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FIELD MUSEUM REVIEW

FM127 銅鐸のやま◇野洲 大岩山古墳群 2021/12/10 2021年12月10日

若倭根子日子大毘毘命[わかやまとねこひこおおびびのみこと]、のちに開化天皇と命名される存在。その御子の日子坐王[ひこいますのみこ]は、子は十一王をかぞえる。
そのうち、近つ淡海[あふみ]の御上[みかみ]の祝[はふり]がおまつりする、 天之御影神[あめのみかげのかみ]の女[むすめ]、 息長水依比売[おきながみづよりひめ]をめとってもうけた子は、 丹波比古多多須美知能宇斯王[たにはのひこたたすみちのうしのみこ]。つぎに水之穂真若王[みづほのまわかのみこ]。
この美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、近つ淡海[
あふみ]の安直[やすのあたひ]の祖。
(『古事記』より抜粋して私訳) (*1)

この近江の安(やす)氏が本拠とした地に野洲(やす)があるというのだが。

宮山二号墳は、銅鐸博物館こと野洲市歴史民俗博物館*の庭さきにある。(写真1枚目、滋賀県野洲市にて2021年12月10日撮影)

このあたりにあった大岩山という丘陵の斜面で、大型銅鐸があわせて24点みつかった。弥生時代後期(紀元後1-2世紀)につくられたもので、日本最大の銅鐸がふくまれている(高さ134.7cm、重さ45.47kg)。

その発見地のちかくに博物館がつくられた。1988年(昭和六十三年)野洲町立歴史民俗資料館として開館し、野洲市に移行してのち2008年(平成十六年)歴史民俗博物館に新装される。

銅鐸ははじめ1881年(明治十四年)に14点ほりだされ、とんで1962年(昭和三十七年)に9点が東海道新幹線の工事にともなう土砂採取中に発見された(のちさらに1点を確認)。大岩山銅鐸発見140年を記念する企画展が、銅鐸博物館でひらかれている(会期:2021年10月9日ー11月28日)。(*2)

銅鐸のはなしは奥がふかい。ここでは横穴の奥をのぞいてみよう。

宮山二号墳は円墳で、墳丘の直径約15m、高さ約3.5mある。横穴式石室の入口は南南西にひらいている。かつて南北にはしる尾根があって、その東側に位置するという。しかしその尾根なるものは、いまはない。この古墳も1962年の土取りにさいして発見されたのである。(写真2枚目、見出し写真もおなじ)

常時なかに進むことができる。

羨道(通りみち)のさきに一段天井がたかくなった玄室(棺をおくへや)がある。玄室は長さ3.3m、幅1.8m、高さ2.5mである。石室の天井石と奥壁の一部がうしなわれたので、1988年から1991年にかけて整備工事をおこなって石材をおぎない崩れかかった石壁をつみなおした。

玄室のなかに花崗岩の板石をくみあわせた棺がおかれていた。いま残るのは、棺の前後の木口石(横にむいた小さいほうの側板)のうち1枚と底石のみ。この写真(5枚目)にみえる奥の木口石がホンモノ(遺物)で、あとの側板は模造であろう。底石には側面の石をたてるための溝がほりこまれているという。六世紀末または七世紀はじめ頃の築造とみられ、大岩山古墳群のうち年代がもっとも新しい。(*3)

はいったら出たほうが無難でしょう。

大岩山古墳群の墳墓分布図。右下(東南)に銅鐸博物館と弥生の森歴史公園があり、その上(北)に宮山二号墳があります。いま見てきた円墳ですね。

元来の地形を誇張した模型。右が北ですから、御注意。元来のというのは、土取りして変形する以前という意味です。せっかくおつくりになったので旧中山道をいれてもらいたかった。

茶色にぬられているのが古墳である。右下(東北)のおおきな前方後円墳がその名も大塚山古墳。左(南)から中央にせりだす尾根が「大岩山」の正体で、その平地にいたる末端に三つの墳丘がある。そこにこれから行く。

