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「青天を衝け」(5)がより面白くなる 町田明広先生の解説 3/14

2021年03月15日 18時53分27秒 | 大河ドラマ「青天を衝け」がより面白くなる話
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「青天を衝け」(5)「栄一、揺れる」3/14

内容:
なかの縁談が破談に。原因は憑き物?霊払に来た怪しい修験者を栄一が打ち負かす!
夷狄を巡り阿部と斉昭が烈しく対立、必死にいさめる藤田東湖。そして江戸を大地震が襲う。

栄一は淳忠が薦めた本から、アヘン戦争で清が英国に負けた顛末を知り、開国した日本の行く末を危惧する。
そんな中、なかの縁談が相手の家に憑き物がいるという理由で反対され、破談になってしまう。ふさぎ込んでしまう、なか。江戸では幕府の方針に納得行かない斉昭を、阿部正弘と藤田東湖は必死にいさめる。そんなとき江戸を大地震が襲う・・・。



「青天を衝け」5回目を拝見!姉なかの破談をモチーフに、当時の迷信に対する庶民感情を紹介し、それに動じない渋沢の合理性、先進性を示し、将来を予感させる巧みな構成でした。安政の東海と江戸地震が描かれ、藤田東湖が最後となりましたが、今後の水戸藩の迷走からも目が離せませんね。
2>町田 明広@machi82175302 3月14日
早野恵著の『清英近世談』(1850年)について、ペリー来航までの10年間、日本では清英関係やアヘン戦争に関する著書が流行しており、他にも斎藤馨著の『鴉片始末』(1843年)、坂厚雄著の『阿片乱記』(1854年)、塩谷宕陰著の『阿芙蓉彙聞』(1847年)等の書物が刊行された。
3>町田 明広@machi82175302 3月14日
渋沢はペリー来航後、このタイミングで『清英近世談』を読み始め、欧米に対する認識の起点となったようだ。この『清英近世談』前篇5巻は、20枚ほどの画像と地図のイラストを付けた、アヘン戦争の経緯を詳細に再現した本であり、ビジュアル的にも想像力をかき立てる内容であった。
4>町田 明広@machi82175302 3月14日
アヘン戦争当時、イギリスは主に帆柱が 3 本立てであるフリゲート艦を主力軍艦とし、黒船のような武装汽船は数隻しか使用していなかったとされている。一方で、『近世談』に描かれたイギリス軍と清国軍の戦いは非常に激しいもので、行間にイギリスに対する敵愾心を読み取ることができた。
5>町田 明広@machi82175302 3月14日
渋沢は、直接ペリー艦隊を目撃してはいないが、『清英近世談』(1850年)を読むことによって、黒船艦隊が江戸湾に現れる光景を想像し、攘夷に対する思いを深めていったのかも知れない。
6>町田 明広@machi82175302 3月14日
老中阿部正弘(1819~57)について、ここで復習を。天保14年(1843)に25歳で老中となると、安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。水野忠邦の失脚後、老中首座となり、外国船の出没が激しくなると海防を厳重にすることを奨励した。
7>町田 明広@machi82175302 3月14日
阿部正弘は、アメリカ・ロシア・オランダ・イギリスと和親条約を締結したが、本日は米英と締結後、ロシアの段階だった。阿部は安政の改革を断行したが、基本構想は譜代大名に独占された老中制度を打破すること、それによって譜代門閥制度による幕府独裁制を修正することにあった。
8>町田 明広@machi82175302 3月14日
朝廷と有力大名(御三家・一門・外様)の協力を得て、挙国一致体制の構築を企図したが、背景には直面する外交問題に対応できない幕府の深刻な武威低下があった。薩摩藩主島津斉彬、越前藩主松平慶永、宇和島藩主伊達宗城と連携し、水戸斉昭を幕政参与とし、将軍継嗣としては慶喜を推した。
9>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政の改革の具体的な施策としては、外交・国防問題に専従させる海岸防禦御用掛(海防掛)を任命し、幕臣の師弟のために、軍事的養成機関である講武所を設置した。加えて、江川英龍(太郎左衛門)に命じて、お台場に砲台を造営させた。こうして、海防・軍事の強化を目指した。
