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野球小僧

東の澤井 西の福留

1995年の高校野球では、「東の澤井 西の福留」と呼ばれた2人のスラッガーとして注目を集めた選手がいました。東は千葉・銚子商高の澤井良輔さん(元・千葉ロッテマリーンズ)、西は大阪・PL学園高の福留孝介選手(現・阪神タイガース)です。

福留孝介選手は鹿児島県大崎町生まれ。小学校三年からソフトボールを始め、六年時には全国大会に出場。中学校時代はボーイズリーグに所属し、全国制覇。憧れだった立浪和義さんと同じ大阪・PL学園高へ進学。PL学園高では一年秋から四番を打ち、三年夏の地方予選ではホームラン7本を放ち、高校No.1スラッガーとしてスカウト陣の注目を浴びました。この年のドラフト会議では近鉄バファローズが交渉権を獲得するものの、入団を断り社会人へ進む。1998年のドラフト会議で中日ドラゴンズを逆指名。ドラフト1位で入団。入団当初のポジションはショートでした。

澤井良輔さんは、千葉県生まれ。小学生の頃は運動が苦手だったが、仲間はずれになりたくないとの理由で四年から野球を始める。元々は右打ちだが、中学三年の時に左打ちを試したところ右打ちより飛んだこともあり、左打ちへ変更。憧れだった篠塚利夫さんと同じ銚子商業高に進学。銚子商業高では主軸として活躍。三年時に春夏連続甲子園出場。そのパワーとスター性はプロ級と評判になり、「東の澤井・西の福留」とまで言われた。

福留選手と澤井さんは1995年の選抜大会一回戦で、福留孝介選手が率いるPL学園高と直接対決しています。澤井さんは先制ホームランを打つなど活躍し、10-7で勝利し、勢いに乗ったチームは準優勝を飾りました。その年の夏の甲子園では澤井さん擁する銚子商業高は三回戦で敗退。この時、入れ替わりにベンチに入ってきたのが福留選手擁するPL学園高でした。

この年のドラフト会議では福留選手が指名順位1位で7球団が競合。高校生選手に対する7球団1位指名競合は1985年の清原和博さんの6球団1位指名競合を上回る歴代1位です。

澤井さんは福留選手の交渉権を獲得出来なかったはいわゆる“外れ1位”で千葉ロッテマリーンズが交渉権を得ました。ただ、外れ1位とはいえ、東京ヤクルトスワローズからも指名を受けていました。実は在京セ・リーグ希望。スワローズならいいなと思っていましたが、結果はマリーンズ。この時、プロ入りせず、大学進学も考えたそうですが、千葉移転後初の地元出身の1位選手にゾッコンだったマリーンズは、当時広岡達朗GMが「足と肩は一級品。パワーだって福留より上」と最大級の賛辞を送り、この年ボビー・バレンタイン監督のもとで2位に躍進したことや、女手一つで育てた母親への恩返しを考えて入団を決意しました。

与えられた背番号は「10」。球団の期待の表れでした。野球留学や一軍帯同など、さまざまな特別待遇の育成計画が持ち上がり、本人もプロで活躍する自信はあったそうです。

でも、キャンプが終わって教育リーグが始まったんですが、まったく打てません。打てないから試合にも出られません。高校では、入学した日から卒業するまでずっとレギュラーでした。これからもずっとそうだと思っていました。ドラフト1位だから、多少打てなくても試合に出してもらえるだろう、という甘えもありました。

高校3年間、みんながヨイショしてくれて、外に出ればキャーキャー言ってくれ、天狗にもなっていました。

プロの厳しさに鼻を折られた5月、早くもドン底を見ます。高校時代、どうやって打っていたのかも思い出せなくなり、「辞めたい、もうムリ、この状況から逃れたい」と思うようになります。毎日が嫌で嫌で仕方なく、惰性で野球をやっていました。一番最後にグラウンドに来て、一番最初に帰るという日々。もちろんコーチには叱られ、「ハイ」と返事しておいて帰ったりしました。素直になれずに、腐っていました。

1年目のオフに二軍監督が山本功児さんに代わると、「お前はドラフト1位だろ!」と叱りつけ、放置するのではなく、1時間も2時間もバッティング練習に付き合ってくれるようになります。その山本さんの熱意が伝わり、澤井さんは練習する気になってきます。

