女優月丘千秋

女優月丘千秋についてのブログ。
About A Japanese Actress - Chiaki Tsukioka

略歴

2020-03-08 11:20:51 | 基本情報



1925年 3月20日 広島県広島市で薬局の父弥六、母信子の二男三女の次女として生まれる。
    本名 旭爪菊江(ひのつめきくえ)
    長女は、女優の月丘夢路。(本名旭爪明子)
    実の誕生日は、1924年10月17日であったのだが、戸籍の登録が遅れてしまった。
 
1937年 広島大学付属小学校 第一部尋常科卒業

1942年 広島県立第一広島高等女学校 卒業
姉の月丘夢路(明子)と同じく宝塚音楽舞踊学校(現・宝塚音楽学校)に入学
    「旧制高女を卒業して、昭和17年に宝塚音楽学校に入った。若い女性なら当時誰でもあこがれた"宝塚"である。しかし、彼女には"ここでスターになりたい"なんていう気負った気持ちはなかったという。"ラインダンスがやりたかったんですよ。それで宝塚に入ったんです。スターになりたいなんて思ったことないんですよ"」(東京スポーツ 1947年1月13日 インタビュー)

1944年 宝塚音楽舞踊学校卒業。
    4月の初舞台直前に、宝塚大劇場は閉鎖、海軍予科練に接収され、舞台に立てないうちに退団。
    姉の夢路が、轟夕起子に誘われて、轟の夫のマキノ正博が所長をしていた松竹京都へ移籍すると同時に、
    月丘千秋として映画界に入ることになる。(命名はマキノ正博)

1947年 「地獄の顔」(大曾根辰夫監督 松竹)
    
    「この無欲な彼女にスターへの道が開けた、松竹映画"地獄の顔"のヒロインの役がころがりこんだのだ。水島道太郎主演、大曾根辰夫監督のこの映画、姉の夢路さんが急病で、妹の千秋さんがピンチヒッターで登場する。"スターになりたくなってたまらない人"だったら、これは願ってもないチャンスだが"なまけ者"を自称する千秋さんにとっては、格別の感想もなかったらしい。」(同上)

    「花ある星座」(大曾根辰夫監督 松竹)
    姉の夢路、4歳の妹洋子と三姉妹共演して話題を呼ぶ。

1948年 マキノ正博が設立したC・A・Cに入る。
    「肉体の門」(吉本プロダクション=大泉スタジオ)
    「幽霊暁に死す」(マキノ正博監督 新演技座=C・A・C)

1949年 「果しなき情熱」(市川崑監督 新東宝)
    この頃、ヒロポン中毒に陥っていたマキノ正博を、事実上の夫の医師山口直とともに支える。

1950年 「殺陣師段平」(マキノ正博監督 東横)
    「女佐膳」(冬島泰三監督 伊藤プロ)

1951年 山口直と入籍。
    7月~11月 在米日系人の慰問公演に、姉夢路とともに渡米し、各地を廻る:
     ハワイ4島、ロサンゼルス、サンノゼ、フレズノ、サンフランシスコ、サクラメント、オークランド、ポートランド、シアトル、スポケーン、ソルトレイク、デンバー、シカゴ、ニューヨーク

1953年 東映へ移籍。

1954年 「忠治外伝 火の車お万」(津田不二夫監督 東映)

1959年頃 テレビを活動の中心に移す。
    「あの波の果てまで」(NTV)

1961年 「半七捕物帳」(NTV)

1962年 「落葉樹」(ABC)
    「ああ美しき人ゆえに」(KTV)

1964年 「女の海」(MBS)

1965年 「飛行機雲」(NHK)
    「愛染かつら」(CX)

1966年 「異母姉妹」(CX)

1967年 「光速エスパー」(NTV)

1987年 最後の映画出演「暗号名黒猫を追え!」(井上梅次監督)

1988年 カトリック成城教会にてキリスト教に洗礼

1994年 最後のテレビドラマ出演「ロス警察'94 ウエストコースト殺人事件」(ANB)

舞台は、新宿コマ劇場「島倉千代子ショー」や花登筺原作の芝居などに出演。


2015年5月10日 逝去 享年91

最新の画像もっと見る