10>町田 明広@machi82175302 3月14日
諸藩に対しては、寛永12年(1635)の大船建造禁止令を廃止し、その建造を解禁し、海防の強化を命じた。また、幕臣以外にも広く門戸を開放した、国家レベルでの取り組みとして、洋学教育・外交問題研究機関である蕃書調所、および海軍士官養成機関である長崎海軍伝習所を設置した。
11>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政の改革の中でも、最も重要な政策は人材登用で勝海舟岩瀬忠震川路聖謨江川英龍中浜万次郎高島秋帆永井尚志などを大抜擢。多くは目付・海防掛といった要職に起用された。安政の大獄で罷免等の弾圧を受けたが、この間は外交問題を中心として、阿部を補佐して幕政を担った。
12>町田 明広@machi82175302 3月14日
阿部政権は、外様大名から庶民に足るまで、外交問題についての意見を募るなど、開放的な政策を行った。その反面、身分や組織の枠を超えて議論を進める、いわゆる「処士横議」の風潮を生み、幕政批判が公然と起こる下地が形成された面もある。
13>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政の改革は、幕府に一服の清涼剤を与え、立ち直りのきっかけになるかと思った。しかし、その矢先に、井伊大老直弼による恐怖政治が始まり、元の木阿弥に帰してしまったのだ。安政の改革はもっと注目されてよい。
14>町田 明広@machi82175302 3月14日
本日は2度も大地震が発生したが、そもそも江戸時代に死者1000人を超えたマグニチュード8以上の大地震は、三陸沖で1回、関東で1回、そして飛び抜けて多いのが、4度の東海-南海地震であった。
15>町田 明広@machi82175302 3月14日
具体的には、慶長地震(1605年、東海・東南海・南海)、慶長三陸地震(1611年、三陸沖)、元禄地震(1703年、関東)、宝永地震(1707年、東海・東南海・南海)、安政東海地震(1854年、東海・東南海)、安政南海地震(1854年、南海)であった。
16>町田 明広@machi82175302 3月14日
日露交渉史において、最も重要な人物は海軍軍人プチャーチン(1804~83)である。巻き込まれたのは安政東海地震であったが、まずはそのプチャーチンを紹介しよう。1822年に海軍士官学校を卒業し、海軍少尉を経て、1842年に海軍少将となり、1848年にはペルシャとの国境を画定した。
17>町田 明広@machi82175302 3月14日
1852年、海軍中将・侍従武官長の身分で第3回遣日全権大使節に任命され、嘉永6年(1853)7月18日、長崎に初めて来航し、その後幾多の困難を乗り越え、安政元年(1855)12月21日、下田で日露和親条約を締結した。その功績により、1859年に伯爵に叙され、海軍大将・元帥に栄進した。
18>町田 明広@machi82175302 3月14日
1861年には教育大臣(国民啓蒙大臣)に任命され、任期間に大学を中心とする学生運動、革命運動を弾圧した。また、明治14年(1881)には日露友好に貢献した功績によって、日本政府から勲一等旭日章が贈られ、1883年、80歳で死去している。
19>町田 明広@machi82175302 3月14日
そのプチャーチンが締結した日露和親条約について、その経緯などを見ていこう。ペリーに遅れること1ヵ月半後、嘉永6年7月18日、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航した。長崎奉行に国書を渡し、江戸から幕府全権が到着するのを待った。
20>町田 明広@machi82175302 3月14日
プチャーチンは、クリミア戦争に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得、嘉永6年11月23日、不測の事態を回避するため、長崎を離れ一旦上海に向かった。12月5日、再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨筒井政憲と計6回に渡り会談した。
21>町田 明広@machi82175302 3月14日