べつの地図でたしかめる。これも右が北です。中央に上下(東西)にはしる国道8号、その右(北)に並行するまっすぐな線は東海道新幹線。

宮山二号墳の北、国道すぐわきに宮山一号墳があった。また大岩山の尾根上には、大岩山古墳と大岩山第二番山林古墳とがあった。銅鐸の出土地点は、その名に大岩山を冠するいまは亡き二つの古墳のあいだにある。

さきほど三つの墳丘と申した場所にきました。桜生(さくらばさま)史跡公園*といいます。古墳の一部が崩れたため1994年(平成六年)から発掘調査と保存整備をおこない桜生史跡公園として公開することになった、と1999年3月の案内板にあります。

公園の全体図をしめしますが、上のほうが北むきです。公園の北側、大岩山の丘陵末端をかすめて通る東西の道が、旧中山道(市道8号)である。桜生の地名は、かつての国土地理院の紙版地図には記載があったはずだが、いまのウェブ・データにはみあたらない。

公園の案内所のたてもの。その前にたっている案内板から、前掲の公園全体図と古墳分布図とを拝借しました。おなじく前掲の地勢模型とそれに関連する地図は、案内所うらの「学習広場」にあった設備です。

公園から北をみると、東海道新幹線の高架下をくぐるすき間ごしに平野部がのぞく。てまえの道路が旧中山道である。

案内所、学習広場のうらてに甲山(かぶとやま)古墳がある。

円墳で、直径約30m、高さ約10mである。

内部には西に開口する横穴式石室がある。


奥にむかってさがる羨道にすすむと、天井のセンサーに感応して玄室に照明がともる。玄室は入口からむかって左側に袖(へやの空間)をもち、長さ6.8m、幅2.8m、高さ3.3mの規模で、床面に玉石がしきつめられている。

玄室中央に安置された家形石棺。もとは真っ赤に塗られていたとおもわれる。長さ2.6m、幅1.6m、高さ約2mの刳抜(くりぬき)式石棺で、熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩と同源の石材でつくられている。(*4)

遺跡にともなう案内板(年次不明)。整備前は、玄室てまえの天井石が落下していて、内部に大量の土砂が堆積していた。また墳頂部も陥没し、墳丘盛土が流失しつつあったので、羨道の石組みを積みなおし、墳丘盛土を復元整備した。

解説は案内板の写真をかかげてお茶をにごそうとしたが、結局ほとんどひきうつすことになった。発掘調査による出土品については、案内板をごらんください。ただし--

「甲山古墳から出土したガラス小玉は、7,600点あります。そのうち緑色2,599点、黄色2,349点、淡青色2,197点、濃紺色424点、茶褐色31点です。」
石室内の「石棺には2つのガラス玉を残すのみで、そのほかは棺外の堆積土から見つけ出されました。」(*5)
築造が六世紀前半であるとすると、ガラスの国内生産はまだ始まっていない。朝鮮半島をへた舶来品とおぼしい。

つぎに行こう。天王山古墳は前方後円墳のはず。

封土に巨大な岩が・・・

墳丘の草刈り中。まだ正午にいたりませんが、草刈り機をほうりだした作業員はべんとうをひらいております。おしごとには段取りというものがありますからね、当局に言いつけるつもりはありません。

どうも絵にならないこと、おびただしい。左が後円部の墳丘、右の土手のうえにみえる標識は国道8号のものである。国土地理院地図によれば、このあたりに(おそらく国道の南側、すなわち道のむこう側に)標高110.7mの三角点がある。

