イタリアの泉

今は日本にいますが、在イタリア10年の経験を生かして、イタリア美術を中心に更新中。

Palazzo Portinari Salviati

2013年03月24日 22時02分49秒 | イタリア・美術

今日は久々にのんびり~。
実は××回目の誕生日だったりしたんですけどね。
「今日何の日だ?」って妹にメールしたら
「あんた、何歳だと思ってんの?」ってめっちゃ怒られた・・・

のんびり(いやいや、本当は試験勉強しなきゃいけないんだけど・・・日曜日だし、誕生日だから許して)ということで忘れないうちに今回はしっかりこちらを書かせていただきます。
備忘録としてワードで作ったものを貼り付けた(ちょっと短くする努力はしてみますが)ので、とにかく長いです。
興味がない人は途中でいなくなってくださいねぇ。
自分でも最後は飽きてた。

さて今日とは打って変わって小春日和だった昨日。
土曜の午後はお仕事があるので(昨日は特に大変な日だったので)余程のことがないと、午前中は出かけないし、金曜っ後の時点では、午前中は図書館でお勉強~と思っていたのですが家に帰ってあるサイトを見て
「ここ行かねば~」
ということで、出かけてしまった。

昨日今日、Giornata FAI di Primaveraというイタリア全土で大きなイベントがあった。
FAIというのはイタリア環境財団と言えばいいのかな?
Fono per l'Ambiente Italianoだったのでイタリア環境の為の基金ですね。(FondazioneのFだと思ってた。)
文化遺産、環境などを守るために様々活動をしている団体で、今回は21回だったんだけど、私も数年前からこのイベントでいろいろな場所を無料で見せてもらいました。
このイベントは、普段は基本的に一般公開されていない、されていても有料の施設を無料で開放してくれる。
大体ボランティアのガイドが付くので、説明も聞けるし、すごく楽しいイベントなんです。
(寄付はけっこうしつこく求められますが、気持ちでOK)
最近ではちょっと残念なことに、会員にしか見せてくれない場所もあり、私も毎回登録しようかどうしようか迷っている・・・でも円高になったら、なったらと思っていたので・・・今のところしていないのよね。

さて、ここ数年Firenzeでは同じところしか公開してくれず、全然足が向かなかったのが、昨日は突然(1週間前にみた時はリストになかったし、もらった配布物にも名前がなかった)Palazzo Portinari Salviatiが加わっていて、説明にはAlessandro Alloriの装飾で飾られた・・・とあったので、”これはみるべきアンテナ”に引っかかった。

こちらFirenzeの中心も中心、via del Corsoに大き銀行(Banca Toscana)があるの分かりますか?
実はこの内部なんですね。(裏から入ったんですけどね)

このお屋敷は元々、Folco Portinari が建てたもの。
しかしFolco Portinariと言ったところで、「誰っ?」って感じですが(ガイドもこう言っていましたし、私も「だれ?」って思った。)、この方、ダンテの永遠の妖精ベアトリーチェのお父さまでございます。
その方、すごく財力があったのねぇ。確かダンテ身分違いを嘆いていたりしたよね。
他にも現在も現役活躍中のSanta Maria Nuova病院を立てたりして、街の為に尽くしていたようです。

その後1456年Jacopo Salviatiがこの屋敷を所有。
だから名前に2家族の名前Portinari&Salviatiというわけ。

で、このSalviati家も有名なんですわ。
15世紀のFirenzeと言えば、もちろん一番権力が有ったのは誰もが知っているMedici(メディチ)家。
お恥ずかしながら私もメディチくらいしか知らないですよ、詳しくは。
そして2番手がこのSalviati家だった。
そしてこのJacopo Salviatiの奥さんはメディチ家出身のLucrezia de' Medici(ルクレツィア・デ・メディチ)
彼の手(いやもちろん工事をするのは職人ですが)によってたぶん最初はMichelozzo(ミケロッツォ)そしてGiuliano da Sangallo(ジュリアーノ・ダ・サンガッロ)当代随一の建築家のプランでお屋敷は増改築され、更に1世紀の後Bramante Lazzeri(みんなが知ってるサンピエトロ大聖堂の改築などをしたブラマンテではありません。あしからず。いや私も「えっ?」って思ったのよねぇ・・・全く紛らわしいんだから!)によって現在の形となりました。

