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FIELD MUSEUM REVIEW

FM107_01 イスラム教文明から西欧近代へ 2020/01/11 (Ⅰ) 2020年07月07日

彼 [カリフの侍医のひとり] はシリア語版を手にもち、私はギリシア語の方をもって、彼はシリア語訳を読みあげた。私はギリシア語版と食い違っている個所をみつけるたびに指摘し、彼は修正を加えた。
(フナイン・イブン・イスハーク)(*1)

ふたりがおのおの手にしている書物は、ローマ帝国時代のギリシアの医学者ガレーノスによる『治療法』である。6世紀にすでにシリア語に訳されていたこの本を改訳する作業について語るのは、フナインがてがみのかたちで書いた自伝である。
「だが、彼はこの方法は困難だと感じ、新しく訳しなおす方がよりはやく、よりよく、より一貫性があると考えて、これらの論文の翻訳を私に依頼した……。」(*2)
かくしてギリシア語の原典写本からじかにアラビア語に翻訳することになる。フナインさんは9世紀のひと、日本の歴史でいえば本州以南が平安時代にはいったころです。


「イスラーム文明と近代科学」と題する講演をきいた。2020年1月11日(土)午後、千葉県我孫子市の市民プラザ・ホールで、講師は塩尻和子筑波大学名誉教授、地元の「歴史サークルあびこ」の招聘による。予告された演題「イスラーム文明 ~近代文明の源流」から変りましたが、講師によれば内容に変更はなかったそうです。

講演の冒頭、半年ほどまえの新聞記事をとりあげて、というより槍玉にあげましたね。いまどきこんな時代おくれな話をいけしゃあしゃあとして、けしからんと。これは私の翻訳で、もちろんそんな伝法な口をきいたりなさいませんよ。終始おだやかに語りかけておいでになりました。

その新聞記事というのは、会場に配付された複写資料によれば、西ヨーロッパ近代文化の源流は古代ギリシア・ローマの古典にあるという趣旨です。これが、古代文化を「再発見」して「文芸復興」の新たな光をあてたのが「ルネサンス」だというはなしならば、耳たこものでしょう。かつては歴史の常識だったといってもよい。(*3)

しかし、それが暗黒の中世に古代ギリシア・ローマの光をあてて近代世界をもたらした15世紀ルネサンスという理解、19世紀にはやった歴史観であれば、20世紀を通りすぎて21世紀のいまどき通用しません。いわゆる「12世紀ルネサンス」のように、すでに中世のなかに近代の芽ばえをみいだすのが、こんにちの歴史の常識になっている。さすがにこのことを知らないまま歴史をかたるはずはない。

それではなにが問題なのかといえば、新聞記事にかかげられたヨーロッパ史の年表だ。紀元前8世紀のホメーロスから紀元後20世紀のレヴィ=ストロースまで文人学者がせいぞろいしているのはいいが、紀元前後のリウィウスと14世紀のペトラルカとのあいだに誰もいないこと。さらに年表の4世紀から14世紀までの空白をこえて、学統というか影響関係というか、古代の学者と近代の学者とが直接むすびついているようにみえること。この「歴史学からみた古典と近代の関係」をしめす図解年表は、西洋からの借りもののようです。(*4)

講師がいいたいのは、こういう筋みちである。古代ギリシア語の古典はアラビア語に翻訳され、それを吸収した「イスラーム文明」が発展した。そのイスラム教文明が生んだアラビア語文献がラテン語に翻訳され、ヨーロッパに伝わって近代科学への道をきりひらいた。要するに
  古代ギリシア文明 → 「イスラーム文明」 → 近代科学(文明)
であって、ヨーロッパは「イスラーム文明」からまなぶことによって近代を準備したのだ、ということ。具体的にいえば、年表の古代と近代のあいだに、「イスラーム文明」をいれなさい、と。

講演会場をうめた聴衆は(私もふくめて)一般人とみうけられ、招聘主体の勉強会はきっとインテリのメンバーなのでしょうけれど、どういう受けとりかたをしたのか、よくわからない。初耳なのか、常識の再確認なのか。おとしよりのことはおいといて、わかいひとのことをかんがえよう。大学をでて世のなかに慣れてきたころの社会人が、かつて高校生だった当時の世界史の教科書をのぞいてみる。「中世ヨーロッパ文化」の項の文章を一部ひく。

