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山原の森の一軒家

山原(沖縄海洋博公園東側原野)土地500坪程求め10年前にプレハブの別荘建てた、毎月休日は樹木の手入れ等楽しんでいる。

春の足音♪ 八重岳 桜まつり

2006年02月01日 | Weblog
春の足音♪八重岳桜まつり

「沖縄花のカーニバル2006」のオープニングを飾る第28回
本部八重岳桜祭りが1月21日から本部町の八重岳で開催
された。
現在日本一早咲きを誇る約7千本のリュウキュウヒカン桜が
八重岳入り口から頂上まで約7キロメートル沿道両サイドを、
鮮やかなピンク色で染めつくし、家族連れや写真愛好家たち、
恋人どうしや、観光団の方々などが花見を楽しんでいた。
初日はオープニングセレモニーの後、ミス桜の発表や地元バ
ンドのコンサートなどが夕方まで催された。
22日は「わんぱく綱引き大会」や「石くびり大会」などが開かれる。

頂上に見える丸いタンクのようなものは自衛隊のアンテナ。
頂上まで車で行くことができます。まつり期間中も交通規制なし。

糸満漁港旧正月祝い

2006年02月01日 | Weblog
1月29日(日曜日)は 旧暦の1月1日 旧正月の日です。
各地で色んな旧正月を祝う行事が行はれました、
旧暦の伝統行事が根強く残る「海人、ウミンチュー」の町糸満市
では、糸満漁港内に係留された漁船に色とりどりの大漁旗が掲
げられ、航海の安全と豊漁を祈願し、旧正月を祝った。

市内の拝所、白銀堂には朝早くから多くの市民が参拝に訪れ、
ヒラウコー(線香)の煙たなびく中「イーソーグヮチデービル」と
年頭の挨拶を交わしながら、家内安全、無病息災などを祈る姿が
見られた。
一方北部の海洋博公園では花のカーニバルが開催され多くの
人で賑わったそうです。
本部町八重岳の桜祭りは次のページに掲載します。

浦添グスク。ようどれ館

2006年01月31日 | Weblog
写真は浦添グスク。ようどれ館
ようどれ館の中には古写真や発掘調査成果のパネル、
出土遺物などから浦添グスクと浦添ようどれの歴史が
わかりやすく学べる。
実物大で再現されたようどれの西室(英祖王陵)は必見!
次の映像プログラムを見ることもできる。

浦添の歴史 Ⅰ
琉球王国誕生の歴史 (8分)
浦添の歴史 Ⅱ
貝塚時代から浦添王権の出現まで (8分)
浦添の歴史 Ⅲ
尚寧王から近代の浦添まで (10分)

琉球歴史に興味のあるお方は沖縄観光方々一度は
浦添ようどれまで足を運んでみてはいかがでしょうか。!



為とも岩「ハナリジー」

2006年01月22日 | Weblog
浦添グスク(浦添ようどれ)公園内の先端200m先に、源為朝の社があったと伝えられている、ハナリジー(為とも岩)岩の中は大人一人やっと通れるくらいの洞窟「ガマ」になっており不気味で中に入る気はしない。奥の方は広くなっていると聞く、為朝の琉球渡り伝説によると(西暦1156年)保元の乱。後白河天皇、追討軍に追われ、伊豆大島に流さる、大島から更に南へ沖縄に向かう途中、嵐に合い、今帰仁運天港(北部)に漂着した為朝は島の南部へ行き、その後大里按司の妹と通じ、瞬天王(初代国王)が生まれたと伝えられている。舜天王(1187~1237)舜天王統は3代73年続く,
以後英祖王統の次代と変わる。その後1406年第一尚王統時代となる。1573年尚寧王の代、尚寧王自ら浦添城址側壁に「浦添ようどれ」改修し、王自身もここに葬られました。
NHK去年の大河ドラマ義経は終りましたけれども,、もう少し掘り下げて源の為朝伝説を少し取り上げてもらったら、期待していたのですが残念でした。 続きは次のページをご覧下さい。すべて琉球歴史につながります。



浦添ようどれ

2006年01月22日 | Weblog
浦添ようどれ
浦添グスクは、首里城以前の中山王城として知られています。
発掘調査から、14世紀頃の浦添グスクは、高麗系瓦葺の正殿を中心に、堀や石積み城壁で囲まれた巨大なグスクで、(沖縄海洋博公園と匹敵する大きさで)周辺には王陵。寺院。大きな池。有力者の屋敷。集落などがあったと考えられています。
後の王都首里に移された後、浦添グスクは荒廃しますが、1524年頃から1609年の薩摩藩の侵攻までは浦添家の居館となりました。
去る沖縄戦では、日米両軍の激しい戦闘により、戦前まで残っていた城壁も大部分が破壊されましたが、これまでの発掘調査によって、石積み城壁の基礎や、敷石遺構、建物跡などが良好に残っていることが確認されています。
浦添市では現在、史跡浦添城跡復元整備事業を進めているそうです。
浦添ようどれは、浦添グスクの北側崖下にある琉球王国初期の王陵で、かん淳年間(1265-1274 )に英祖王が築いたといわています。

その後1620年に浦添出身の尚寧王が改修し王自身もここに葬られました。岩壁に横穴を掘り墓室とし、中には中国産の石で作られた石厨子があります。
向かって右側が英祖王の陵墓。
向かって左側が尚寧王の陵墓。「拡大写真は下に表示」「ようどれ」とは
琉球語の夕凪(ゆうなぎ)です。

浦添ようどれ「暗しん御門」

2006年01月22日 | Weblog
暗しん御門「くらしんうじょう」
前庭から二番庭へぬけるトンネル状の通路こと。
岩盤を加工して通路をつくり、張り出した岩盤の下に石垣を積み上げてトンネルをつくりだしています。戦前の暗しん御門は、内部が薄暗くひんやりとしていて、地下通路を通って「あの世」にでも行くような雰囲気でしたが、去る沖縄戦で、天井部の岩盤は崩れてしまいました。