては、はじめて勅使を上座に立たせた。

 *【公式】大河ドラマ「青天を衝け」@nhk_seiten 3月21日
【青天ナビ】 堀田正睦 のセリフにある 海防掛(かいぼうがかり)とは、外国問題や海防などを扱う幕府の役職のこと。開国互市 とは開国して貿易をすること。軍艦教授所 とは航海術や砲術などを学ぶ海軍の学校のことです。

 *日本史専攻@jhs_kenkyu 3月21日
慶喜の正室・美賀も登場しましたが、初登場から荒れまくってましたね。この辺りの描写については『昨夢紀事』という史料などを参照しております。

 *桐野作人@kirinosakujin 3月21日
大河ドラマ「青天を衝け」第6回。血洗村に突然現れた道場破りの真田範之助の登場だが、時期的に少し早いか。渋沢の従兄、尾高長七郎は早くから江戸に出て撃剣の修業をしていた。渋沢もその影響を受けて江戸に行き、儒者海保章之助の塾に通いながら、お玉ヶ池の千葉道場で修業している。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
ドラマでは渋沢と慶喜のストーリーが同時並行的に描かれていたが、今回の最後についに両者が交わった。ただ、場所的にはどうか? 渋沢は紺屋への買付に信州か上州に行こうとしていたように見えたが、慶喜は乗馬好きとはいえ、遠馬は江戸より南の神奈川や鎌倉が多いようである。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
慶喜の遠馬について史料で残っているのは江戸より南が多く、北に遠馬することはあまりないのではないか。だから、両者がドラマのような形で会うのは考えにくいのではないか。それはまあ、両者の遭遇を描くための創作だろう。実際に両者が出会うのはだいぶあとだろう。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
大河ドラマ「青天を衝け」第6回。薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫の江戸到着があった。安政大地震によって、将軍家定との婚礼は1年ほど延びて、安政3年(1856)12月だった。ドラマではまだ婚礼以前である。篤姫の呼び名を篤君としたのがやや奇異に感じられたと思う。篤姫の名前の変遷だが
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
篤姫は島津家でも徳川の御三家のような島津一門四家のひとつ、今和泉家の生まれで、はじめ一子と名乗った。本家の藩主斉彬に見出されて養女(徳川家に対しては実子扱いとした)となり、篤姫と名乗った。その後、将軍家定との婚姻に際して、島津家は徳川将軍家とは家格が釣り合わない。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
将軍家は皇女か摂関家の娘を娶るのが通例だった。またかつて11代将軍家斉の御台所となった茂姫’(島津重豪の娘)の先例にならって、篤姫は親戚筋の近衛忠煕の養女となり、篤君と名乗りを変え、実名を敬子(すみこ)とした。ドラマで篤君だったのは近衛家の姫という意味合いである。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
その後の名乗りは、江戸城に入った安政3年(1856)11月、大目付の名で「篤君」から「姫君様」と名乗りを変えると幕府が布告している。さらに同年12月18日、婚礼になると、「姫君様」から「御台様」とさらに名乗りが変更になっている。次回から将軍家定との結婚生活が描かれるか?
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
一橋慶喜と一条美賀子の縁組も描かれた。美賀子はドラマで紹介されたように清華家(摂関家の1ランク下)の今出川家(菊亭家)の当主、三位中将実順(さねあや)の妹で名は延君といった。はじめ、摂関家の一条家から千代君が廉中候補だったが、病身で破約となる。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
当主の一条忠香(権大納言左大将)は代わりに今出川家の延君を養女として、慶喜との縁組が成立した。なぜ養女にしたかといえば、清華家は御三卿より家格が下だったから。一橋屋形の歴代簾中は将軍家の姫か他の御三卿の姫以外では宮家か摂関家の姫が嫁ぐ慣習だった。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
延君は一条家の養女となると、篤君同様、美賀君と呼ばれた。美賀君と慶喜の婚礼は篤君と将軍家定より1年早く、安政2年(1855)12月に挙行された。美賀子の名乗りは厳密にいえば、明治になってからの解明である。ちなみに慶喜より2歳上の姉さん女房だった。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
ドラマでは美賀君の派手な狂乱の様子が描かれた。理由はおそらくひとつで、慶喜の養母、徳信院(先々代一橋慶寿の廉中)への嫉妬であるのは間違いない。慶喜と徳信院は非常に親密だったらしい。2人の秘めやかな関係を示す福井藩主松平慶永宛ての宇和島藩主伊達宗城の書状がある。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
松平慶永は徳信院の亡夫一橋慶寿の弟だから、徳信院は兄嫁になる。なお、徳信院は宮家の伏見宮貞敬親王の姫、直子である。伊達宗城書状は「橋公(慶喜)の閨君(美賀君)が先頃、自刃しようとした件で、貴方(慶永)は徳信院と橋公の云々が原因だと思っているようだが、
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
徳信院のご容姿は美賀君とは天地ほどの差があるから、貴方も御亡兄のために何かとご心痛だろう」。いやはや、宗城さん、あけすけですね。これ以上はご想像下さい。ともあれ、文久年間以降、慶喜はほとんど在京するので、美賀君とは別居状態になった。薄倖な生涯だったのだろうか。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
美賀君の追加。ドラマで慶喜が徳信院と一緒に謡いをしていたところに美賀君が乱入してくる場面があったが、これは実話のようです。松平慶永の生母青松院によれば、「(謡いの)その座にて(美賀君が)ただちに御声を発し、刑部卿様(慶喜)をおこづき、御立腹あらせられし」とのこと。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
ドラマで米国の初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスが下田に上陸する場面あり。ハリスは日米和親条約の締結により赴任し、通商修好条約の締結を最大の目的にしていました。とくに将軍家定への拝謁を希望します。両者の対面の場面が次回くらいに描かれるかどうか? 
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
疲れたので今日は下田の関連写真の紹介をば。ハリスが領事館とした下田の玉泉寺やドラマ紀行でも紹介された渋沢の名前がある碑文、ストーブの煙出し口など。カーター元大統領も訪問していますね。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
下田沖に停泊していたアメリカ艦隊のポーハタン号に乗り込んで密航しようとして捕縛された吉田松陰と金子重輔の銅像など。下田湾には今も黒船が走っています。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
一橋慶喜と将軍継嗣問題について重要な場面もありました。福井藩士の橋本左内が慶喜側近の平岡円四郎に、慶喜がどういう人物か教えてほしいと申し出た件。いわゆる「橋公略行状」「橋公御行状記略」の伏線。南紀派との将軍継嗣問題を有利に運ぼうとして、慶喜の行状を詳しくまとめたもの。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
「橋公御行状記略」にも、慶喜が武術や馬術が得意で、とくに馬術は保土ケ谷や金沢あたりまで遠馬することが書かれている。「行状記」をまとめた左内はこれを主君松平慶永に披露し、慶永は老中の松平忠固に送っている。「行状記」は大奥などを含め、各方面に写しが配付されたようである。
桐野作人@kirinosakujin 3月21日
薩摩藩にも配付されており、西郷吉之助も読んでいる。この頃、西郷は7歳年下の橋本左内を崇敬して「我、同輩においては橋本景岳(左内の号)に服す」と述べる。また西郷が城山で最期を迎えるとき、「行状記」を懐中に入れていたとも伝わる。

