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My favourite horses

~私の好きな馬のこと、馬について思うこと~

ナリタトップロード ~あまりにも、早すぎて

2019-01-24 23:09:30 | 愛しき馬


1999年の牡馬クラシックロードといえば、テイエムオペラオーやアドマイヤベガらが中心となり、そこに我がラスカルスズカやオースミブライトなどの脇役陣(といったら語弊があるでしょうが)、が絡むという構図でした。
三冠を、その中心にいた3頭が一つずつ分け合う、という、それぞれのファンの気持ちを考えれば極めて理想的な結果になったことは、今でもよかったんじゃないかな、と私は思います。

私はこれまでお話してきたとおりラスカルスズカの熱烈なファンなわけですが、もともとはその中の一頭、ナリタトップロードのファンでした。

皐月、ダービーと、煮え湯を飲まされるような思いをしながら、菊花賞で念願のタイトルを手にして、ようやく溜飲を下げたと思いきや、遅いデビューから3連勝で秋のクラシックロードに駆け上がったラスカルスズカが心の中に入り始めた私は、むしろ菊花賞後はラスカルに肩入れするようになってしまいました。

別にそれでトップロードから心が離れてしまったわけではありません。
ラスカルが故障で戦線離脱した後は、代わり、と言ってしまうと気の毒ですが、「だったらトップロードを応援できるじゃん」とポジティヴにとらえて、わざわざ京都まで彼の応援に行ったほどでした。

上に掲げた写真は2001年、京都記念の時のパドック写真です。
まだフィルムカメラを使っていた時期で、しかもメインレースのパドックに行くのが遅れたために人垣の後ろからようやく撮影できた、という代物です。
ド下手な写真ですが、彼を実際に見ることができたのはこの一回だけでしたので、恥を忍んでアップした次第です。

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ナリタトップロードは1996年、門別生まれ。
父は、80年代後期に「テンポイントの再来」と呼ばれ人気を博したサッカーボーイ。
1998年12月にデビューし、折り返しの新馬戦を勝利後、翌年2月のきさらぎ賞に格上挑戦で出走して重賞初勝利。
春は弥生賞で初めてライバルの一頭、アドマイヤベガと出会いますが、1番人気の彼を破って優勝。
そしていよいよ第一冠、皐月賞では再度1番人気に支持されたアドマイヤベガに次ぐ2番人気となりましたが、中団やや後方から大外に持ち出し、鋭い脚で彼らをまとめて差し切ったのは、前走毎日杯優勝後、クラシック追加登録料金を支払って出走に漕ぎ着けたテイエムオペラオーでした。
トップロードは3着。

アドマイヤベガが皐月賞で6着と惨敗したことで、続くダービーでは(皐月3着で)負けてなお強しの感のあったトップロードが1番人気に支持されますが、中団から4コーナーにかけて一気にスパートをかけ、早めに先頭に立ったところを、馬体重減と体調不安で2番人気にとどまっていたアドマイヤベガに差されて2着。
オペラオーは3着でした。

「もう後はない」。
その騎乗に批判もあった彼の鞍上、渡辺薫彦騎手ですが、陣営は秋も渡辺騎手に手綱を委ね、彼も決死の覚悟で最後の一冠に挑むことになります。

菊花賞の前哨戦、京都新聞杯ではアドマイヤベガに差し切られ2着。
(因みにこの時のアドマイヤベガには、古馬混合の京都大賞典への出走プランもあったとか)

1999年11月7日、菊花賞。
「このまま無冠で終わるのではないか」
「いや、最後の最後まで信じよう」
そんな声の中トップロードは3番人気。
1番人気はアドマイヤベガ、2番人気はテイエムオペラオーでした。

最内枠を引いたこともあり、渡辺騎手は早め4番手につけ、タヤスタモツの先導するゆったりとしたペースの中でじっと折り合いを付けます。

2周目3~4コーナーの坂を下りると、一気に先頭に立ったトップロードは、そのまま後続との差を広げます。
アドマイヤベガが後退する中、鋭く脚を伸ばしてきたのはテイエムオペラオー。
更にその外からはラスカルスズカも襲い掛かってきますが、トップロードがオペラオーをクビ差しのぎ切り、1着。
2着オペラオーからクビ差の3着がラスカルでした。


(これは2001年京都記念の写真です)

こうして最後の一冠を掌中に収めたナリタトップロード。
しかし栄光の後に待ち受けていたのは、いばらの道でした。

以後2002年末の引退まで21戦して4勝、2着3回、3着6回。
4勝のすべてはG2で、G1での成績は[0-1-4-6]。
有馬記念は中山競馬場が苦手だと言われていた通り7着、9着、10着、4着。
一方、春の天皇賞では3年連続で3着という、ナイスネイチャに勝るとも劣らないほどの珍記録を樹立し(てしまい)ました。

大跳びで、道悪を大の苦手とし、梅雨時に行われる宝塚記念には1度も出走しませんでした。
長くいい脚を使える強みはあるものの、瞬発力を要求されるような展開は不得手でもあったのでしょう。
でも、そんなもどかしさゆえに、そしてライバルたちの引退後も長く活躍してくれたこともあり、本当にいじらしく、愛おしい馬でした。
一時期を除いて、すべて名パートナーの渡辺騎手とのコンビだったのも、今となってはかけがえのないものに感じます。

因みに、写真の2001年京都記念では、私はナリタトップロードの馬券は単勝だけ買って、後はアグネスフライトとヤマニンリスペクトの馬連を買っていましたが、勝ったのは900万条件馬のマックロウ、トップロードは3着でした。

種牡馬入り後、ファイントップ系を繋ぐ役割が期待されましたが、2005年11月7日に急逝。
残された産駒からは、フローラSを勝ち、オークスでも僅差の2着だったベッラレイアが出ています。

引退後、いつかは会いに行こうと思っていて、結局会うことができなかった馬。
本当にたくさんいますが、トップロードも私を待っていてはくれませんでした。
あまりにも早すぎました。
眩いほどに煌めく栗毛の体を躍動させて走り去る彼の姿が、脳裏に幻灯のように今も駆け廻っています。


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