イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Incoronazione della Vergine (聖母戴冠), Piero del Pollaiolo(ピエロ・デル・ポッライオーロ)

2020年06月24日 16時07分22秒 | イタリア・美術

前回Sant'Agostino(聖アゴスティーノ)教会のBenozzo Gozzoli(ベノッツォ・ゴッツォリ)の壁画の話をした時、その礼拝堂に飾られた祭壇画について書いたところ、写真を拝借したWikipediaのページの情報を鵜呑みにしてしまったため、作者の間違いをご指摘いただきました。
う~ん、横着しちゃダメですね。

そちらは訂正済みですが、せっかく調べたので、書き残しておくことにします。
作品はこれ

Antonio(アントニオ)ではなくPiero(ピエロ)del Pollaiolo(デル・ポッライオロ)の作品。
良く見れば下の枠の部分に名前が有った。
Pollaioloとは鶏肉屋、つまり鶏肉屋のアントニオ・ピエロ兄弟です。店はフィレンツェのMercato Vecchio、現在革製品の屋台がひしめくあの有名な猪がいる広場に有った。←これは私の完全な勘違い。Mercato Vecchioは
元ゲットーが有った現Repubblica(共和国)広場で、1885-189585-1895年にゲットーと一緒に壊された。(むろさん、ご指摘ありがとうございます。)
アントニオは長兄、ピエロは一番下で、アントニオより10歳年下。
兄の名前はフィレンツェで知らない人はいないくらい有名で、画家としてはもちろん、金細工師、彫刻家、建築家としても名を馳せていた。
ピエロの方はというと、Vasari(ヴァザーリ)曰く、アントニオの「アシスタント」もしくは「工房の手伝い」だったそうだ。
このヴァザーリという人は本当に罪深いよ。良くも悪くもヴァザーリが後世に与えた影響は半端なく大きいから、彼の著書で良く書かれていない芸術家が復権するのは大変だよ。

アントニオは兄弟の中で一番才能が有った。これは紛れもない事実。
しかし彼が製作した絵画は大して多くはない。
彼の才能はどちらかというと金細工、ブロンズ像制作のデッサン、銀細工、テラコッタ、漆喰、果てはコルク製品と言った3次元作品の方に注がれてた。
それに反してPieroの方はまさに画家。フランドル絵画を愛好していたことは明らかでした。
アントニオは1400年代末(はっきりわからない)、Romaで没している。

この時代どこの工房も同様だったが、注文は親方が受け、重要な注文や、重要な箇所以外は弟子が製作する。そして親方は最後に出来上がりを見てサインを入れていた。
Wikipediaの間違いを擁護するわけではないが、この作品もアントニオの名前で受けたものだったのでは?
そうだったとしても間違いは間違いだけど…
まぁ、この祭壇画は結局アントニオにピエロのサインを入れることを許された。

Sant'Agostino教会の主祭壇画は、枠の下部分にPieroの名前と1483という年号が入っています。
階級別に3部に分かれた図像。
中央の主役はIncoronazione della Vergine(聖母戴冠)。キリストの足元には聖杯が浮かんでいる。
聖母とキリストを囲むのは天使の楽団。
そして足元にはアウグスチノ会に関係する聖人たち。

実はこの祭壇画もDomenico Strambi(ドメニコ・ストランビ)に注文されたものです。
構成は1400年代末のtosco-umbra(トスカーナ・ウンブリア)の伝統絵画を踏襲しています。
地面に膝まづく聖人たちは、向かって左からまさに1481年に列聖されたばかりのSan Gimignano(サン・ジミニャーノ)の聖女Santa Fina。

手には亡くなった時、搭の上に一斉に咲き、町中がその香りに包まれた言われるスミレの花を持っている。
参考:イタリア・トスカーナ地方の聖人伝における子ども像、前之園 幸一郎、青山學院女子短期大學紀要』第48巻、青山学院女子短期大学、1994年