 *こけし@kokeshinookimon 3月21日
今日は政治史的にはハリス来日による対外政策の転換が山場でした。 日米和親条約は、通商を含まずに物資の補給を補償するもので、それまでの薪水給与令の拡大版という位置づけでした。
こけし@kokeshinookimon 3月21日
一方、ハリスが求めた通商条約は、それまで徳川幕府が維持していた管理貿易から自由貿易への転換を求めるもので、徳川幕府の海禁政策の終焉を意味していた訳です。 そのため、幕閣達にとっては通商条約の締結はハードルがあまりに高く、今日の放送のように幕府は通商条約締結で逡巡します。
こけし@kokeshinookimon 3月21日
ハリスの江戸登城は安政4年10月に実現しますが、この直前まで幕府はハリス登城をめぐり紛糾します。 というのも、アメリカと結んだ「和親」というカテゴリーは「通信」「通商」以下のもので、登城を認めることはアメリカの軍事的脅威に屈したとのイメージを与えてしまうためです。
こけし@kokeshinookimon 3月21日
ちなみにハリス登城に際しては、家定の代わりに慶喜を面会させようという声もあがりますが、結果的には家定が面会しています。 この時、家定は小直衣という直垂と直衣に次ぐ正装であらわれています。普段着の縮緬姿でオランダ商館長と面会していた、それまでの将軍に比べて丁重に待遇しています。
こけし@kokeshinookimon 3月21日
ハリスが牛乳といっていたのは、↓の話や史跡からのインスパイアです。ちなみに玉泉寺では牛乳を販売していますし、チラッと映った住職の飼い猫は偉く人懐っこいです。https://www.surugawan.net/guide/12.html
こけし@kokeshinookimon 3月21日
ハリスが下田で滞在した玉泉寺の前の海から吉田松陰はアメリカ船に乗り込もうとした。 下田に史料調査に行った際の写真をアップしようと思ったが、遊んでる写真ばかりでアップできなかった(ヲイ!) 玉泉寺の近くの金目鯛バーガーは美味であった。











 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「青天を衝け」(5)がより面... | トップ | 「青天を衝け」(7)がより面... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。