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FIELD MUSEUM REVIEW

FM149_S1 生き神の筆頭神官◇諏訪上社 神長官守矢史料館 2023年01月12日

諏訪社の生き神「大祝」(おおほうり < おほはふり)につかえる五官の筆頭が神長官(じんちょうかん)であった。この神職を中世から明治時代まで上社においてつとめたのが守矢家である。

守矢家のすまいは上社の前宮と本宮との中間に位置をしめる。

諏訪社は知られるように上社の本宮・前宮と下社の春宮・秋宮とにわかれている。
「中世にはそれぞれ大祝以下、五官(神長官-下社は武居祝、祢宜太夫、権祝、擬祝、副祝)と呼ばれる神官たちがいた。上社の神官たちは多くが前宮と本宮の中間に開けた扇状地に居館を構えていたが、戦国時代末~江戸初期にかけて大祝、祢宜、権祝が本宮周辺に移動した。その移動の理由、時期、移動前の居館位置などについては推定の域を出ない。」(*1)

守矢さんの表札にしたがい、おもて門をくぐる。
(大祝 ⇒ FM149「生き神のやしろ◇上諏訪温泉 諏訪市博物館」2022年11月25日 へ)

屋敷の背後にひろがる庭園ごしに、赤いやねの守矢家のたてものをみる。この坂をまっすぐ高みにむけて(写真撮影者の背後の方向に)延長すると守屋山(標高1650.6m)の山なみにつづく。そこは赤石山脈(南アルプス)の北のはてにあたる。守屋山は諏訪社の神体山である。

写真の遠景は、八ヶ岳連峰。
(写真はとくにことわらぬかぎり、長野県茅野市にて2023年1月12日撮影)

「みさく神」のやしろが、庭の斜面にある。この神は諏訪社の原始信仰のなごりで、もっぱら神長官のつかさどる祭祀であった。みさく神は「ミシャグヂ神」ともよばれる。(*2)

守矢家のやしきの地図(真下が北北東方向)。
門をはいり左手に守矢邸(②)、右に「神長官守矢史料館」*(③)がある。敷地の奥に「みさく神」境内(⑤)とその社叢がある。

茅野市の史跡に指定されたときの「神長官守矢邸跡」指定趣旨(2021年(令和三年)3月3日指定)が、案内板にしるされている。

「みさく神」とその社叢(茅野市天然記念物)の案内板。

史料館の展示室。奥のへやでは企画展「卯年の古文書」がひらかれていた。卯()の年次にかかわる文書をあつめた展示で、文書はたがいに内容の関連があるわけではない。(*3)

守矢家の古文書「守矢文書」は「県宝155点・茅野市指定文化財50点を含む総点数1618点」からなる。「諏訪神社の祭礼に関する古文書がほとんど」である。なかには「中世の信濃国の状況を克明に記録したものがあり」、「中世の古文書でもっとも多い史料として武田信玄の書状」がある。(*4)

御頭祭(おんとうさい)のささげもの。

「兎の串刺」。右は「焼皮」、左は「荒布[あらめ]」と説明がある。

「耳裂[みみさけ]の鹿」。「神の矛にかかったという」と説明されている。右耳(向って左側)の先に裂け目がみえる。

鯉であろうか。魚をみると、おちつきますね。

ならんでいるのは、煮て味つけした鹿や兎の肉。それから、鹿の肉と脳味噌の和えもの「脳和[のうあえ]」。

いつのころからか、鹿の頭を数多くそなえるようになった。その数が75頭分に落着する。

イノシシの頭もある。

右上の「サナギ鈴」は「ミシャグヂ神」の鈴。左は「御贄柱[おにえばしら]」。

「重藤弓[しげとうのゆみ]」と矢。「根曲太刀[ねまがりたち]」と、御贄柱の頂部に切りこみをつける「藤刀[ふじがたな]」。

諏訪社の原始祭祀が上社前宮でおこなわれる御頭祭である。これは旧暦三月の酉(とり)の日にとりおこなわれるので「酉のまつり」ともいわれる。現在は4月15日におこなわれている。

展示室の解説文によれば、「この展示は江戸時代中期の様子の一部で」あり、「天明四年(1784)三月六日に御頭祭を見聞した菅江真澄のスケッチをもとに復原した」ものである。御頭祭は「春先神前に七十五頭の鹿をはじめ魚・鳥・獣の肉を山のように盛り上げ酒を献じかがり火に照らされながら神と人が一体になって饗宴を催」した。

「守矢家について」の解説文はつぎのようである。(句読点がないので、空格をおいた)
ヤマト政権の「力が諏訪の地におよぶ以前からいた土着部族の族長で 洩矢神と呼ばれ 現在の守屋山を神の山としていた しかし出雲より進攻した建御名方命[
たけみなかたのかみ]に天龍川の戦に破れ 建御名方命を諏訪明神として祭り 自らは筆頭神官つまり神長[じんちょう](官)となった 中央勢力に敗れたものの 祭祀の実権を握り 守屋山に座します神の声を聴いたり 山から神を降ろしたりする力は 守矢氏のみが明治維新の時まで持ち続けた この史料館は そうした守矢家が伝えてきた古文書などの歴史資料を 七十八代守矢早苗氏より茅野市が寄託を受け 地域の文化発展に資するため建設された」と。