このお屋敷には、Jacopoの娘、Maria Salviatiが住んでいて、彼女Giovanni delle Bande Nereと結婚した。
そして彼らの息子こそ初代トスカーナ大公Cosimo I(コジモ1世)なんですねぇ。
ちなみに私もちょっと頭の中がこんがらがってきたので整理すると、メディチ家のフィレンツェ支配を確立したCosimo de' Medici(コジモ・デ・メディチ1389-1464)とは違う人物なんだよねぇ。
なんで同じ名前を付けるんだよ~紛らわしいったらありゃしない。しかし、これ今でも続いてるんだよね。
おじいさんの名前をもらう、とか。
まぁ日本だってそうだけどさぁ。あ~紛らわしい。

そして既に糸はさらにもつれてきたけど、Maria Salviatiはメディチ家最盛期の当主Lorenzo de’Medici(Lorenzo il Magnifico)の孫とも書いてある・・・ということは、あっそっかLucrezia de' MediciはLorenzoの娘ってことだね。(長女だそうです。)
なんでもこのBoticelli(ボッティチェリ)の「聖母子」のキリストのモデル(?)彼女らしいですよ。(マリアじゃないですよ。)

かたや夫のGiovanni delle Bande Nereはメディチ家の傍系Giovanni de' Medici(ジョヴァンニ・デ・メディチ、イル・ポポラーノ―Il Popolano)とCaterina Sforza(カテリーナ・スフォルツァ)の息子。
ちなみにこの結婚Caterinaは再再婚でした。
この時代女は政略結婚の道具でしたからねぇ。さもなきゃり両家のお嬢様は修道院行きでしたからねぇ。
あ~なんて嫌な時代だ。とか思いながら資料を読み進めてみると、彼女は“女傑”として名をと轟かせていたんですよ。
ここでこの話を続けてしまうと話がかなりそれるし、時間もかかるので、詳しく知りたい方はWikipediaをどうぞ。

メディチ家とスフォルツァ家の血を引いている、ということは当然権力も莫大。(ちなみにCaterinaは庶子でしたが。)
Giovanni delle Bande Nereは「ルネサンス最後の傭兵隊長」と言われ、彼が生きていたなら彼の死後半年後(1526年)に起こったローマ略奪(Sacco di Roma)、ここまでひどいことにはならなかっただろうと言われているくらい素晴らしい隊長だったらしい。で、こうなるとなんだかすごく強そうな子供が生まれるのは当然じゃないですかねぇ。

Cosimo Ⅰ(コジモ1世)は1537年Alessandro de’Medici(アレッサンドロ・デ・メディチ)が暗殺され、メディチ家の直系の後継者が断絶し、後継者として選ばれるわけなんです。棚ぼたですね。
しかし現在のウフィツィ美術館や、ヴァザーリの回廊などを建設し、今日のフィレンツェの景観を作り上げた人でもあるので、感謝しないとね。

Giorgo Vasari(ジョルジョ・ヴァザーリ),  Agnolo Bronzino(アニョロ・ブロンズィーノ)らを宮廷画家として迎えたり、Michelangelo(ミケランジェロ)の葬儀(1564年)を行ったりもしている。コジモ1世の時代、再びフィレンツェでルネサンス文化が花開いたと、最後のともし火と言った方が適格か?
とにかく芸術に非常に精通した人物であったことは間違えない。
脳みそ筋肉で出来てそうな親から生まれたわりに・・・とついつい思ってしまった。
しかし、人生全てが順風満帆だったわけではなく、マラリアで2人の子と妻を相次いで失うなど晩年は決して恵まれたものではなかった。(バチが当たったのか?)