嘉永7年1月8日、一定の成果を得たプチャーチンは、マニラへ向かい船の修理や補給を行った。旗艦パルラダ号は木造の老朽艦であったため、その後9月にロシア沿海州のインペラトール湾において、本国から回航して来たディアナ号に乗り換えた。
22>町田 明広@machi82175302 3月14日
プチャーチンは、イギリス艦隊との戦闘に備えるために旗艦以外の3隻の船を沿海州に残し、10月21日にディアナ号単艦で函館に入港した。しかし、同地での交渉を拒否されたため、有利に交渉を運ぶために京都(天皇)に近い大阪へ向かい、翌月に天保山沖に到着した。
23>町田 明広@machi82175302 3月14日
プチャーチンによって、大阪湾が無防備であることが帰せずして暴露されてしまい、朝廷は激しく動揺を来した。しかし、大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けたため、あくまでも紳士的な対応を心がけ下田に入港した。幕府は再び川路聖謨筒井政憲らを下田へ派遣し交渉を命令した。
24>町田 明広@machi82175302 3月14日
プチャーチンが遭遇した安政東海地震とは、嘉永7年11月4日午前9時ころ発生し、地震の規模はM8.4、駿河湾西側および甲府盆地では軒並み震度7と推定される。大小の被害を被った地域の面積は約36,000平方キロメートルで、日本の国土10%弱に相当する稀に見る大地震であった。
25>町田 明広@machi82175302 3月14日
『大日本地震史料』によると、この地震による被災地域全体の被害は、潰家、焼失家は30,000軒、死者は3,000人とする説があり、各地で被害に関する新史料が発見されれば、この数字はもっと多くなる可能性が高いと言えよう。プチャーチン乗船のディアナ号も被害を受けた。
26>町田 明広@machi82175302 3月14日
ディアナ号付きのマホフ司祭の航海日誌『日本渡航記』によると、地震勃発時のディアナ号は下田湾内に停泊していが、大波のうねりに翻弄され、岩礁に激突して30分間に42回転した。甲板では大砲の一門が脱落して、乗組員のソボレフを圧死させ、数人を負傷させた。
27>町田 明広@machi82175302 3月14日
地震直後のロシア人の対応であるが、海上では濁流と共に家屋や小船の残骸が艦の脇を流れ去って行き、この惨状の中、ロシア人は3人の日本人を救っている。また、プチャーチンは津波が治まると、医師を引率して上陸し、筒井と川路を訪問、救援を申し出た。
28>町田 明広@machi82175302 3月14日
これに対し、川路聖謨はロシア側の申し出を丁重に断りながらも、迅速な配慮に感服している。川路はロシア側の医者が「死せんとする人を助け、厚く療治の上、按摩までする」光景を目の当たりにした。このあたり、記憶が定かでないが、ドラマでも交流が描かれていた。
29>町田 明広@machi82175302 3月14日
川路聖謨は、治療を受けた日本人が「泣きておがむ」姿に驚嘆し、「恐るべし、心得べき事也」と日記に書いている。長崎ではロシア人の呼び方を「魯戎」としていたが、地震以後度々「魯人」と改めていることから、川路の心の微妙な変化を読み取ることができよう。
30>町田 明広@machi82175302 3月14日
なお、嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に安政南海地震が発生している。なんと、2日連続で東海地震と南海トラフが起こっており、その1年後に首都直下型地震が江戸を襲っている。こうした巨大地震の連鎖は今での起こりうることであり、過去のこととして片付けず、教訓としたい。
31>町田 明広@machi82175302 3月14日
この間の事情にご関心がある方は、拙稿「安政東海地震とプチャーチン : ディアナ号の遭難と日露友好 (日本研究所主催講演会 要旨)」をご参照ください。
32>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政江戸地震について、日本大百科全書によると、1855年(安政2)10月2日午後10時ごろ、江戸に発生した地震。震央は荒川河口付近で、規模はM6.9と推定される直下地震であった。江戸(東京)のこの次の大地震は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災である。
33>町田 明広@machi82175302 3月14日