司教の恰好で pastoraleという司教杖を持つSant'Agostino(聖アウグスティヌス)
ちなみに聖アウグスチノ修道会は、アウグスティヌス自身が創立したわけではなく、13世紀にアウグスティヌスの会則に則って生活していた修道士たちによって設立された。

そしてもう1人、beato Bartolo Buonpedoni da san Gimignano(サン・ジミニャーノの福者バルトロ・ヴォナペドニ)というこちらも地元の聖人。

これはBenozzoが描いた同福者で、上の祭壇画の写真からは分かり難いけど、服の襟に名前がBARTOLUSが書かれていることから100%判別が出来ます。
1910年に列福(聖人に次ぐ地位)されたこの人は、フランチェスコ修道会の司祭だったが、ハンセン病を患いながら、街はずれの隔離病棟で治療に当たった人で、この教会に葬られています。

隣、右側に行ってこちらも街の聖人San Gimignanoでこちらもマントの首にSANCTUS GEMINIANUSと名前が描かれています。
白百合の花を持つのはSan Nicola da Tolentino(トレンティーノの聖ニコラウス)、そして半裸のSan Gerolamo(聖ヒエロニムス)
聖アウグスティヌスと聖ヒエロニムスがコンビ(?)で描かれるパターンって非常に多い。
と思ってちょっと調べてみたけど、明確な答えは見つからず…
二人とも4大ラテン教父(聖書をラテン語に翻訳)の一人。

まぁ、このお二方と言えばフィレンツェのOgnisanti(オニサンティ)聖堂に1480年頃に描かれたこちらの2枚。
Botticelli(ボッティチェリ)の聖アウグスティヌス

Domenico Ghirlandaio(ドメニコ・ギルランダイオ)の聖ヒエロニムス

でしょう。
まぁ、こちらの話を初めてしまうと、大変なので、写真を載せておくだけにしますが、この2人は非常に縁の深い人。
ボッティチェリの作品は、「書斎の聖アウグスティヌス」あるいは「聖アウグスティヌスに訪れた幻視」というタイトルがついているが、聖アウグスティヌスが聖ヒエロニムスに助言を求める手紙を出したところ、書斎に光が満ち、ヒエロニムスの声が聞こえたという場面。この時まさにヒエロニムスが死ぬ瞬間だった。

最後に「この絵(聖母戴冠の祭壇画)にはバリの聖ニコラスとトレンティーノの聖ニコラスも描かれていますが、聖セバスティアヌスは出てきません。ベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画の20年後に主祭壇画としてここに設置されたのだとしたら、ペストのことはゴッツォリの絵で十分と考えたのかもしれません。
とコメントを頂いたのだが、個人的にはそうではないと考えている。
このメンバーチェンジも多分Strambiの案なのだとは思うけど、アゴスティヌス修道院の思惑に基づいてより自分の教義に合う聖人を聖セバスティアヌスの代わりに添えた。
それが聖フィーナであり、聖バルトロ、トレンティーノの聖ニコラスである。
聖フィーナ、彼女のとりなしによって長年苦しんでいた多くの病人が完治したり、死者が蘇ったりという奇跡を起こした”奇跡の聖人”。
聖バルトロは、ハンセン病や不治の病の患者の世話をした所謂”看護師聖人”。
そしてトレンティーノの聖二コラスも同様で(聖ニコラウスがペストの聖人になったことに関しては、こちらの論文が詳しい。)ペストとのはっきりした関係は分からないものの、アゴスティヌス会はこの時期、このニコラウスの普及に非常に熱を入れていて、様々な作品に登場している。
この辺に関しては、次回改めて触れたいと思っている。

ちなみにこの祭壇画は、Sant'Agostino教会が1782年Pietro LeopordoによってPisaの教会と合併された後、1809年ナポレオンによって祭壇画が持ち去られた。それが返還された時には、CollegiataのCoro(内陣席)に置かれ、長いことそのままになっていた。最終的にSant'Agostino修道院に戻ったのは1937年だった。


参考:http://www.cassiciaco.it/navigazione/iconografia/pittori/quattrocento/pollaiolo/pollaiolo.html
I Pollaiolo La pittura, Angelo Tartuferi, artedossier, Giunti
写真:Wikipedia



