野球小僧

ファン1人が勝手に投票! 幕末・最強剣士選挙

大河ドラマで「西郷どん」が放送されています。

争いがなくなった江戸時代ですが、幕末期には多くの剣士たちが歴史に登場し、再び混乱の時期を迎えます。あの有名な新選組をはじめ、幕府方とこれに対抗した尊攘派志士の中には、今に語り継がれる数々のエピソードを誇る剣の達人たちが数多く活躍しています。そこで、「幕末、最強の剣士」は結局のところ誰なのか気になります。

そもそも、幕末にはなぜ剣士が数多く登場したのかという疑問があります。

これは、まず、当時の剣術ブームが関係していたと思われ、そこへ1853年の黒船来航により、「日本はいずれ外国に攻め込まれ、戦争になるのでは」という不安がありました。そこで剣術が再び注目され、武士に限らず農民など身分を問わず剣術を志す人が増えたからなのです。

その剣術の流派はたくさんあり、江戸時代中期には、江戸の町だけで100を超える流派が乱立していました。その中でも「鏡新明智流」(士学館)、「北辰一刀流」(玄武館)、「神道無念流」(練兵館)が特に人気だったようです。この3つは、後世「幕末江戸三大道場」と呼ばれ、いずれの道場も多くの門下生を抱え、数々の優れた剣士を輩出しています。

 ほかには、柳生宗厳(むねよし)さんが始めた「柳生新陰流」、宮本武蔵さんの「二天一流」、東郷重位(ちゅうい)さんの「示現流」なども有名です。いずれも、時代劇などでおなじみの剣豪を祖とする流派です。ただ、現実問題として各道場は経営維持のため門人集めに必死でした。そのため、こうした先人の偉業を宣伝文句にするなど、ほかとの差別化をはかることが大切でした。

このように剣術を学んだ剣士が多く、 皆、かなりの使い手だったことが記録に残されています。ただ、戦国時代とは異なり、彼ら同士による直接の対戦はほとんどないため、「誰がいちばん強いか」を決めるのは困難です。

では、まずは実際にどんな剣術家がいたのか、整理してみます。

【拳銃を持ったサムライ】坂本龍馬 1836~1867年 北辰一刀流 土佐国高知
寺田屋での遭難などから、龍馬さんは「拳銃使い」のイメージが強く、現在、土佐の海辺に建立されている有名な「坂本龍馬像」も、懐に「ピストル」を持っている像という説もあります。しかし、龍馬さんは剣術にも長けていす。土佐を脱藩する以前、剣術修行のため何度か江戸に赴いており、桶町千葉道場で「北辰一刀流」を学びました。実力を物語る証しとして、道場で塾頭を任されていたことや、道場主の娘と結婚を許されていたことのほか、北辰一刀流の免許皆伝も実証されており、剣術家としての力量も十分にあったようです。

【総理の過激な前歴】伊藤博文 1841~1909年 神道無念流 周防国束荷
初代内閣総理大臣として誰もがその名を知る伊藤博文さんも、幕末期における彼の活動や剣の使い手だった過去については、あまり知られていません。萩の松下村塾で学んだあと、江戸に出た後は「神道無念流」に入門し、剣術の腕を磨きました。国内での尊王攘夷運動が活発になると、国学者の塙忠宝(はなわ ただとみ)さん、歌人の加藤甲次郎さんの暗殺ほか、同志の高杉晋作さんらとの英国公使館焼き討ちや、高槻藩士・宇野東桜さんの暗殺などといった過激な行動をしています。

【臆病者は仮の姿】木戸孝允 1833~1877年 神道無念流 長門国萩
明治の政治家として知られる木戸さんは、桂小五郎と名乗っていた幕末期の京都での潜伏活動などから、「逃げ回る人」のイメージが一般に定着しています。しかし、実際は「神道無念流」の免許皆伝であり、「幕末江戸三大道場」のひとつと呼ばれた同流練兵館道場に入門すると、1年で塾頭になった実力者です。得意の上段に竹刀を構えると、その気迫に圧倒される相手が続出したといわれています。しかし、晩年はいろいろと病に悩まされます。

【自ら戦う軍師】高杉晋作 1839~1867年 柳生新陰流 長門国萩
長州藩の倒幕運動を主導し、身分を問わない志願兵による奇兵隊の結成や、第2次長州征伐では海軍総督として幕府軍を敗走させるなど、いわば「天才軍略家」といったイメージが浸透しています。もちろん、自身も剣術を極めており、「柳生新陰流」の免許皆伝のほか、江戸留学中は神道無念流を学んでいます。