江戸の町方での倒壊した家屋は1万6000、倒壊した土蔵は1400余、死者約4700人といわれたが、武家・社寺方を含めると、倒壊した家屋は2万、死者は1万人余と考えられる。地震後、火災が約30か所から発生したが、風が穏やかであったことが幸いし翌朝10時ごろには鎮火した。
34>町田 明広@machi82175302 3月14日
江戸市中の焼失面積は、関東大震災(1923)のときの約20分の1。現在の江戸川区や葛飾区方面では、地面の割れ目から水や泥が噴出するなど顕著な液状化現象があり、津波はなかったが、深川や木更津あたりでは海水の動揺があった。このほか地鳴りや発光現象などの前兆現象が報告あり。
35>町田 明広@machi82175302 3月14日
現在の世田谷区のあたりでは被害がなかったことがはっきりしているが、江戸以外の木更津での蔵の崩壊、幸手付近(埼玉県)での著しい液状化現象や家屋の倒壊、利根川、荒川流域での被害などが報告されている。
36>町田 明広@machi82175302 3月14日
江戸市中における被害が大きかったなかで、山の手の被害は比較的少なかったが、小石川の水戸藩邸では藤田東湖 戸田蓬軒らが圧死している。幕府は5か所に救小屋を設置して被災者を収容し、大名には帰国を許したり貸付金の返済延期、旗本・御家人には貸金などの応急措置をした。
37>町田 明広@machi82175302 3月14日
地震直後から、焼失地域を示す一枚摺をはじめ、地震に関する綴本、錦絵類の出版は甚だ多く、なかでも鯰絵と称されるものの多くは、震災により巨利を得た大工、左官や材木商などを風刺しており、よく当時の世相を表している。また鯰絵は民俗学の立場からも注目されている。
38>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政江戸地震で、藤田東湖も圧死している。斉昭の側用人として政治家としても活躍した東湖について、後期水戸学を単なる学問で終わらせず、政治の世界で実践し、学問と政治を融合することに成功し、全国の尊王攘夷運動の中心人物として活躍していた。
39>町田 明広@machi82175302 3月14日
 3月14日東湖の会沢正志斎を継承する思想は、『弘道館記述義』において明らかにされ、水戸学の思想を簡潔に表現し、その中で「尊王攘夷」の語を初めて用いた。また、東湖の自叙伝的詩文『回天詩史』は、幕末志士たちに大いに朗吟され、深い感銘を与え続けた。
40>町田 明広@machi82175302 3月14日
藤田東湖は、一旦は逃げたものの、母親を助けに戻り、身代わりとなった。東湖が死して、水戸斉昭にはブレーキが利かなくなり、水戸藩はバラバラになって内訌を続け、維新前に命脈を断ってしまうことになる。東湖の存在の大きさが分かるが、東湖死して、水戸もまた死すか。。
41>町田 明広@machi82175302 3月14日
安政江戸地震に関連し、余計な話を一つだけ。地震が起こり、桜田長州屋敷も倒壊したが、吉田稔麿はその際抜群の活躍をし、世子毛利元徳のお目に留まる幸運を得た。年譜には「江戸御番手御晝水仁として被差登候處、同十月江月大地震にて櫻田御屋形其外破損之節」と始まる記載がある。
42>町田 明広@machi82175302 3月14日
年譜は続けて、「大番所古木其外取除として罷出候處、若殿様(世子定広)御覧被遊御小姓を以名前御問はせ被遊、働を御覧して仰天なりと御意被遊候由」と、吉田稔麿は聞き及び、非常に感激してそのありがたい思いを手控たとある。稔麿の大感激は察して余りある。
43>町田 明広@machi82175302 3月14日
世子定広はその身分、年齢から想像できない吉田稔麿の活躍を通し、稔麿の印象を胸に深き刻み付けることになった。後年、稔麿の脱藩赦免において、定広の意向が決め手になるが、この時の記憶があったかも知れない。すいません、渋沢大河で関係ない話を。稔麿は卒論で扱い、思い入れがあり
44>町田 明広@machi82175302 3月14日
藤田小四郎(1842―1865)が初登場。水戸藩士藤田東湖の4男。名は信、字は子立、通称小四郎、変名小野贇男(あやお 。尊王攘夷運動に参加、元治元年(1864)の筑波山に挙兵し参画、筑波天狗党の中心人物の1人となる。
45>町田 明広@machi82175302 3月14日