「中世ヨーロッパ世界はギリシア語文明圏とラテン語文明圏に二分される。しかも, 同じキリスト教を奉じながら, 東のギリシア正教と西のカトリックに分断されていた。それぞれが, イスラーム世界と同様に, 定められた信仰箇条の共有によってなりたつ世界であった。教会は生活に深くかかわり, 学芸や美術もキリスト教を離れてはありえなかった。

「古代ギリシアやローマの古典は, ビザンツ世界に継承され, やがてイスラーム世界もそれらを吸収した。これらの古典やアラビアの学術書は, シチリア島やイベリア半島のトレドなどを経由して, 西ヨーロッパに伝わりラテン語に翻訳されて広まった。このように西ヨーロッパの学問の発展には, ビザンツ文明やイスラーム文明の影響が大きく, この文化吸収は,「12世紀ルネサンス」とよばれる。」云々。(*5)

古代ギリシア・ローマとイスラム教世界とのあいだをつなぐビザンツ世界 (東ローマ) が、ギリシア語文明圏として登場しています。地中海のシチリア島、イベリア半島のトレド、いづれも当代イスラム教のアラビア語文明圏に属します。「イスラーム文明」の項に目を転ずると、勉学の指針があるぞ。

<深める>「古代ギリシア・ローマ文化のイスラーム文化圏への伝播について, 翻訳が行われた中心都市などに着目して調べなさい。そのうえで, これらの文化の関係について考えなさい。」(*6)

ギリシア語文化の中心地といえば、アレクサンドリアとかアンティオキアとか、かのネストリウス師もシリアの首都アンティオキア(いまのトルコ領アンタキヤ)で修行したのだっけ。「翻訳」ということになると、シリア教会の本拠地エデッサ(いまのトルコ領シャンル・ウルファ市)、ここでネストリウス派キリスト教徒がシリア語訳に従事した。そこの学校がビザンツ皇帝の命令で閉鎖されると(489年までに)、ササン朝ペルシアに亡命したひとびとがニシビス(いまのトルコ領ヌサイビン)に学校をたてた。ビザンツ皇帝がアテネのアカデメイアを廃止すると(529年)、宗匠たちは東へと去った。

うーん、185万分の1ツーリスト・マップにかろうじてみつかる小村まででてきた。もとの大道にもどらねば。塩尻講師の論旨から外れてはいないとはいえ、教科書の課題にこたえようとして、奥の細道にはいりこんでいないか。講演資料をみると、アカデメイアのひっこし先、ハッラーン(トルコ領シャンル・ウルファの東南)と、ジュンディー・シャープール(イラン南西部の遺跡)と、地名はふたつだけ。その遺跡の写真も紹介してくださった、ような気がする。ともかくギリシア語文化がどんどん東へ、いまのトルコからイランにかけて移動していったことがわかります。

ムハンマド(c570-632)のあと、正統カリフ時代(632-661)にササン朝をほろぼすと、イスラム教勢力はギリシア語文化の拠点をその統治下におさめた。つづくウマイヤ朝(661-750)、アッバース朝(750-1258)が、そうだ、大都市バグダードだ。教科書の問は教科書に答がある。

<ギリシア語からアラビア語へ>
「ギリシア語は, ヘレニズム時代とローマ帝国の時代を通して, シリアやエジプトなど東地中海世界の共通の文章語であった。古代メソポタミア文明や古代エジプト文明に発する学問や文芸は, ギリシア語で受けつがれてきていた。エジプトのアレクサンドリアとシリアのアンティオキアが, そのようなギリシア語の学術・文芸の中心地であった。7世紀のムスリムによる大征服は, そのようなシリアとエジプトをイスラーム世界に組みこんだ。

