4月16日に発売される1Q84BOOK3を書店で注文してきた。
それまでにBOOK1・2を再読しておこうと読み始めたところ、
前に読んだときに見落としていた箇所が気になった。
『空気さなぎ』を構成している文章は、決して自分一人がわかればいいというタイプの文章ではなかった。
それはどう見ても、ほかの誰かが手にとって読むことを前提として書かれた文章だった。
しかしそのほかの誰かとは、どうやら近代文学が原則として念頭に置いている「不特定多数の読者」とは異なったものであるらしい。
読んでいて、天吾にはそういう気がしてならなかった。
じゃあ、いったいどのような種類の読者が想定されているのだろう?
天吾にはもちろんわからない。
天吾にわかるのは、『空気さなぎ』が大きな美質と大きな欠陥を背中合わせに具えた、きわめてユニークなフィクションであり、そこにはまた何かしら特殊な目的があるらしいということくらいだった。
書店で売られている以上「不特定多数の読者」がいるはずだが、ストーリー中では青豆と牛河だけが『空気さなぎ』を読んだことを言及されている。牛河はリトルピープルの代理人だ。
『空気さなぎ』は青豆とリトルピープルに読まれることでその役割を果たしたことになっているのだろう。
「大きな美質と大きな欠陥」が共存する物語は一体何をもたらすのだろうか。