復興歳時記

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樺太

2021-10-13 08:20:45 | 
ポツダム宣言以降の1945/08/15から3日後の8月18日突如ソビエトが千島列島および樺太侵攻によって悲惨な運命を辿った記録が有り発表せずには居られませんでした。多くの島々の日本人は強姦、略奪されシベリアに送られ強制労働度で亡くなった方々多く居ます。でも、占守島(しゅむしゅ)島では半分以上銃器は捨てましたが残りの重火器で戦い勝利しました。この歴史をひも解き構成に残して貰いたいと書いています。

2. 姉妹友好提携市町村一覧(樺太のみ)
州・地方名 提携先 市町村名 提携年月日
サハリン州 ユジノサハリンスク市 旭川市 1967.11.10
(豊原) 函館市 1997. 9.27
稚内市 2001. 9. 9
ポロナイスク市 北見市 1972. 8. 13
(敷香)
ネベリスク市 稚内市 1972 .9. 8
(本斗)
ホルムスク市 釧路市 1975. 8.27
(眞岡)
オジョルスキー村 猿払村 1990.12.25
(長浜)
コルサコフ市 紋別市 1991. 1.12
(大泊) 稚内市 1991. 7. 2
ドリンスク市 名寄市 1991. 3.25
(落合)
トマリ市 天塩町 1992. 7.28
(泊居)

樺太の名前の由来
●カラフトの語源には諸説ありますが、アイヌの伝説に基づく西鶴定嘉説が有力です。
伝説では太古、国造りの神が大きい島を造り、後でそれを北海道と樺太に分けました。それをアイヌ語で、カムイ(神)、カラ(造る)、プト(河口)、アツイ(海)、ヤ・モシリ(丘・島)と言いました。
これらを島名として用いたのは、日本人のようで、唐太の字を当てカラプトに、その後カラトまたはカラフトに転化しました。
●徳川幕府は当初北海道、樺太を総称して蝦夷地と言っていましたが、1809年(文化6年)からは樺太を北蝦夷と公称しました。
その後北方の開拓が進み、1869年(明治2年)開拓使がおかれて、現在のように北海道・樺太(カラフトと読む)という公の名が制定されました。いずれも松浦武四郎の意見によります。
●サハリンは、北方民族ツングース語で、サハリン・ウラ・アンガ・ハタ("黒龍江口の山"という意)から呼称されるようになったもので、ロシア語ではありません。
この他色々記事が有ります。



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