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FIELD MUSEUM REVIEW

FM110 非感染者:潔白を証明できるか 2020年07月28日

自分は「新型コロナウイルス感染症」にかかっていない、感染していない、非感染者だ、と証明できるか、というはなしです。

経済活動をはじめるにあたり、復旧であれ、新しいワーキング・スタイルであれ、非感染者の証明があれば活動しやすい、という声があがる。会社に来るなら「PCR 検査」の結果が「陰性」である証明書をもってこい、と命じられたといううわさもある。


本日は結論をさきに申しあげます。非感染者の証明は不可能である。

「PCR 検査」を徹底して経済活動のささえにしてもらいたいという要望がつよくなったとき、ある感染症の「専門家」は「かりに陰性とされても、その時点のことであって、その後に感染するかもしれないし」「証明書に明確な有効期限はない」と警告した。そりゃそうでしょう。

問題はそこではない。「PCR 検査」は検査した時点での感染を判定する。「専門家」によれば、PCR とはポリメラーゼ連鎖反応(Polymerase Chain Reaction)の頭文字で、ひとことでいえば特定の遺伝子をつかまえて増やして見えるようにする技術である。これに、根本的な問題がある。

「PCR 検査」は、といちいち言うのは、たださえめんどうなはなしが、ますますうっとうしくなるので、検査と略称する。検査した時点で感染しているかどうかがわかるとされる検査です。ほかに「抗原検査」とか「抗体検査」とかあるが、厚生労働省のウェブサイトで
  「新型コロナウイルス感染症に関する検査について」
なんか読んでみなさい、そもそもなにをするための検査なのかも書いてないよ。別のところをさがして読め、ということですか。知ることをあきらめさせて、思考の停止を推奨しているとしかおもえない。


FM102「無症状感染者とはなにか」(2020年5月16日起稿)かんがえたとき、智慧が足りなかった。うかつでしたよ。検査の結果をいちおう信じていたからです。検査結果の分類を復習してみよう。
  検査を実施した人
    検査の結果、陽性とされた
     (問題のウイルスを保有していると判定された) 人
    検査の結果、陰性とされた
     (ウイルスの保有が確認されなかった) 人 (*1)
このほかに想定されるのは、結果が明確でないばあい。厚生労働省が日々公表する統計では、
  PCR検査実施人数
  PCR検査陽性者数
  確認中 [の被検者の数]
であった。この統計から「無症状感染者」の人数はわかりません。のみならず「陰性者数」もわからないのでした。わざと隠しているようにも見えますが、ほんとうにわからないのでしょう。その意味では、日本の統計は正直です。

問題はどこにあるか。ある「専門家」によれば、その検査の「感度」が六割から七割ていどである。もし正解率が六、七割だとすると、単純に計算して、しらべたうちの三分の一は「すかたん」だったということですね。

ねんのため検査結果の分類を整理しよう。
  A 検査を実施した人
  B   検査の結果、問題のウイルスを保有していると判定された
      (陽性とされた) 人
  C     陽性とされたが、じつはウイルスをもっていない人
        (「偽陽性」とよぶ)
  D   検査の結果、ウイルスの保有が確認されなかった
      (陰性とされた) 人
  E     陰性とされたが、じつはウイルスをもっている人
        (「偽陰性とよぶ」)
  F   検査結果が明確でない人

このなかみをみると、陽性の結果(B)はほぼ信用できる。ときにはミスがあるとしても。しかし、陰性とされた結果(D)のなかに、ほんとうは陽性かもしれないケースが多数あるはずである(E)。これを「偽陰性」とよぶ。体内にウイルスがいても検査でつかまらない。本人が意図してかくしているわけではなかろう。それでも検査にひっかからない事情がいろいろあるらしい。こういうことは今回の流行病にかぎったことではない。いままでのインフルエンザでも、おなじことだった。つまり、陰性の結果はにわかに信じられないということ。

くりかえす。
「陽性」のひと=感染者である、これは「ほとんど」まちがいない。
「陰性」のひと=非感染者とはかぎらない。
陰性者数のうち、陽性者数の二分の一くらいに相当する人数=じつは「陽性」だった人数である。

しろうと考えだから、「専門家」にいわせれば、ちがうかもしれない。国語の問題もあるし、算数の問題もある。「専門家」どうしの意見のくいちがいもある。(*2)

しかし「陰性」とされたが「陽性」かもしれないひとがいっぱいいることだけは、たしからしい。(*3)

マスメディアにでてくる「専門家」は、根本問題に口をとざしている。口をだす「専門家」を、メディアがださない。誰が責任をとるのか。

あてずっぽうに歩いていくと、ささやかな発見がある。高架をはしる東海道新幹線の路線わき、ひきこんだ鉄路にゆきあたった(写真1枚目、横浜市神奈川区にて2020年7月5日撮影)。はたらく電車がやすんでいる(写真2枚目)。
(大井 剛)

(*1) 陽性にたいして陰性というから、なんとなく陰性のしるしがついたようにきこえる。よくかんがえると(ことば本来の意味からしても)陽性の反応がでなかったというにすぎない。そこから先はワカラナイのである。

(*2) ひとくちに専門家といっても、さまざまな向きの専門家がいる。ウイルスそのものを研究する専門家もいれば、ウイルスがどのように伝わるのか追究する専門家、不幸にしてウイルスをとりこんでしまった人をすくう専門家、そうなるまえにウイルスをどうやって防ぐか対策を講ずる専門家、ふつうの人びとがやまいのことをどう考え、どんな行動をおこすかしらべる専門家、ウイルスや感染症についてどうやって教えたらよいか教えてくれる専門家もいる。その道の専門家はおのれの行きさきに詳しいかもしれないが、岐れ路のさきがどうなっているか知っているとはかぎらない。そのことを責めているのではありません。分野の専門性があるからこそ、専門家というのです。
 情報学や社会学の専門家が意見をのべる機会が多いような気がするが、自然現象や科学技術にうといひともすくなからず見うけられるから、発言は話半分にきいておいたほうが賢明かもしれない。

(*3) だからなんなんだ、と問われれば、偽陰性=かくれ陽性かもしれない(そうときまったわけではないけれど)とおもえば、おのづから行動が慎重になるでしょう。ひとにうつすかもしれないから。かりに感染していても自覚がないていどであれば、ほうっておいてもそれこそ自然になおるでしょう。そういうものらしい。

(更新記録: 2020年7月28日起稿、8月1日公開、8月11日修訂)

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