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7 コメント

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Pollaiolo兄弟のこと (むろさん)
2020-06-24 23:54:26
前記事のコメントの続きに投稿しようと思って書き始めたのですが、書いている間にこの記事が新しく出たので、こちらにコメントを入れます。

Verrocchio工房のライバルでありBotticelliにも大きな影響を与えたという点で、Pollaiolo兄弟とその工房については以前からとても興味があったのですが、Pollaiolo単独で日本語で書かれた本はないので、今まで真剣にPollaioloについて考えたり調べたことはありませんでした。この機会に手持ち資料を少し確認してみました。

Pollaiolo単独の本ではありませんが、日本語で読めるものでは世界美術大全集イタリア・ルネサンス1(小学館1992年)の森田義之解説が最も詳しいようです。また、Pollaioloについてのイタリア語の本で持っているのはFABBRIの画集とStudi e Ricerche16,La stanza dei Pollaiolo,2007,Uffiziの2冊だけで、GIUNTIのART DOSSIERのPollaioloは持っていません。この他ではEttlingerのPollaiuolo(Phaidon,1978,英語版、但し本は持っていなくて、カタログレゾネ他の必要部分のコピーだけです)と国内で開催された美術展図録など。これらを確認したところ、以下のことが分かりました。

Pollaiolo の絵がAntonio作かPiero作かの帰属の件ですが、小学館世界美術大全集の森田義之解説では、原則として人体把握などが優れている絵はAntonio作、劣る絵はPiero作としていて、共同制作でも例えばウフィツィの3聖人の絵(S.Miniato al MonteのPortogallo枢機卿礼拝堂伝来)のうち、出来の良い左の2人はAntonio作、出来の悪い右の人物はPiero作としています。
しかし、上記イタリア語の2冊でもEttlingerの本でも、兄弟どちらの作と判断するかはかなりまちまちなようです。(Ettlingerの本のカタログレゾネ部分には、Berensonなど研究者ごとに兄弟どちらの作としているか、あるいはCastagnoなど別人の作と判定するかを記載しています。また、Uffizi発行のStudi e Ricerche16ではPortogallo枢機卿礼拝堂伝来の3聖人の絵を共同ではなくPiero作としています。)VasariのViteでは兄Antonioが弟Pieroに絵を習ったとしていますが、それは誤りだとしても、兄が彫刻や金工、弟が絵画を主として分担したのは事実だと思うし、森田義之氏の言うように彫刻主体の兄の方が絵画の腕も良かっただろうと思います。また、兄が工房の主催者なので、契約書も兄の名前で書いたと思います。なお、上記本文で「(アントニオ)が製作した絵画は大して多くはない」とされていますが、引用した森田義之、Ettlinger、Studi e Ricerche16などの本ではAntonio作と判定されている絵もPiero作と同じぐらいの数は現存しているように思えます。(彫刻・金工・刺繍などはほとんど全てAntonioのようですが)

1991年に東京(世田谷美術館)、名古屋、京都で開催された「フィレンツェ・ルネサンス 芸術と修復展」にAntonio Pollaiolo作としてピストイアのサン・ドメニコ修道院の聖ヒエロニムス(フレスコ画断片)が出品されています。この図録解説に参考になることが書かれていました。「1480年代という制作年の推定は、サン・ジミニャーノの1483年の祭壇画と比較するならいっそう確かなものとなる。その絵とこのフレスコ画とは、形態上著しい類似を示しているからである。」確かに両者を比べるとよく似ているので、このピストイアの絵を(AntonioかPieroかは別として)Pollaioloとすることは妥当である気がします。もっともEttlingerの本では、このピストイアの絵もミラノ・ポルディ・ペッツォーリの有名な横顔の婦人像もPollaioloの作から外していますが。