刈りたての笹は足もとがすべる。のぼらない。

さきに進もう。

こちらが円山(まるやま)古墳。道案内も家形石棺の模型である。

円墳である。直径約28m、高さ約8mの墳丘のうえのほうに横穴式石室の入口がみえる。六世紀前半の築造とみられる。

石室は西側に入口をひらき、約6mの羨道は奥にむかって床面がくだり、天井石もひとつづつ階段状にひくくなる。

玄室は入口から奥にむかって左側に袖をもち、長さ4.3m、幅2.45m、高さ3.1mのひろさ、床に玉石がしきつめられている。

玄室の入口ちかく、刳抜(くりぬき)式の家形石棺がある。長さ2.85m、幅1.43m、高さ1.83mである。調査の結果、棺の蓋の縄かけ突起が、長辺部に2対だけでなく、短辺部に1対あることがわかった。また、その奥にもうひとつ組合せ式家形石棺がみつかった。奥壁にそって横むきにおかれている。

てまえの刳抜式家形石棺は、甲山古墳の家形石棺とおなじく、熊本県宇土半島産の阿蘇溶結凝灰岩でつくられている。いっぽう組合せ式家形石棺の石材は、二上山ドンズル峰凝灰岩である。(*6)

円山古墳の案内板(2001年3月)によれば、
「盗掘を受けてはいたものの、石室からは約10,000点のガラス玉、鉄製冠の立飾、銀製の耳飾などの装身具類、装飾をこらした刀類、鉄矛、鉄鏃、挂甲(けいこう、珪は誤字)などの武器や武具、馬具などが出土しました。」

さてガラス玉ですが、「円山古墳からは、7,649点のガラス小玉が出土しました。そのうち濃紺色2,321点、淡青色2,022点、黄緑色1,445点、黄色1,417点、紫褐色311点、赤褐色133点です。」
「赤褐色のガラス小玉は、石室奥の組合式石棺から出土したもので、その他のガラス小玉は石室全体に散らばっていました。」(*7)

円山古墳の墳頂から琵琶湖の方角をながめれば、このような展望がひらけるはずであった。右下に新幹線の列車がはしる。

いまどきのながめ。地表にうめこまれているのが展望写真である。

色づいた樹の右をみる。

おなじ樹の左をみる。

ふりむけば、かつて大岩山の丘陵があった南の方角である。

農協など企業の施設がたちならぶ。その左手のほうに銅鐸博物館の敷地がつづく。後方の山はさらに南方の妙光寺山、三上山へとつらなる。(*8)

墳丘をくだって。

公園の入口へともどる。

大岩山のあたりは花崗岩の風化した「真砂」の土壌で、土地造成の工事につかう土砂にふさわしかった。この花崗岩体は野洲市、竜王町、湖南市がたがいに接する地域に南北約10km、東西約8kmにわたってひろがる。白亜紀後期カンパニアン-マーストリヒティアン期(およそ8千万年前)の火山活動によって形成された。(*9)

銅鐸博物館の門前にたち、その東側を南北にはしる県道324号(希望が丘文化公園北線)を北にむいて、大岩山丘陵のなごりをもとめてみたが、むなしかった。(*10)
(大井 剛)

(*1) 『古事記』開化天皇(にあたる皇統)の条。とびとびに引く。神武天皇からはじめて第九代というので、遠い伝承のかなた。各地の氏族の祖先を歴代天皇の子孫に位置づけることにより、有力な氏族を天皇中心の統治にくみこむ手段の一例とみることができよう。
御上(みかみ)の祭祀とむすばれており、三上山の信仰との関係も注目される。

「若倭根子日子大毘毘命[わかやまとねこひこおおびびのみこと] ・・・
また丸邇臣[
わにのおみ]の祖、 日子國意祁都[ひこくにおけつのみこと]の妹、 意祁都比賣命[おけつひめのみこと]を娶して、生みませる御子、 日子坐王[ひこいますのみこ]。一柱。・・・
次日子坐王、・・・
また近つ淡海の御上[
みかみ]の祝[はふり]がもち拝[いつ]く、 天之御影[あめのみかげのかみ]の女、 息長水依比賣[おきながみづよりひめ]を娶して、生める子は、 丹波比古多多須美知能宇斯王[たにはのひこたたすみちのうしのみこ]。・・・
次に水之穂真若王[
みづほのまわかのみこ]。・・・
凡そ日子坐王の子、并せて十一王[
とをまりひとみこ]なり。
この美知能宇斯王の弟、水穂真若王は、近つ淡海の安直の祖。」