すると、3年目の秋に待望の一軍デビュー。そして4年目のシーズン、山本さんが一軍監督に昇格となりますが、好事魔多し、この大事な時期にヒジを痛めてしまいます。夏前に手術して、残りのシーズンを棒に振ることになります。

7年目のシーズンに開幕スタメンをつかんだものの、レギュラーを獲るまでには至りません。

10年目、背番号が32に変わります。プロ野球界には「背番号が前より大きくなったらクビが近いと思え」という暗黙の了解があるそうです。付けていた10番は、期待の大砲候補・大松尚逸選手に与えられました。
覚悟はしていたそうですが、2005年クライマックスシリーズを控えた球団が戦力外通告を8人の選手に行い、その中の一人が沢井良輔さんでした。

右肩痛に腰痛…けがに泣き、最後の2年間は一軍出場はありません。また、この年大活躍を見せた西岡剛選手(現・阪神タイガース)、今江敏晃選手(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)が台頭し出番がなくなっていました。

入団10年目、一軍での通算成績は90試合、36安打、ホームラン6本、19打点、打率.225。初めて開幕戦でスタメンに名を連ねた2002年の41試合出場が最多で、ヒット数より三振数(38個)の方が上回わりました。高校時代から何かと比較されてきた福留選手は、3年遅れでプロ入りしたものの、この時点で首位打者を獲得するなど、ドラゴンズの主軸を任されていました。

澤井さんは「何が足りなかったのかな。でもチャンスはあったのに掴めなかったんだから、そこまでの選手だったんだと思います。もっと目的意識を持っていれば・・・・・・とか、後悔していることは山ほどありますが、それは今だから言えること。たとえば、福浦(和也)さんは打っても打てなくても、試合が終わったらトレーニングをして、ビデオでその日のバッティングをチェック。修正点があれば打撃練習をする。このルーティンを欠かさない。これほど難しいことはない。誰だって気持ちに波があるじゃないですか。継続は力なりって本当です」と語っています。

やり直せるなら、一流選手を目指す道を選ぶかという問いには「選ばないです。引退したプロの同期や先輩、後輩と飲んだ時に、そんな話題が出たことがありますが、みな『選ばない』と言いました。『自信がない』って。テレビとか、ちょっと映像を見ただけで、『あの選手はチャラいな』と言う人がいるじゃないですか。絶対そんなことはない。そんな甘い世界じゃない。しっかりした信念がある者だけが、あそこに映っているんです」と言います。

引退後しばらく独立リーグなどでコーチをしていましたが、31歳のときに一般企業へ転職し、現在はメットライフ生命保険の営業として働き始めて、今年で8年目になります。

入社1年目には契約件数上位者に贈られる「ルーキー賞」を獲得。今では5人の部下を持つチームリーダーとして、重要なポジションを担っているそうです。

「(プロ野球時代の反骨心が)ありますね。それが無くなっちゃうと、絶対できないと思います。あの時ダメだったから、もう繰り返さないようにしようというのもずっと残っているので。そうならないように、中途半端にこの仕事をしてるつもりもないし、しちゃいけないし。野球しかしてない人でも将来こうなれるんだぞ、という存在になりたい」

自分の過去を振り返って、反省すべきところは反省し、利用出来るものは財産として利用していく。自分の過去とうまく折り合いをつけて生きていくことが、次の人生にとって大事なことなのでしょう。

コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
澤井さんの話は今年になってからTVで観ました。今は保険会社で働いており、プロでは獲れなかった、「新人王」ならぬ「ルーキー賞」を獲れたとのことで、第二の人生では主力の働きが出来ていて、本人も嬉しそうでした。

東西シリーズはあと一回予定していますが、編成の都合上、来週の予定です(ちょっと長編)。
eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

福留選手は兎も指名しましたよね~
竜or兎以外はお断りと言っていた記憶があります。
澤井選手は確かにプロ入団当時は騒がれた記憶がありますが何時しか記憶から消えてしまいその後は殆ど気に留めることは無かったです。今回書かれたのを見て思い出したっていう程度です(^_^;)

どこまで続くのか東西シリーズ!?
次は 東の幸治 西の亮廣 若しくは 東の圭吾 西のカナ (笑)
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