「ウマイヤ朝の時代から, 徴税台帳などの行政文書が, ギリシア語からアラビア語にかわりはじめていた。アッバース朝最盛期のカリフ, ハールーン=アッラシード(在位786-809)は, バグダードにギリシア語の文献を集めてアラビア語に翻訳する機関をつくり, 第7代マームーン(在位813-833)の時代になるとそれは「知恵の館」とよばれる機関に発展した。そこでは, 組織的, 網羅的に, ギリシア語の文献がアラビア語に翻訳された。ムスリムの学者は, ギリシア語による学問に, インドやイランの学問を融合させて, 哲学, 倫理学, 数学, 天文学, 錬金術(化学), 医学などを発展させた。たとえば数学では, ギリシアの数学にインド起源のゼロの概念が導入されて, 位取りをとって十進法に便利なアラビア数字がつくられた。フワーリズミー(c780-850)が数学者として知られる。哲学・倫理学では, イブン=シーナー(980-1037)(ラテン語名アヴィケンナ)がアリストテレスの著作をもとにイスラーム哲学を完成させ, イブン=ルシュド(1126-98)(ラテン語名アヴェロエス)はアリストテレスの高度な注釈を行った。この両者は, イスラーム世界の偉大な学者で, その著作がラテン語に翻訳され, ヨーロッパの学問の基礎を提供することになる。また, この両者は, 哲学だけではなく, ギリシアの医学を発展させたイスラーム医学の大家でもあった。イブン=シーナーは『医学典範』を著している。」(*7)

なんだか最後のほうは書きくたびれて、なげやり感がただよっている。気のせいかな。私が写しつかれたのか。数学者フワーリズミーの名まえから、計算の形式を意味するアルゴリズムという語ができた、なんて話題がつぎの検定教科書に採用されるかもしれない。すでに載っている可能性があるが、近十年のものは見ていません。(*補記1)

二十年以上まえの教科書であるが、三省堂の世界史にはおどろくべき記述がみられる。さきほど奥の細道なんていって本線にもどろうとした、まさにその細道をたどる探検記、せっかくだ、そっくりひきうつそう。見出し「主題学習」のもと、本文よりやや小ぶりな活字でくんだ囲み記事である。

<イスラム文化と異教徒>
「イスラム帝国の成立によって栄えたイスラム文化は, ムハンマドの言行やコーランを研究する法学や神学などの伝統的な学問(「固有の学問」)と, 医学・天文学・数学・哲学などの学問(「外来の学問」)に区別することができるが, とくに後者の分野で異文化の影響は著しかった。「外来の学問」の中でももっとも重要視されたのは医学で, アラビア医学もギリシア文化の吸収によって発展した。

「イスラム文化の発展を時代区分してみれば, アッバース朝の成立から約1世紀の間は翻訳の時代といわれる。なかでも9世紀前半, 啓蒙的カリフによってバグダードに建てられた「智恵の館」は, 学校・図書館・翻訳局などを総合したギリシア文化吸収の代表的な施設であった。ギリシア正教会によってビザンツ帝国から追放されたネストリウス派キリスト教徒が, 5~7世紀に西アジアでギリシア語の文献のシリア語訳を行っていたこともあって, 「智恵の館」では, これらキリスト教徒やユダヤ教徒によって医学や哲学などの文献がギリシア語, あるいはシリア語からアラビア語に翻訳されていった。アラビア医学の理論家として有名なイブン=シーナも, 16歳の時にキリスト教徒の医師から医学を学んだといわれている。また, 1220年, チンギス=ハンがサマルカンドを占領した際, その子トゥルイ(フビライ=ハンの父)の病気を診察し, 果汁に蜂蜜を加えて調整したシャーベットを薬として与えた医師もネストリウス派キリスト教徒であった。」
(*8)

そうです、
「ギリシア正教会によってビザンツ帝国から追放されたネストリウス派キリスト教徒が, 5~7世紀に西アジアでギリシア語の文献のシリア語訳を行っていた」
とか、
「「智恵の館」では, これらキリスト教徒やユダヤ教徒によって医学や哲学などの文献がギリシア語, あるいはシリア語からアラビア語に翻訳されていった」
とか。(*補記2)

イスラム教文明誕生の前後をつなぐ翻訳文化の輪。古代ギリシア文明とイスラム教文明とをつらぬく道のりは、さらに近代ヨーロッパ文明へとつづく。いま「近代ヨーロッパ文明」と書きましたが、塩尻講師も予告の題名に「近代文明の源流」をおつかいになりました。しかし、じっさいの講演では「近代科学」に変更されたのでした。それには、それなりの理由があるとおもいます。内容に即して、適合する表現をえらんだともいえるでしょう。そもそもイスラム教文明の世界史的意義に注目しはじめたのは、科学史の研究でした。この分野に突入するためには、気合いをいれなおさねばなりません。(*9)
(大井 剛)


(*1) 辻由美著『翻訳史のプロムナード』(みすず書房、1993年) 第二章「バグダードからトレドへ」p.62. 本書はフランス語への翻訳に焦点をあてている。第二章はその前史にあたる。

(*2) この箇所の注(8)によれば、つぎの事典項目に引用されたものを、さらに翻訳して引用している(同書 p.253)。この重訳孫引きを、私は曾孫引きしています。もとの辞典は未見。
Dictionary of Scientific Biography, American Council of Learned Societies. v. XV, 1978,《HUNAYN IBN ISHAQ》pp.237-238.