これらの状況を見ると、(記録などから明らかにどちらの作かと判別できる場合以外は)作風からAntonioとPieroの手を判別するのはかなり難しいという気がします。但し、San Gimignanoの聖母戴冠にPieroの銘があるという意味は重要であり、これはPieroの作(工房の弟子の関与は当然考えられますが)としていいと思うし、これを基準にして他の作品の判別ができるかもしれません。ただし、上記のピストイアの絵の解説で「著しい類似」と言いながらAntonio作としているので、ますます分からなくなります。専門家もAntonioとPieroの作風をどこまで区別できているのかと思ってしまいます。

兄弟や子供、さらには義理の弟などの作品が残っている画家として、シエナのロレンツェッティ兄弟、ギルランダイオ、シモーネ・マルティニとリッポ・メンミ、マンテーニャとジョヴァンニ・ベッリーニなどではほとんど区別できているように思えますが、ルネサンス期の同族の画家で作者同定に異論が多いのはPollaiolo兄弟だけなのでしょうか?

Ettlingerの本でdocumentsのうち1480年の記載は、AntonioとPiero の納税記録、年齢、家族のこと、そして1480年2月17日にSan GimignanoのためにJacopo di Pisaという人物が作った遺物入れをAntonioがAntonio di Salviという人物と一緒に評価した、ということが書かれています。
→この記録の内容ではAntonioが1483年Piero銘のSan Gimignano聖母戴冠に関わったということにはならないと思います。私も工房の実態としては注文は全てAntonioが受けて、 Pieroはそれに従って絵画制作の仕事をすると思っていますが、実際に残されている記録からは、どこまで言えるのかということを知りたいと思います。ART DOSSIERのPollaioloの本で1480年にAntonioがSan Gimignanoでどんなことを行ったと書かれているのか教えてください。

AntonioとPieroの没年については明確に分かっているようです。Antonio は1498.2.4没、これはバチカンでのInnocentioⅧの墓のブロンズ彫刻を1月下旬に完成させた数日後。Pieroの方はその2年前の 1496年没(日付は不明?)。2人ともバチカンの仕事中にローマで亡くなり、その後ミケランジェロのモーゼで有名なS Pietro in Vincoliに仲良く埋葬されたそうです。(Ettlingerの本より)

San GimignanoのPiero Pollaiolo作聖母戴冠がCollegiataからS. Agostinoへ戻された年を私は前回コメントで書いたように、何冊かの本から1990年~1995年の間かと推定したのですが、上記本文記事では1937年とのこと。そうだとしたらPollaioloのモノグラフを書いたEttlingerもBotticelli聖母戴冠のrestauro e ricerche(Uffizi,1990)を書いたイタリア人研究者もそのことを知らなかったということになります。そして前回コメントで書いたMarion OpitzのGozzoli(1998年)掲載写真は発行年からあまり前の撮影ではないように見えるので、あるいは1937年にCollegiataから移動していたとしても、その後長期間修復か何かで、実際にS. Agostinoへ戻ったのは1995年頃か、とも思います。実際のところはどうなんでしょうか?

また、祭壇画の板絵を壁に貼り付けないで設置している事例ですが、フィレンツェやローマ、その他の町でも私は見たような記憶がありません。現存作例を何かご存じなら教えてください。

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Pollaioloの件 (fontana)
2020-06-28 17:48:19
むろさん
コメントありがとうございます。
1991年のカタログは、うちにも有ったので見てみましたが、Pollaioloの知識も資料も乏しく、帰属に関してはむろさんが教えてくださった以上に情報は有りません。
GiuntiにもSan Gimignanoの件はほんの数行で、むろさんも書かれていたEttlingerが書いていた遺物入れについての記述のみだとしか書かれていません。だからむろさんが言うように、Antonioが聖母戴冠に関わったとは言えない、単に工房の責任者として注文を受けただけ、と考えられているようです。

Museo Poldi Pezzoliで2014年末から2015年にかけて行われた特別展(https://museopoldipezzoli.it/tutti-gli-eventi/le-dame-del-pollaiolo/)では、キュレーターたちはPiero作という意見でしたが、未だに決定的ではないようですね。(大変興味深い展覧会だったと記憶しているのですが、カタログは購入しまなかったようです。)