【日課の居合いは1日1000本】福澤諭吉 1835~1901年 立身新流 豊前国中津
蘭学者、著述家、啓蒙思想家、また教育者として慶應義塾を創設するなど、日本の近代化への一翼を担った「学者」として誰もがよく知る福澤諭吉さんも優れた剣士でした。若いころから「立身新流」の居合いを学び、成人のころには免許皆伝となり、その甲斐あって、幕末期に何度か遭遇した「暗殺の危機」を脱しています。維新後も、晩年に至るまで、「1日1000本の居合い抜き」を日課としていました。まさに「文武両道」を自身で体現した人物といえます。

幕末の京都は、尊皇攘夷運動とこれを取り締まる幕府とが激しくぶつかり合いました。この抗争に身を投じた多くの剣士が、ここで実戦を経験することになります。では、現場経験者としては、どのような剣士がいたのでしょう。

【龍馬を斬った男?】佐々木只三郎 1833~1868年 神道精武流 陸奥国会津
幕府講武所の剣術師範だった佐々木さんは、脇差を使用する小太刀術の達人で、「小太刀日本一」と呼ばれる実力者です。清河八郎さん暗殺のほか、京都において見廻組を率い、新選組とともに尊攘派志士から恐れられました。「坂本龍馬暗殺」についても、見廻組隊士だった今井信郎さんによる有力な証言により、「佐々木只三郎が実行犯だった」とされています。

【容姿からは想像不可】河上彦斎(げんさい) 1834~1872年 片山伯耆流? 肥後国熊本
片手抜刀を得意とし、左膝が地面に着くほど低い姿勢からの逆袈裟斬りで、一瞬にして相手の息の根を止める必殺技の使い手でした。同じ攘夷派でありながら、三条実美さんは「彦斎が生きているうちは枕を高くして寝られぬ」と恐れ、一説では「新選組ですら、京の街では河上彦斎を避けて通った」ともいわれています。実際には、身長が150cmほどの小柄で色白という剣豪のイメージからかけ離れた容姿だったようです。人気マンガ「るろうに剣心」の主人公のモデルにもなっています。

【新選組最強】沖田総司 1842/44~1868年 天然理心流 武蔵国江戸
新選組一番隊組長であり、撃剣師範であり、「隊内最強」とうたわれ、得意技の「三段突き」を武器に、池田屋事件をはじめ数々の任務で活躍しました。「本気で立ち合えば、局長であり自らが属する天然理心流宗家でもある近藤勇よりも実力は上」といわれた天才です。新選組結成以前の道場時代は塾頭を務め、将来は流派の後継者と目されていましたが、病に倒れ、1868(慶応4)年に江戸で死去しました。

【暗殺のプロ】岡田以蔵(いぞう) 1838~1865 鏡心明智流 土佐国江ノ口
当初、土佐勤王党のメンバーで、武市瑞山(たけち ずいざん)さんらの指示で王政復古運動の妨げとなる要人暗殺に従事し、その数は少なくとも8件にのぼったことから「天誅の名人」と呼ばれました。一方で一時期、勝海舟さんやジョン万次郎さんのボディガードも務め、襲撃してきた刺客を瞬時に撃退しています。

【伝説級の神ワザ】中村半次郎 1838~1877 示現流 薩摩国鹿児島
「人斬り半次郎」の異名を持ち、屋根の軒先から雨だれが地面に落ちるわずかの間に、刀を3度抜き、3度鞘(さや)に納めたといわれるほどの「示現流」の達人です。西南戦争では西郷隆盛さんに従いますが、敵だけでなく戦いにおじけづいた味方の兵も容赦なく次々と切り捨てるため、西郷さんから兵が足りなくなると刀を取り上げられ、以後は木刀を腰に差していたといわれています。