訳文に「彼は」「私は」「彼は」「私は」「彼は」とつづくが、二番目と三番目の「彼は」を「彼が」にさしかえると、ぎごちなさがいくらかやわらぐだろう。
つまり「彼 [カリフの侍医のひとり] はシリア語版を手にもち、私はギリシア語の方をもって、彼がシリア語訳を読みあげた。私はギリシア語版と食い違っている個所をみつけるたびに指摘し、彼が修正を加えた。」と。

(*3)『朝日新聞デジタル』asahi.com 2019年7月8日「(文化の扉) 西欧近代、古典が源流 古代ギリシャ・ローマの分析、多様な学問生む」
モノクローム印刷の配付資料の元になった朝日新聞ウェブ版はカラー画像であった。ここにお目にかけるには妨げがあるが、ウェブ上で検索をかけると
  モミッリャーノ ← [検索]
いまのところオリジナル記事が網にかかる。(2020年9月5日現在)

(*4)「歴史学からみた古典と近代の関係」編集協力:木庭顕、グラフィック:宮嶋章文。
この図解年表の元祖(?)が、イラストレーションから判断するに、アルナルド・モミッリャーノ(モミリアーノ)先生で、そえられた説明文によれば、
  Arnaldo Momigliano (1908~87)
  イタリア出身の歴史学者。ファシズム政権下でトリノ大学教授の職を追われ、
  英国に移住。ロンドン大学で教えた
のだそうです。しかし、どのていど図版の原形をとどめているかは、わかりません。
講演会の配付資料には図解年表に記事のでどころがついているだけで、本文がはぶかれていました。さしあたりの問題は4世紀と14世紀とのあいだの空白で、じっさい波線のすきまがあって、あたかも年表がひきちぎられたようにみえます。

(*5)『世界史 B』[2016年(平成二十八年)文部科学省検定済]
著作者:福井憲彦、太田信宏、加藤 玄、川島 真、高野太輔、佐川英治、本村凌二、山本秀行、角田展子、西浜吉治、東京書籍株式会社。編集協力者:太田竜一、西田 博。発行所:東京書籍。
「中世ヨーロッパ文化」(p.157)。引用は2017年版による。

(*6) 同書「イスラーム文明」(p.134)。

(*7) 同書「イスラーム文明」(p.134)。人名の生没年、在位年は、適宜おぎなったり、表示法を変えたりしたところがある。

(*8)『三省堂 世界史 B 改訂版』[1998年(平成十年)文部科学省検定済]
著作者:中屋健一、松 俊夫、栗原 純、株式会社三省堂。発行所:三省堂。
主題学習「イスラム文化と異教徒」(p.154)。引用は2001年(3版)による。

(*9) もうひとつ、気合いが必要な論点があります。塩尻講師が「なっとらん」(大井の翻訳による)とおしかりになった朝日新聞の記事のことです。
じつは新聞記事のために取材した日本人と記者とのやりとりが、同じ新聞社からでている雑誌『論座』に掲載されました。
  webronza.asahi.com 2019年10月17日「木庭顕氏に聞く 古典と近代の「複雑
  な関係」」
  木庭 顕(歴史学者、東京大学名誉教授); 聞き手:大内悟史(文化くらし報道部)
これとて短いものですが、記事の「真意」がすこしはわかります。それによれば、ひきあいにだした例のイタリア人学者の研究は、古典と近代の関係を史学史的に再考したものである。背景には古代ギリシア・ローマ(古典古代)にたいする見かたの根本的な変化がある。となると、近代人が古典をどう読んだかという問題に帰着するので(古代人が近代を考えるてだてはなさそうなので)、古典と近代があればとりあえず用がたりる。

図解年表「歴史学からみた古典と近代の関係」が「あんまりだ」というお怒りはごもっともですが、それにいかにも俗うけしそうな講演のまくらにもってこいの素材にはちがいありませんが、これを批判の対象として文章が書けるかどうかが岐れみち、そこに展開されているはずの議論にひとこともふれないまま年表だけを全否定してしまうとしたら、なんと申しましょうか、あと味がわるくはないだろうか。

