私たちは何を音楽だと感じるのでしょうか。
私たちはどのような音の連なりを、音楽だと認識するのでしょうか。
音の中には、音楽だと認識される音と、そうでない音とがあるのでしょうか。
音楽になる音は楽音。楽器を奏でた時の音のこと。
音楽にならない音とは、どんな音でしょうか。
踏みしめた床の軋み、回したドアノブ、開けた窓から入ってくる町の喧騒、PCの起動、冷蔵庫のモーター、衣擦れ、脳が自動的に制御している普段の呼吸、これらはすべて、音楽にならない音なのでしょうか。
楽音とそうでない音を分けるための線引きは、可能なのでしょうか。
そして私たちは、これらの音を分ける必要があるのでしょうか。
この問いが生まれた地平、つまり「楽音とそうでない音」というレイヤーの、その一段下(または一段上)から捉え直してみたとき、「音楽」と「音楽ではないもの」との境界は、あるのでしょうか。
境界の有無を考えるために、私は、この「音楽ではないもの」を「非音楽」と表しました。
そして、音楽と非音楽を、私の暮らしの両極に、仮置きしてみました。
音楽と非音楽、
その「あいだ」とは、何でしょうか。
その「あいだ」は、どこなのでしょうか。
姿も場所も分からない、その「あいだ」で、
両極に仮置きした音楽と非音楽がせめぎ合っているのだとすれば、
両者がせめぎ合うその接面を「境界」と捉えることもできそうです。
しかし、この「境界=あいだ」は、一本の線でも一つの面でもないように思います。
少し突っ込んで考えてみます。
国境のように、一本の境界線を引き、この線からこちらは音楽、そちらは非音楽、と思慮浅く分けてしまうことはできない。
音楽と非音楽、それぞれの、始点も終点も曖昧。
仮置きしてみたものの、そもそも両者は、それぞれが独立した極なのか。
音楽も非音楽も、はじまりもおわりも、すがたもかたちも、わからないのに。
音楽と非音楽は、白と黒、光と影、上と下、右と左、内と外、天国と地獄、過去と未来、のような対立軸にはない。
音楽と非音楽は、定義も、実態も、定められない。
音楽と非音楽は、分からない、捉えきれない。
だから途轍もなく深く、美しい。
人間は、かくも興味深く魅力的なものたちを、つまり音楽と非音楽を、発明し今日まで育ててきたのだ。
音楽と非音楽が確かにここに在ることに、私は心躍らずにはいられない。
…と、興奮と感慨に浸りきっている脳内の思索世界から
現実へ
日常へ
私が私を連れて、跳躍。
そうだ。
私にとって
音楽することは生きることだ。
非音楽することは生きることだ。
だから私の暮らしは、
音楽と非音楽のあいだ=日常。
4年前、このような思考ののちに、最初のアルバムのタイトルを『音楽と非音楽のあいだ=日常』に決めたのでした。
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これは、2011年にリリースした1stアルバム『音楽と非音楽のあいだ=日常』の再リリースに寄せて、この作品を自ら改めて見つめ直し、記した雑文です。
4年前の自分と丁寧に応答しながら、不定期に、書き継いでいきたいと思っています。
2枚目のアルバムを準備しながら。
You Tube Music『音楽と非音楽のあいだ=日常』
Spotify『音楽と非音楽のあいだ=日常』