血縁者間での帰属問題に関しては、CrivelliやVivariniひいてはCarracciなども多少は有りますがここまではっきりしない家族は思い当たりません。

「聖母戴冠」がCollegiataに戻ったきろくですがこちらの論文を参照しました。(p.242)祭壇画用の台座をこの年に制作されたとあります。出典は不明です。https://www.academia.edu/34611862/SantAgostino_IV_2014_Chiesa_e_Cappelle_da_p._233_a_p._256.pdf

壁に貼りついていない祭壇画ですが、今思い浮かぶのはFirenzeのSanta Croce教会やVeneziaの Basilica di Santa Maria Gloriosa dei Frariでしょうか。湿気のせいか、ヴェネツィアには多い気がします。
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Pollaioloの件 続き (むろさん)
2020-07-04 14:21:25
前回のコメントで書き切れなかったことも含めて書きます。

トレンティーノの聖ニコラウスのこと
河田氏の論文をご紹介いただき、ありがとうございます。バリの聖ニコラウスと同じ名前である理由も分かりました。前のコメントご回答で河田論文は3件しか承知していないとのことでしたが、今後もまたありましたらご紹介をよろしくお願いします。また、この論文を読んで疑問に思ったのですが、黄金伝説抄(藤代幸一訳、新泉社1983年)によれば、バリの聖ニコラウスについて「西暦1087年に47人の騎士がミラの町の聖ニコラウスの墓から遺骨をバリの町に運んだ」とあります(そのためバリの聖ニコラウスと呼ばれるようになったのだと思います)。一方、上記河田論文では「1245年、(トレンティーノの)ニコラウスは…に生まれた。子どものいない夫婦が天使に導かれてミュラのニコラウスの墓へ巡礼したところ、子を授かった」とありますが、これでは遺骨が残っていない空っぽの墓にお参りしたことになってしまいます。これはどういうことなのでしょうか。(遺骨が残っていなくても聖なる遺跡というだけでご利益がある? あるいはバリへは分骨だった?)

ポライウォーロの家や工房のこと
本文でご紹介いただいたイタリア語のポライウォーロの説明では「Mercato Vecchioの鶏屋の息子」とあります。一方、FABBRI の画集85 Pollaioloでは「ヴァザーリが証言するようにMercato Vecchioにポライウォーロの工房」とあり、また、ヴァザーリのVite(白水社版)本文には「メルカート・ㇴォーヴォに金細工店」、注釈には「メルカート・ヴェッキオに父親が鶏の店」となっています。Ettlingerのモノグラフでは1480年のCatastoの記録として、「AntonioがP.za degli Agliに家を持ち、Via Vaccherecciaに工房を借りている」としています。(P.za degli Agliは現代の地図には出ていなくて、Via degli Agliがトルナブオニ通りのS.Gaetano教会の北にあるので、昔はこの近くに広場があったのかと思いますが、Uffizi 発行のStudi e Ricerche16,La stanza dei PollaioloではP.za degli Agliはドゥオモの近くと書いてあり、S.Gaetanoからは少し離れています。また、Via Vaccherecciaはシニョリア広場の南西、ランツィのロッジアの前の道で、Mercato Nuovoのすぐ南なので、ヴァザーリの書いている金細工店はこのVacchereccia通りの工房と同じかもしれません。)ここまでくるといったい何が正しいのかよく分からなくなってしまいます。家や工房は引越しすることもありますが、これ以上の確認はCatastoなどの原資料に当たらないと無理です。
なお、猪のブロンズ像コピーはMercato Nuovoのロッジア近くであり、Mercato Vecchio(今の共和国広場)ではありません。