(*2) 大岩山銅鐸にかんする興味ぶかい話題が、つぎのウェブサイト記事に要領よくまとめられている。

サンライズ出版*(滋賀県彦根市) 情報誌 Duet vol.140
https://www.sunrise-pub.co.jp/duet-vol140/
「特集 大岩山銅鐸の形成 近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の成立と終焉」(推定2021年)
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)の企画展開催にあわせ、進藤武館長鈴木茂学芸員に取材。大岩山周辺の航空写真が3点あり(1949年、1961年、2010年)、銅鐸の出土地点が示されている。

同社 新撰 淡海木間攫[おうみこまざらえ]
其の八十五「大岩山銅鐸6号鐸(袈裟襷文銅鐸)」鈴木茂 (2021年カ)

公益財団法人滋賀県文化財保護協会*(滋賀県大津市)
http://shiga-bunkazai.jp/
平和堂旅行センター連携講座「ビワのWA!! 滋賀 ~近江文化財紀行~」
「新近江名所圖会」第21回「大岩山銅鐸出土地 -謎多き銅鐸大量埋納地-」
署名:鈴木康二 (2010年10月27日作成)

大岩山銅鐸とそのほかの滋賀県出土銅鐸・小銅鐸の一覧が、野洲市*のウェブサイトにある。

(*3) 博物館の前庭に設置された古墳群全体にわたる案内パネルによる。また宮山二号墳にともなう解説板(1991年3月、野洲町教育委員会)を参照した。

(*4) 「九州から運ばれてきた家形石棺 ~円山・甲山古墳の石棺材分析から~」『広報やす』野洲市、2007年12月、p.15. 歴史民俗博物館<歴史の小窓 -学芸員のメッセージ->39、署名:進藤武。

(*5) 「古墳時代のガラス小玉」『広報やす』No.130、野洲市*、2015年7月、p.23. 歴史民俗博物館<歴史の小窓 -学芸員のメッセージ->130、署名:徳網克己。

(*6) 前掲註(*4)記事。

(*7) 前掲註(*5)記事。

(*8) 田中山、旗振山の名がハイキング・コースにみえる。

(*9) 産業技術総合研究所*(産総研 AIST) 地質調査総合センター(GSJ) 地質図。

三上山と妙光寺山はジュラ紀中期・後期の付加体チャートからなり、かたい岩がとりのこされて平地のトンガリ山になったのである。

(*10) 江戸時代なかごろの『近江輿地志略』野洲郡、小篠原村の項に古墓の記述がある。
「小篠原[こじのはら]村  新町の南にある村也。」
「〔古墓〕 小篠原村の北に小山あり 今土取場となる。
土を大半取りたる大なる岩穴あり。
内に甲冑・太刀・薙刀・鑓等 其外武具多くこれあり。
然れども武具は朽腐して 金銀錺金札等今にあり 朱砂等もあり。
何れの人の墳墓といふ事をしらず。」

『近江輿地志略』膳所藩儒 寒川辰淸著、享保十九年三月。(1734年)
『校定頭註 近江輿地志略』小島捨市編、岐阜県安八郡大垣町:西濃印刷出版部、大正四年(1915年)十二月。引用は同書 p810 巻之六十八、野洲郡第三、小篠原村
(書誌 ⇒ FM109「三上山一周の巻 2020/02/10」2020年07月21日 へ)

小篠原、大篠原は現在もつかわれる地名である。『近江輿地志略』大正四年版は、上記「古墓」の条に頭注して「明治十四年大岩谷より大銅鐸十四口を発掘す」とつけくわえる。大岩谷とは削りとられて谷とみなされたものか。

(更新記録: 2021年11月10日起稿、2022年4月6日公開、4月8日修訂)

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