さらに不明な点もあるものの、女性剣士もおおむね事実とされています。

【実在の女流剣士】中沢琴 1839?~1927 法神流 上野国穴原
幼少時より父・貞清さんから「法神流剣術」を学び、長刀はお父さんにも劣らぬ実力です。実兄の中沢貞祗(さだまさ)さんとともに「浪士組」(新選組の前身)に参加します。その後、「新徴組」の一員として、江戸薩摩藩邸の焼き討ち事件や、戊辰戦争を戦いました。庄内での戦いでは、官軍の砲火の中で十数人の敵兵に囲まれるものの、数人を切り伏せて包囲を突破したといわれています。身長約170cm、顔は面長で色白の美人だったことから、維新後は求婚の申し出が多々あったようです。しかし、「自分を(剣で)打ち負かすことができたら」の条件に、それを満たす相手が現れぬまま、生涯を独身で過ごしました。

 結局のところ、幕末・最強の剣士は誰なのか、比較は非常に難しいですが、最強はこの人と言われています。

【無敵の勝率9割】千葉栄次郎 1833~1862 北辰一刀流 武蔵国江戸
「幕末江戸三大道場」のひとつ玄武館の道場主で、「北辰一刀流」の創始者でもある千葉周作さんの二男として生まれ、若くして剣の奥義を極め、「千葉の小天狗」と呼ばれた俊才でした。当時剣術家としても名を馳せていた山岡鉄舟さんが20人の門人を引き連れて試合を挑んだときは、わざと壊れた竹刀を用いて、息ひとつ乱さずに全員を手玉にとったといいます。また、江戸の大名藩邸で行われた公式試合では、各有力流派のエース総勢18人が集まる中、全員に勝ち越しを決める(3本勝負にて勝率9割)など、「実力は父の千葉周作以上」ともいわれました。道場試合と実戦は違うとはいえ、卓越した技量は並大抵のものではありません。しかし、惜しいことに、病により30歳の若さで亡くなりました。

【真剣を持たせると敵なし】近藤勇 1834~1868年 天然理心流 東京都調布市
ご存知、新撰組局長で、天然理心流を修めた強者です。この流派は単なる道場剣ではなく、居合や柔術、棒術など総合武術的な側面があり、そこで学んだ近藤さんは実戦派の剣豪だったと言えるでしょう。実際、道場では弱かったそうですが。その実戦での強さは、池田屋事件が証明しています。わずか4名で池田屋に踏み込み、沖田総司さんと藤堂平助さんが脱落する中で、永倉新八さんと2名で孤軍奮闘し、永倉さんが傷を負った一方、近藤さんは無傷で、刀は刃こぼれすらなかったと伝わっています。

といろいろな名前が挙がってきましたが、とどのつまり、私が選んだ幕末・最強剣士は。

【影に生きた謎多き剣士】斎藤一 1844~1915年 不明 不明
新選組一番隊組長・沖田総司さん、二番隊組長・永倉新八さんと並び新選組最強の剣士の一人であったといわれています。永倉さんは弟子に、「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったという。沖田さん、永倉さんらとともに新選組の撃剣師範を務め、大坂力士との乱闘、組内部における粛清、天満屋事件などで剣を振るいました。

(「るろうに剣心」画面キャプチャ)

大政奉還後、新選組は旧幕府軍に従い戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いでは、斎藤さんはいずれも最前線で戦います。近藤勇さんが新政府軍に投降したあとは、隊士の一部を率いて会津へ向かいます。会津藩の指揮下で白河口の戦い、母成峠の戦いにも参加しますが、敗戦により若松城下に退却。会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続け、会津藩が降伏したあとも斎藤さんは戦い続け、松平容保さんが派遣した使者の説得によってようやく投降しました。
おそらく、幕末の戦いに明け暮れた新選組の歴戦の隊員であったと思います。


コメント一覧

まっくろくろすけ
eco坊主さん、こんばんは。
緋村剣心も考えましたが、現時点では連載も中止なので、オチとしては自粛でした。はい。

まあ、私は新選組ファンの部類ですから、自然とそこから目線で見てしまいますが、基本的に団体戦での出場ですからねぇ。

eco坊主
おはようございます(*Ü*)ノ"☀

今日は幕末の剣士ですか~
タイトルを見たとき、オチはここかなと思ったけど・・・(後で)

序章でまず頭に浮かんだのは、沖田総司・岡田以蔵・齋藤一です。
私はそんなに史実に長けているわけではないので歴史本とドラマ(大河)によって刷り込まれたイメージでしょうけど。
あっ、暴れん坊将軍も「柳生新陰流」の使い手で黒幕の家臣(ケンドーカシンではぬ)の多くを倒しているけど幕末ではないからな~。

絶対 緋村剣心というオチと思ったのに・・・
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