ポライウォーロの銘文のこと
銘文については「ベノッツォ・ゴッツォリの2枚の聖セバスティアヌス たぶん最終回」の記事に対するコメントで書いた通り、板絵の画面の中、下半分の中央部にある「(諸聖人の)下方の教皇冠と赤いヒエロニムスの帽子の間に書かれた文字」(左から2人目の聖アウグスチヌスの杖の下方の先端付近)が実際の銘文であり、額縁の下の方にある黒い枠に書かれた大きな文字ではありません。ペルジーノ作チェルクェートの聖セバスティアヌスの記事の時にも、銘文と後世の碑文についていろいろコメントのやり取りをしたように、制作当初に絵に書かれた銘文と後世になって額縁などに書かれた「説明書き」は別物です。このポライウォーロの絵では今回本文でご紹介いただいたイタリア語解説に掲載されている写真でも、かろうじて銘文の文字があることが分かります。この銘文はポライウォーロ兄弟の絵で現存する唯一の銘文だそうですから貴重なものです。(制作当初の額縁が残っていて、そこに作者銘や額縁制作者の名前・年号などが書かれている場合もありますが、この聖母戴冠の額縁は後世のものだと思います。)

ポライウォーロ作聖母戴冠に描かれた諸聖人の選択のこと その他
祭壇画に表現される聖人の選択についてはおっしゃる通り、Strambiの考えに沿っているものだと思います。「聖セバスティアヌスを描かなかったことについて、ベノッツォ・ゴッツォリの絵で十分と考えたのかもしれない」と書いたのは私の想像です。宗教的なことや図像学はあまり得意ではないので、仏像など日本美術でもそうなのですが、この方面については本や論文で教えられることばかりです。ドメニコ派とフランチェスコ派の対立を背景とした聖人の選択の違いなどについても、もっと注意しなくてはいけないと思っています。

また、前コメントで「バリの聖ニコラスとトレンティーノの聖ニコラスも描かれています」と書いたのは、Ettlingerのモノグラフで「左から右へ Fina,Augustine,Nicholas of Bari,Gimignano,Jerome,Nicholas of Tolentino」と書かれていたためですが、ご紹介のポライウォーロの説明では左から3人目を「Bartolo Buonpedoni」としています。私が持っている本で一番写真が大きく出ているものは上記Uffizi 発行のStudi e Ricerche16であり、この写真では銘文の文字は読めるのですが、さすがに左から3人目の聖人の襟の文字は小さ過ぎて「BARTOLUS」の文字までは読めません。Ettlingerの本は1978年の発行、ご紹介のポライウォーロの説明は1998年までの修復を踏まえた著述だと思われるので、これはBartoloが正しいと思います。なお、前のコメントでEttlingerの本から引いた銘文の文字を書きましたが、正確には2007年Uffizi 発行のStudi e Ricerche16に「PIERO. DEL POLLAIUOLO. FIORE[N]TINO 1483」と書かれていて、同書の写真でもこのように読めます(Nが抜けている状態、UはVで表記)。Ettlingerの本はポライウォーロのモノグラフとは言え40年以上前の発行(すなわち修復完了以前)であり、また、作者帰属についても多くの研究書と異なる意見があるなど(聖人の同定や銘文の一部不正確な記載等)、その利用には注意が必要ということが分かりました。

「聖母戴冠」がCollegiataからSant Agostinoに戻った記録の件
ご紹介の2014年のSant Agostinoの資料p242で、1937年という記載とともに「rinnovato poi nel 1999」「restauro del 1998」とあるので、1937年にCollegiataを離れ、修復後1999年に現在の状態になったようですね。その間約60年間ずっと修復作業場にあったとしたら、少し長過ぎる気もしますが。

