子供の頃我家にテレビが入ってきたのは小学校4、5年生の頃でした。衣料品店を家業としていましたので、毎年「福助の足袋」を売っていましたが、春になると売れ残りが生じ翌年まで倉庫入りになります。たまたま抽選券がついていましたので、調べたら売れ残りの中に1等ミシンの当たり券が入っていたのです。
商売柄ミシンは立派なものがありましたので、父が向かいの電気店に交渉して白黒のテレビと取替えたのでした。電気店に次いで町内2番目のテレビでした。
当時秋田県内にテレビ局はなく、屋根の上に高くアンテナを立てて盛岡のNHKから電波を拾っていました。民放など地方にはない頃です。NHKといえども常時電波を発していたわけではなく午前、昼前後、夜の各数時間づつでした。
天気の具合で砂嵐混じりの画面でしたが、夜には近所の人達がテレビを見にきて、いい場面になると拍手が起きました。映画館の感覚で最後まで見ないと損をするような気持ちで10時の終了時間までその人達はいたものです。
商売柄ミシンは立派なものがありましたので、父が向かいの電気店に交渉して白黒のテレビと取替えたのでした。電気店に次いで町内2番目のテレビでした。
当時秋田県内にテレビ局はなく、屋根の上に高くアンテナを立てて盛岡のNHKから電波を拾っていました。民放など地方にはない頃です。NHKといえども常時電波を発していたわけではなく午前、昼前後、夜の各数時間づつでした。
天気の具合で砂嵐混じりの画面でしたが、夜には近所の人達がテレビを見にきて、いい場面になると拍手が起きました。映画館の感覚で最後まで見ないと損をするような気持ちで10時の終了時間までその人達はいたものです。