で・・・何の話をしていたんだっけ?
そうそう、で民間伝説(都市伝説じゃないよ)によると、ある日傭兵隊長Giovanni delle Bande Nereは息子CosimoⅠの気質を見極める為、妻に2階の窓から赤ん坊だを投げ捨てさせ、自分はその赤ん坊を地上で受け止めるというなんとも言えない行動に出た。ところが、まぁ伝説ですから悲劇は起こらず、この赤ん坊、泣き声一つあげなかったそうな。
父Giovanni delle Bande Nereは「この子は将来勇敢な男になるだろう」と確信したんですと。
一歩まちがえれば死んでたよ。
まぁそれくらいで死んでたらそれまでよ~ってことなんでしょうけど。
更に死んでたら記録にも残らなかっただろうけど、それにしてもすごい父だよ。
で、この伝説の窓は実はこのお屋敷内、ということらしいです。どこか?ということは分かりませんけどね。
天井高いから2階いって言っても結構高いよ。

時代が更に下り1709年にはデンマークの王フレデリックⅣ世が滞在していたそうです・・・ってどなたさんでしょうか?
1768年お屋敷はRicciardi-Serguidiに売却され、1808年Pietro Leopoldo di Giannozzo Da Cepparelloが遺産として受け取ります。1865年、フィレンツェがイタリアの首都だった時期にはMinistero di Grazia e Giustizia(司法省)が置かれ、1870年Cassa di Risparmio(銀行)に所有者が移り、1881年はPadri Scolopi、そして1921年後のBanca Toscana(トスカーナ銀行)、gruppo Monte dei Paschi di Sienaグループ一員のBanca di Credito Toscanoの所有となり現在に至る。
建物は2013年3月現在修復中。

また脱線しますがこの親グループのMonte dei Paschi di Siena
ここ1ヶ月、2ヶ月だったかなぁ、イタリア経済を騒がせています。
世界で一番古い銀行です。
で、このニュース詳しいことはわからないけど(いや分かろうとしていないんですけど)、どうやらなつかしの野村證券も絡んでいるらしいんだよねぇ。
「Banca Nomura」と何度も聞いているんだけど、今更野村???って感じです。

さて話をもとに戻して、いよいよ建物内へ。
内部の装飾ですが、第一の見所はやはりAlessandro Alloriでしょうね。
1574-1575年、CosimoⅠ(コジモ1世)の時代中庭の長い回廊に当時流行していたゴロテスク様式を用い“ヘラクレスの物語”(Sroria di Ercole)



Maria Maddalenaに献じられた礼拝堂↓の壁画などを描いています。
 
壁画はフレスコではなく、油を使用したため、かなり痛みが激しい。

中庭の中央には、若き日のミケランジェロ。(誰の作品で、いつのものか、また写真撮影に夢中で聞き逃した。) とミケランジェロの才能を見出したとされるLorenzo de’Madicinnとの有名なエピソードが元になっている。
サン・マルコ庭園で、年老いた牧神ファウヌス像の頭部を彫刻しているのを見たLorenzoが、「年のわりに歯がキレイすぎじゃない?」と指摘したところ、翌日には歯欠けに仕上げてきた、というお話。
まさにその作業をしているシーンが。

ちなみにまたまた脱線しますが、昨日日本人同士のお食事会が有って、その席ですごい話になったんですよ。
ミケランジェロが男色だった、というのは有名な話。
Firenzeがイタリアで1,2のゲイの多い街、というのも有名。
そして、数年前まで(多分10年くらい前の話で、今は変わっている・・・と思いたい)イタリア男性1人に対して女性は3人。
つまり著しく男性の数が少なかったようです。
この話をしてくれた方はイタリア人男性と結婚している日本人なのですが、「だからイタリア人女性は外国人女性に意地悪なんだ」と。
だってタダでさえ少ない男性を、外国人が横取りしているわけですから・・・
こわいこわい。
更に、彼女の知り合いの日本人男性が、男性に襲われそうになったということですから、男性のみなさんもFirenzeではくれぐれも気をつけてくださいね。

ということで、話をもとに戻して・・・
こちらの中庭はcortile degli Imperatori(ローマ皇帝の中庭)と呼ばれているんです。
何故なら上を見上げると、Giambologna(ジャンボローニャ)のデザインしたローマ皇帝の12体胸像が天井の直ぐ下にずら~と並んでいる。(1500年代の作品)
Salviatiはこのお屋敷にDonatello, Verrocchio, Cellini, Baccio Bandinelli, Andrea del Sarto, Bronzino,Correggioなど当時最先端を行っていた芸術家たちの作品を集めていたようだが、残念ながら現在は壁画以外は全く残されていないです。