壁に貼りついていない祭壇画の件
FirenzeのSanta CroceとVeneziaのSanta Maria Gloriosa dei Frari の主祭壇の写真を確認しました。Santa Croceは壁面のステンドグラスの前方に磔刑や多翼祭壇画が立てられていますね。Veneziaのティッツァーノ作聖母被昇天の方は、かなり立派な柱が両側についた祭壇仕立ての額縁なので、これなら地震が来ても問題ないと思います(これに比べてサン・ジミニャーノのP.ポライウォーロ作聖母戴冠の立て方はいかにも貧弱という気がします)。私はVeneziaでもフィレンツェ派の作品ばかり見ていて(S. Zaccaria、Ca dOro、Verrocchioの騎馬像など)、教会巡りはほとんどしていません(メインのテーマが15世紀のフィレンツェ派であり、ヴェネツィア派への興味は二の次であるため)。次に行く機会があったら重要な作品のある教会ぐらいには行こうと思っていますが、湿気のためかVeneziaにはこういう形式が多いということは全く知りませんでした。ご教示いただき、ありがとうございます。(ZaccariaへはCastagnoのフレスコ画を見に行ったのですが、Tarasio礼拝堂内の写真を見ると、Castagnoのフレスコ画の下に立派な額縁に飾られたVivarini他の多翼祭壇画が独立した形で立っています。上の方にあるCastagnoばかり見ていて、祭壇画の方には目が行ってなかったようです。)

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勉強になりました。 (fontana)
2020-07-04 17:34:54
むろさん
詳細なコメントありがとうございます。
銘文の件に関しては、資料を熟読せず勘違いしていました。ご指摘ありがとうございます。またMercato Vecchioに関しては、完全に勘違いしていました。失礼しました。

バリの聖ニコラウスの件ですが、トルコ人の中には「バリのニコラウスはミラに埋葬された」と主張する人が未だにいるようです。ただこの件も真実は分かりませんが…

「聖母戴冠」がCollegiataからSant Agostinoに戻った記録の件の「rinnovato poi nel 1999」は祭壇画の下の台のことです。「restauro del 1998」こちらは確かに修復家自身のサイトで功績を確認しました。この間の60年に関しては、不明ですね…

今回も色々勉強させていただきました、重ね重ねお礼申し上げます。
今後もご指摘よろしくお願いいたします。
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Unknown (fontana)
2020-07-04 21:40:54
ミュラのニコラウスの件ですが、河田氏の論文を確認する前にコメントしてしてしまいましたが、気になっていません確認したところ、これは微妙だと思いました。河田氏は「ミュラに有る」ミュラのニコラウスの墓を訪れたとは書かれていません。この表現は分かり難いな、と思いましたが、イタリア語の資料を読みましたが、Bariのニコラウスの墓と言及していました。ただ、前回書いた通り、ミュラに墓が有ると言っている人もいます。
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ミュラのニコラウス (むろさん)
2020-07-04 23:56:57
「ミュラのニコラウス」のバリにある墓をお参りしたら子を授かった、という解釈ですね。それなら納得できます。
トルコ人が「バリのニコラウスはミラに埋葬された」と主張していることは気にしなくてもいいと思います。キリストの墓が青森にあるとか源義経は中国に渡ってジンギスカンになったと主張する人もいますし、鎌倉時代の記録などを読むと、釈迦信仰の高まりによる需要に応じて舎利は増えたようです。

ついでながら、聖人の殉教地や聖地に巡礼する場合、その場所には必ず聖遺物とか遺骨などの「礼拝対象物」は存在しているものなのでしょうか。ランドゥッチの日記のサヴォナローラ処刑の3日後の記事に、シニョリア広場の処刑跡の地面に跪いている女が何人かいたと書かれていますから、(後で祭り上げることがないように遺物はチリ一つ残さないように全て処分されたので)物が何もなくても信仰はありという気もします。

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物があるような… (fontana)
2020-07-05 16:09:22
むろさん
コメントありがとうございます。
私もまず「義経伝説」を思い浮かべました。

信仰対象の件ですが、色々な聖地を思い浮かべてみた上、あくまでも個人的な考えですが、聖地などには真贋はさておき、必ず信仰対象物が有ると思います。
サボナローラの場合は、処刑されて3日後ならまだ根強い信者がいたのでは?
大抵聖人が殉死した後は、なにがしかの聖遺物を祀り、教会などを建てるのが一般的かと。キリスト教も元は偶像崇拝を禁止していたのに、信仰を広める1つの手段としてイメージを活用するため偶像崇拝に寛容になったことや、例えば日本の隠れキリシタンの人たちが作ったマリア観音像の存在などを考えると、キリスト教徒には礼拝対象物が必要だったのではないでしょうか?
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