そんなことより、年表にいぶかしい箇所があります。4世紀から14世紀まで空白があることが問題でしたが、その空白期をさして注釈がほどこされています。
  [古代末・中世] キリスト教神学にギリシャ以来の知的遺産を取り込む
推測にすぎませんが、なにか別のことを考えているのではありませんか、年表の作者は。「キリスト教は民衆のためのプラトニズムである」というくらいですから。

【写 真】
見出しと写真1枚目は、NHK教育TV の「ピタゴラスイッチ」から「NHK アルゴリズムたいそう&こうしん」いつもここから(山田一成、菊地秀規) [出演]、音楽 CD:ワーナーミュージックジャパン、2003年6月[発売]。
もとの TV 放送のなかで、アルゴリズムとは、きまった手順にしたがっておこなえばうまくいく、という意味だと説明している。計算の形式アルゴリズム algorithm と音の律動をいうリズム rhythm とをかけているのかは不明。語源もつづりも無関係であるはず。

写真2枚目は、ハムシの大好物バジル、画面の中央はコガネムシ。ハーブが人類の口になかなかとどかない。苗を買いもとめて植えたもの(横浜市港北区にて2020年7月5日撮影)。

【*補記1】 フワーリズミー、アラビア語の定冠詞アルをかぶせてアル・フワーリズミーはあだ名である。おくにはフワーリズム(ホラズム)というこころ、出身地から江戸っ子とか会津っぽとかいうのに通じる。漱石先生の坊っちゃん(名まえはさいごまで明かされない)は、山嵐(これもあだ名、ただし堀田という名があたえられる)に問われて、
 「君は一体どこの産だ」
 「おれは江戸つ子だ」
 「うん、江戸つ子か、道理で負け惜しみが強いと思つた」
 「君はどこだ」
 「僕は会津だ」
 「会津つぽか、強情な訳だ。......」
とかえしている(夏目漱石『坊つちやん』)。

ペルシア地方の産である数学者フワーリズミーでおもいだした。アラビア語とならぶ国際言語、中世ペルシア語である。文字資料のすくない遊牧種族モンゴルの歴史に不可缺の史料は、ペルシア語の『集史』であった。シリア語からペルシア語に翻訳されてイラン・イスラム文明(⇒ (Ⅱ) *補記3)に寄与した書物が、ペルシア語経由でさらにアラビア語に翻訳された流れをわすれていました。(2020年10月6日)

【*補記2】 日本語の専門論文をあげておく。海外の文献を多数参照している。
髙橋英海「「失われた環」としてのシリア語 -ダマスカスのニコラオス『アリストテレス哲学概要』シリア語訳を例に-」『東洋學報』東洋文庫和文紀要、第84巻第3号、2002年12月、pp.023-043.

「ギリシア語からアラビア語への翻訳は、多くの場合直接アラビア語に訳されたのではなく、シリア語(一部はパフラヴィー語)を経ての二重翻訳であった。さらに直接翻訳された場合でも、翻訳者の多くはシリア系のキリスト教徒であり、用語、用法などにしばしばシリア語の影響が認められる。このような中間段階としてのシリア語の役割があまり知られていない理由としては、シリア語訳の多くが伝残 [sic] しないということが大きく(このほかに世界的にシリア語に通じた研究者が少ないという事情もある)、その意味でシリア語を学問の伝播の過程における「失われた環」と呼ぶことができよう。」(同誌 p.023)
(2021年3月21日)

【*補注】 もとより用語「イスラム教」を使用していたが、キリスト教文化(文明)との対照という観点から「イスラム教文化(文明)」に用語を統一する。引用のさいは、塩尻講師の用語「イスラーム」「イスラーム文明」を温存し、「イスラム教」「イスラム教文明」などに書きかえていない。
年をおって教科書の記述をたどると、用語の変遷がみてとれる。おおむね「イスラム教」→「イスラム」→「イスラーム」と変更され、偏向してゆく。
(2023年7月10日追記)

(更新記録: 2020年7月7日起稿、9月6日公開、9月7日、9月13日、9月16日修訂、10月6日補記1、2021年3月21日補記2、8月8日写真註記修訂、10月22日、11月29日修訂、2023年7月10日修訂・補注、2024年1月12日修訂)

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