藤田小四郎は、各地に転戦するが利なく、上洛の途中、越前国(福井県)新保で加賀藩に降伏、刑死した。墓は敦賀市と水戸市常磐共有墓地にある。天狗党残党の西行の際、渋沢も出陣しており、小四郎との面識もあるので今後の展開に期待したい。
46>町田 明広@machi82175302 3月14日
【NHKさいたまアリーナ教室・オンライン講座】渋沢栄一とその時代(次回4/3)
渋沢栄一の激動の人生を紐解き、キーパーソン将軍慶喜についても迫ります!途中からの参加も可能ですので、ぜひ(^^)
https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1225834.html
47>町田 明広@machi82175302 3月14日
【NHK青山講座・対面】幕末人物伝2-知られざる英雄の実像
3月20日(土)10:30~「武市半平太」
1回のみの参加も可能です。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
48>町田 明広@machi82175302 3月14日
NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」最新の研究に基づいて、龍馬の生涯を紐解き、志士・周旋家・交渉人・政治家として、多様性を持つ龍馬の動向を検証し、新たな知見に基づいて龍馬の実像に迫ります。
http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
49>町田 明広@machi82175302 3月14日
NHK青山・新講座(対面:4月スタート)「新説 坂本龍馬」
4/17(土)龍馬の生い立ちと土佐勤王党
5/15(土)龍馬の海軍構想と第二次脱藩
6/19(土)薩摩藩士・坂本龍馬の誕生
7/17(土)薩長同盟と寺田屋事件
8/21(土)海援隊と薩土盟約
9/18(土)大政奉還と龍馬暗殺
http://nhk-cul.co.jp/programs/program_1139333.html
50>町田 明広@machi82175302 3月14日
近刊の共著『新説の日本史』(SB新書)では、第5章幕末の「新説12 薩長同盟は軍事同盟ではなかった!?」「新説13 日米修好通商条約は不平等ではなかった!?」を担当しています。
https://sbcr.jp/product/4815609054/
51>町田 明広@machi82175302  3月14日
次回、天璋院篤姫が登場!薩摩藩の御方は御登場か?
52>町田 明広@machi82175302  3月14日
次週は卒業式等の校務のため、ツイートはお休みいたします。
また再来週、よろしくお願いいたします。
53>町田 明広@machi82175302  3月14日
おまけツイート。藤田東湖絡みで西郷隆盛は登場しないと思ったが、ナレーションで登場。であれば、ここで西郷を出す手もあったか。
54>町田 明広@machi82175302  3月14日
次週はツイートできないが、薩摩藩関係者は誰が登場するのか、期待大。本日のおまけツイート。
55>町田 明広@machi82175302  3月14日
学士論文「長幕交渉史における吉田稔麿の事績に関する一考察」
56>町田 明広@machi82175302 3月17日
3月21日の大河ドラマ「青天を衝け」に、島津斉彬が登場する。次回は事後ツイートがお休みですが、いずれきちんとご紹介しなければ、いけない人物です。

桐野作人 @kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第5回。今回は渋沢側は姉なかの狐憑きの話。一橋慶喜や江戸では安政の大地震という並行的な構成だった。姉の狐憑きの話は安政2年(1855)でペリー再来航の翌年ながら、まだ血洗村は牧歌的だった。渋沢家の諸系図には姉なかは見えないけど、実在したのか? 
桐野作人 @kirinosakujin
この逸話は渋沢の自伝『雨夜譚』に登場する。渋沢は姉一人がいて病気だとするが、名前は書かれていない。姉の病気は家に祟りがあるからという親戚の勧めで、父市郎右衛門が姉を連れて大滝のある上州の室田に転地保養に出かけた。現在の高崎市の室田不動尊の滝か。ドラマでも滝が出てきた。
桐野作人 @kirinosakujin