はじめて訪れた2017年3月31日のときに比べて、祭祀の復原展示におおきな変化はないようにみうけられた。(*5)

神長官守矢史料館の外観。見出し写真におなじ。

平成三年(1991年)開館。たてものの基本設計は藤森照信東京大学生産技術研究所助教授(当時)である。(*6)
「屋根に葺かれている石は上諏訪産の鉄平石である。石質は安山岩。高層屋根は宮城県雄勝産の天然スレート。軒はフランス産の天然スレート。」(*7)


たいせつなものを忘れてはならぬ。守矢邸の祈祷殿は茅野市文化財(1981年(昭和五十六年)3月31日指定)である。(写真は2017年3月31日撮影)

「神長官家の祈祷は一子相伝で、神長以外他の何人もたずさわるを許されず、神長が祈祷殿に籠って祈祷調伏した記録が『満実書留[まんじつかきとめ]』(守矢文書)に数多くみえて」いる(茅野市教育委員会による案内板、1983年(昭和五十八年)3月)。

「また、守矢頼真が後年、長坂筑後守に与えた書状には「殊更壬刁[みずのえとら]九月廿四日ニ御願書御越候 神長一人にて終夜御祈祷申候處其儘御祈祷相叶候」と記されてあり、これにより、神長守矢頼真が天文十一年(1542年)九月廿四日、武田晴信(信玄)のために祈祷殿に籠って戦勝祈願を行い、高遠頼継の率いる高遠勢の調伏があったことを裏付けている。」(同上)

祈祷殿は明治八年(1875年)にとりこわされた。明治二十年(1887年)に再建し、昭和五年(1930年)に改築して現在にいたる。(*8)

この日、2017年3月31日はつめたい雨がふったりやんだりしていた。 

朝もやにかすむ守屋山を上諏訪の立石公園からのぞむ。(2023年1月12日9時33分撮影)
(大井 剛)

(*1) 諏訪市博物館『常設展示ガイドブック』諏訪市博物館編、諏訪市教育委員会、1991年。pp.45-46. 「61 大祝、五官邸の移動」(資料提供:宮坂光昭氏)
この説明では、大祝を神官とみなしている。

上社の大祝、諏方氏は生き神(現人神 あらひとがみ)であり、神事をとりしきるのは五官であった。五官は神長官の守矢氏をはじめ、祢宜大夫(ねぎだいゆう)守屋氏、権祝(ごんのほうり)矢島氏、擬祝(ぎぼうり)伊藤氏、副祝(そえのほうり)長坂氏がいた。
(「茅野市神長官守矢史料館」パンフレットによる)

(*2) ミシャグヂ神(2017年3月31日撮影、以下本註の写真は同日撮影)。

ミシャグヂ神に付随する祠。

御柱(おんばしら)の耐震強度を計測する建築家 FA氏。こんにち氏は写真家に変身している。(FM126〈高槻 今城塚古墳〉;FM151〈川崎市立日本民家園〉参照)

(*3) 企画展「卯年の古文書」(会期:2023年1月4日-2月26日)の案内ちらし。




(*4) 茅野市* 文化財課ウェブサイト内「神長官守矢史料館」の「収蔵史料」欄による。
また「神長官守矢家文書目録」 PDFファイルがある。印刷物は売切れ。

(*5) 前回訪問時(2017年3月31日)の「御頭祭」復原展示のようす。今回、解説文の一部に修正がほどこされていた。(本註の写真は同日撮影)
鹿と猪の頭。

左から兎の肉、鹿の肉、「脳和[のうあえ]」、それぞれ模型。

菅江真澄(すがえ ますみ 1754-1829)のスケッチを写真パネル化した展示物。2023年1月の時点では撤去されていた。

参考までに新刊書から。

『菅江真澄 図絵の旅』菅江真澄、石井正己編・解説、KADOKAWA、2023年1月、角川ソフィア文庫。「87 諏訪の神事」pp.268-269. (粉本稿)

(*6) 前掲註(*3)茅野市ウェブサイト「神長官守矢史料館」の「建物」欄によれば、
「構造は鉄筋コンクリートの上に、壁体部分においては内外とも特別調合の壁土を塗り、床面は同様のタタキとし、さらに一部壁土の上にはさわら材手割り板をかぶせています。また、屋根には地元の「鉄平石」といわれる平石と天然スレートをのせています。正面入口の庇を貫く4本柱は地元産のイチイの樹を使っています。」

四本柱がなぜ軒をつきやぶっているのか、それは後掲註(*7)パンフレットをみれば、わかります。

(*7) 「茅野市神長官守矢史料館」パンフレット「守矢史料館のみどころ」より。文は藤森照信教授の由。

(*8) 「茅野市神長官守矢史料館」パンフレット「祈祷殿」による

(更新記録: 2023年1月12日起稿、1月24日公開、1月26日、1月30日、7月12日、9月6日修訂)

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