この中庭の天井↓は1920年代のものなのでかなり新しい。

豊穣をあらわしている・・・って言ってた気がする。

屋敷の中は現在、1400年代から1700年代までの壁画が存在しているけど、どれもかなり保存状態はよくない。
それはひとえにフレスコではなく油だから。
フレスコというのは、壁に色をしみこませてしまうので、剥落の心配が油や他のものに比べて少ない。
もちろん水分には弱いんですけどね。

そして何よりも感動したのがこの中庭に面した1室のFregio(フリーズ、帯状装飾)。







かつていろいろな壁画を見てきたけど、これは初めて。
Batracomiomachia(バトラコミオマキア、何度聞いても絶対この単語は覚えられない!)
中庭のグロテスク様式にたいしてこちらは超自然。
日本語では蛙鼠合戦(あそがっせん、または蛙と鼠の合戦)、喜劇的叙事詩で『イリアス』のパロディ。
ストーリーはWikipediaからどうぞ。
なんか猿カニ合戦そっくり!
グループじゃなければ、飽きるまで見ていたかった・・・
しかしこれを見ただけでもここに来てよかった。
こちらもAllori(もしくは工房)のものと言われている。

Alessandro Alloriは後期マニエリズムの画家で・・・う~ん日本語支資料なしか。
仕方が無い、イタリア語から行くか。
ちなみにまた一瞬こんがらがったけど、Alloriは幼い時に両親を亡くし、友人(伯父と書いてあるものもあるけど?)であり、こちらもマニエリスムの大家Agnolo Bronzinoに引き取られる。そんなことからBronzinoとも呼ばれていたらしいんだけど、所謂マニエリスムでBronzinoと言えばAgnoloの方。
伊版Wikipediaでもその間違いが指摘されている。(私も一瞬???となったよ) 
1572年にBronzinoが、1574年にVasariが死ぬとAlloriはgranduca Francesco I de' Medici(トスカーナ大公フランチェスコ1世)の宮廷お抱え画家となる。

そうそう、このお屋敷に入った時から気になっていたこれ

ちょっと見難いかなぁ?
羊なんです。お屋敷各所で見られるAriete(おひつじ座)の装飾は、このFrancescoⅠに捧げられているらしい。(おひつじ座だったのか?詳しい説明はなかった・・・聞いてなかった?)

これらが1階。
そしてもう1箇所見ることが出来たのは・・・3階くらいかな?
工事中の建物の中を入って行き、上がった先には

1700年代の作品ギリシャ神話のオリンポスの山がモチーフの天井画。
壁には殆ど残っていないけど、全面絵が描かれていたはず。
次からの部屋は室内の装飾は殆ど残っていない。
面白いのはこの梁

一番天井に近い黒い部分は1400年代、その下が1500年代、という2重構造で出来ています。
あれ?ライオンはなんだったけな?
う~ん、忘れないうちに資料を手に入れてチェックしなきゃなぁ。
早速、いつも利用している図書館に良さそうな本があるので、明日早速借りてこよう。

この後は

こんなのとか

こんなのとかを見て、この階をぐる~と回って終わり。
結局10時に入ったのに、出たのは11時だった。

あ~本当に行って良かったなぁと。
そしてまだまだ見てないものいっぱい有るなぁと思った半日でした、とさ。
即まとめても分からないところが多いのは、写真撮影に夢中になっているせい?
それとも物忘れがひどいせいか???

まぁいろいろ楽しませてもらっているから、やっぱり近々会員登録しようかな。
FAIの詳しいことはこちらから。
あ~半日かかったよ。



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2 コメント

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Unknown (たま吉)
2013-03-25 22:31:10
fontanaさん、誕生日おめでとうございます!

今日の記事を見て、また中世ルネッサンス時代の歴史とアートへの興味が湧いてきました。ここのところ、ずっと古代ローマに熱中していたので・・・
ホント、人名が同じだったりするから混乱するんで困ります。

素敵な日を過ごしてくださいね♪

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ありがとうございます。 (fontana)
2013-03-26 05:37:08
たま吉さん
ありがとうございます。
ホント、興味が尽きないですよねぇ・・・私なんかあっちこっちつまみ食いでどれも中途半端で困ってしまいます。^_^;
今日も早速図書館で本を借りて来たのですが・・・あ~こうして読むものはどんどん増えてゆく。(~_~)
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