渋沢の中の家に押しかけてきた修験者一行は「遠加美講(とおかみこう)」というらしい。別名禊教ともいい、白川神道系の神道の一種とか。開祖は井上正鉄という神職で、身分を問わず多くの信者を集めたが、幕府衰亡を予見したとして三宅島に流され、嘉永2年(1849)、島で没したという。
桐野作人 @kirinosakujin
渋沢家での口寄せはでたらめだったが、幕府衰亡の予見は当たってはいる。遠加美講は「吐菩加美依身多女(とほかみ・えみため)という呪文を唱えて修行するらしい。口寄せの無縁仏が祟るという託宣に渋沢がいつ頃の話かと尋ね、口寄せ女が5.60年前だと答え、さらに年号を尋ねるという場面、
桐野作人 @kirinosakujin
ドラマのいきさつはほとんど自伝『雨夜譚』のとおりである。面白いのは、口寄せ女が「金神(こんじん)と井戸の神が祟る」と述べた一節。 まったく余談だが、「金神」といえば、織田信長と朝廷のやりとりを思い出す。天正9年(1581)3月、朝廷が信長に左大臣を推挙した。
桐野作人 @kirinosakujin
信長は正親町天皇の譲位と誠仁親王の即位を実現してから官位を受けると答えた。しかし、この左大臣推任と上位・即位は立ち消えになった。その理由は同年の移動・移転が「金神」に当たるからだという。「金神」は陰陽道で殺伐を好む凶暴な方位神である。移動の際の方位で祟るときがある。
桐野作人 @kirinosakujin
この年、誠仁親王の二条御所から禁裏御所ヘの移転(即位のため)の「金神」の方位はだいたい北から東方面だった。二条御所から禁裏御所の方位は北北東で「金神」の方位に当たっていた。そのため、朝廷は縁起を担いで、同年の譲位・即位を見送ったといういきさつである。
桐野作人 @kirinosakujin
「遠加美講」は神道だというが、陰陽道などを混ぜ込んだ民間の新興宗教だったようである。  あと、従兄の尾高惇忠からアヘン戦争の書物を渡され、渋沢は夜を徹して一心不乱に読みふけっていたが、その後の江戸遊学から高崎城乗っ取り、横浜焼き打ち計画につながる伏線だろう。
桐野作人 @kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第5回。ドラマの最後に安政の大地震が起こり、藤田東湖が圧死した場面が描かれた。東湖の自宅は小石川の藩邸内の官舎にあった。東湖は母を助けようとし、崩れてくる梁を支えて母を脱出させたが、自らは力尽きて圧死した。享年50.
桐野作人 @kirinosakujin
この地震で水戸藩執政の戸田忠敞(ただあきら)も圧死している。戸田は藤田東湖の盟友で「水府の二田」と称されたほど。安政大地震は江戸直下型の地震でマグニチュード7前後だと推定される。藩邸では死者60人、負傷者84人。被害が大きかったのは藩邸が小石川の低地という立地が大きい。
桐野作人 @kirinosakujin
藤田東湖、戸田忠敞という有能な側近を失った水戸斉昭はその後、迷走する。松平慶永は『逸事史補』で2人の死後、「水府老公は失策が多くなって万事不都合なことが増え、幕府の譴責をうけた。両人の輔翼は別段のことだった」と回想している。
桐野作人 @kirinosakujin 
藤田東湖らの死後、水戸藩改革派はまとめ役を欠くようになる。一方、幕府とつながる保守派の結城寅寿派が台頭し、藩主徳川慶篤への働きかけを強めるとともに、支藩の高松藩や彦根藩と結ぼうとしていた。水戸藩の亀裂が次第に強まっていくことになる。
 桐野作人 @kirinosakujin
大河ドラマ「青天を衝け」第5回。今回は一橋慶喜の出番は少なかった。慶喜はこの頃、京都の摂関家、一条忠香の娘美賀子(美賀君)との縁組が決まっていた。じつは美賀子は安政の大地震に巻き込まれている。折悪しく京都から江戸へ下向する途中の出来事だった。
桐野作人 @kirinosakujin
安政2年(1855)10月2日の地震当日、美賀子一行は品川宿に宿泊する予定だったが、地震のため川崎宿に逗留した。江戸城本丸に入ったのは5日のことだった。一橋屋形に入ったのは11日。なお、地震当日、慶喜の姿が水戸藩邸に見えた気がしたが、もしそうならちょっとどうか。
桐野作人 @kirinosakujin
慶喜が小石川の水戸藩邸に見舞いに行ったのは25日後の10月27日。このとき、外出に幕府の許可を得ているほど。御三卿の外出は手続きもあって大変だったようだ。次回は予告で篤姫が登場した。慶喜も婚礼を挙げるので美賀子も登場するか?


 杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
私は「士農工商」は、近世の身分制度の基本中の「き」みたいなもので、「士農工商」自体を否定する考えは無い。問題は「士農工商」の身分制にどのようにカテゴライズしてよいのか分からない生業の人々が近世にはたくさんいた事。いわゆる「身分的周縁」に位置付けられる人たち。
杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
「身分的周縁」という事は、その中核となる存在もあるという事を意味しており、それこそ「士農工商」だと考えている。周縁に生きた人々も魅力的な研究対象だし、もちろん近世身分制度の中核となる士農工商に分類できる人々の生きざまも、研究対象として魅力的。
杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
一口に百姓身分と言っても農民だけを指す呼称ではない。漁民や山里で林業や狩猟を生業とする人々、村で商売する人や、村の鎮守で神事に携わる人、医療や教育に携わる人々も百姓に分類されることがある。村が作成する「村明細帳」は、各村色々なバリエーションがあり村民の村内における記述の仕方も様々
馬場弘臣@omikun_1603
「士農工商」は教科書からもなくなりましたが、江戸時代の寺子屋の手習いでも教えていました。わたくしの所蔵品から再掲いたします
文化11年(1811)に写したことか記されていますね。 
杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
私は「士農工商」と「身分的周縁」の両方を教えないと、近世身分制度をちゃんと理解してもらえないとおもうんですけどね。「士農工商」というのは、近世身分制を極めて分かりやすく表現した単語であり、否定すべき存在どころか、近世身分制度の中核をなすものだと考えるのですが。
杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
「士農工商」の身分制度からはみ出した多くの人々も存在しており(その中には社会的に身分の高い人々も、低い人々もいる)、彼らこそ「士農工商」の周縁に生きる人々であり、「士農工商」と「身分的周縁」の総体こそ、近世社会を構成している人々だと考えているのですが。
杉山容一@X7Rh16Jtu0ZxdvB
先ほど、東海大の馬場先生とも話したが、もはや教科書から抹殺された「士農工商」という近世身分制を重要視している私は、やはり保守的か?抹殺するのではなく、必要性を認めながら見方の改めを図るべきだと考えているんだけど。
馬場弘臣@omikun_1603  3月15日
皆さん、この「 #士農工商 」の話題をよく見ていらっしゃるようなので、ここにある #手習い は下記のURLのブログ内にpdfファイルを公開しておりますので、興味のある方は、ダウンロードしてみてください。御家流の勉強にもなると思いますよ


桐野作人@kirinosakujin 3月15日
昨夜の大河ドラマ「青天を衝け」で安政の大地震が描かれた。江戸の死者は約1万人ともいわれる。一橋慶喜の廉中になるはずの一条美賀子(美賀君)も巻き込まれて江戸入府が遅れたことを昨日書いたが、もう一人巻き込まれた女性がいた。島津斉彬の娘(養女)篤姫である。 
桐野作人@kirinosakujin 3月15日
篤姫はペリー艦隊が来航した嘉永6年(1853)10月に江戸に到着、芝の上屋敷に入った。将軍家定に入輿する支度で江戸に着いて、実際嫁ぐまで3年余かかっている。そのうち1年余は安政大地震のためだった。安政2年(1855)10月2日の地震で、薩摩藩でも芝の上屋敷、高輪の中屋敷とも破損した。#青天を衝け
桐野作人@kirinosakujin 3月15日
篤姫は藩主斉彬と渋谷の下屋敷に避難した。渋谷は名のとおり低地だが、下屋敷は常盤松とい高台にあった。現在の國學院大学の前である(写真)。斉彬は上屋敷、中屋敷が海岸近くなので外国艦隊の砲撃を避けるため、内陸の渋谷に下屋敷を購入した。それが地震のとき役立ったわけである。



こけし@kokeshinookimon 3月14日
嘉永7年に牡丹餅食べたら流行病に罹らないという迷信が流行るだいね。その後、たびたび餅を食べたら息災になるという迷信が流行る。明日は牡丹餅を食べよう。

こけし@kokeshinookimon 3月14日
狐憑き関係の語句や狐憑きから精神疾患への変遷について、ワイは兵藤晶子さんのこの本を参考にした。 エエ本やで!
こけし@kokeshinookimon 3月14日
今日の考証資料の一つでオススメ本。
こけし@kokeshinookimon 3月15日
昨日の青天を衝けで出てきた狐憑きについての論考。 近世中後期から武蔵において尾裂き狐が社会問題化していったからこそ、栄一の家はあんな騒動になったわけで… https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_10196409_po_index.html%40action%3Dcommon_download_main%26upload_id%3D473.pdf?contentNo=1&alternativeNo=…
こけし@kokeshinookimon 3月15日
小池信一「近世史料にみる憑き物「オーサキ狐」の諸相」(『埼玉県文書館紀要』3号、1989年)

















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