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FIELD MUSEUM REVIEW

FM138 ひるがみのまもりがみ◇阿智神社 奥宮 前宮 2022年05月27日

信濃国の駅馬  阿知 [の駅] は [馬] 三十疋。
 育良、賢錐、宮田、深沢、覚志は各十疋。錦織、浦野は各十五疋。
 曰理、清水は各十疋。長倉は十五疋。麻続、曰理、多古、沼辺は各五疋。
伝馬  伊那郡は十疋。諏波、筑摩、小県、佐久郡は各五疋。
(『延喜式』)(*1)

信濃から美濃へ国ざかいをこえる東山道の信濃坂、その信濃側の駅(うまや)が阿智(阿知)である。平安時代、とうげ越えの難所であるという理由で、駅にあてた馬の頭数がほかの駅より格段に多い。

阿智の宿駅のあたりには古くから「ひるがみ」という地名がある。谷間の川にそう道すじには、いま昼神温泉の旅館がたちならぶ。
(東山道 神坂峠 ⇒ FM137「東山道の最難関◇信濃坂 神坂峠」2022年05月27日 へ)
(
ひるがみ ⇒ FM059 ひるがみ護身術◇阿智村 昼神温泉 2015/05/06」2022年09月25日 へ)
(
信濃坂 ⇒ FM059_S1_01;02「神坂峠は信濃坂か◇ヤマトタケルの物語 (Ⅰ) (Ⅱ)」2022年09月26日 へ)

清内路から流れくだる黒川(阿智川)が、西からの本谷川とであい阿智川となる、その合流地点に阿智神社の奥宮がある。昼神温泉の旅館街からは阿智川にそって1kmほどさかのぼる。

社殿の前面に舞台があり、祭事に舞が奉納される。

奥宮社殿の正面である。

社殿から一段高くなった丘のうえに、古くからの祭祀場がある。

祭祀場を横からみたところ。

おなじ祭祀場を正面からみたところ。

まつられているのは大きな石である。

石のそばに太い木がはえてしまった。

阿智村観光協会がたてた案内板によれば(1990年10月設置)、
「延喜式内社 阿智神社奥宮
 この丘陵は昼神に祭られている阿智神社の奥宮です。
 昔から村人は「山王[
さんのう]さま」と親しみをこめて呼び、小丘を阿智族の祖 天表春命[あめのうわはるのみこと]の墳墓「河合[かわあい]の陵[みささぎ]」と名づけて
信仰を集めてきました。
 丘の頂、玉垣に囲まれた巨石は磐座[
いわくら]であると云われてきました。
 このごろこの巨石を囲む遺構が発見され、いよいよ磐座であることが確かになりました。
 磐座とは古代の祭祀場において神霊が降りてきて鎮座したところです。[
下略]」

このあと『先代旧事本紀』を引いたり記紀神話に結びつけたりする。(*2)

二つの川の合流する、その又にあるから「かわあい」(河合、川合)というのである。

新発見の遺構というのが思わせぶりだが、磐座のまえにたつ説明板を写真でしめす。ここにいう元宮とは、奥宮をさす。
「[前略
 この磐座は東西南北を指し、冬至の日の太陽は磐座の東側先端の延長線、南より下りる網掛山と北より流れる清内路山の稜線との接点より静かに昇っていくのを拝することが出来る。」

ここで「下り」たり「流れ」たりしているのは山の稜線です。ふたつの山の、それぞれの山の端が交わる、いちばんくぼんだ位置から冬至の日がのぼるというわけです。(*3)


ひといきいれましょう。

昼神温泉の旅館街から阿智川にそって1kmほどくだると、北から流れくだる梨子野川(なしのがわ)と合流するところの平地に昼神の集落がある。

国道256号の北東側、山すそにとりついた台地のうえに阿智神社の前宮がある。うら参道の入口にたつと、網掛山(標高1133.2m)が南西にすがたをみせる。

奥宮磐座の説明板にあった清内路山とは、国土地理院地図に梨子野山(なしのやま)(1314.9m)とある山をいうのであろうか。

うら参道にふみいる。

清流をわたる。

阿智神社の前宮。南面している。北西、すなわち奥宮の方角をおがむ向きは、社殿にむかって左手にあたる。

阿吽の狛犬は、昭和六十二年(1987年)十一月の建立。

前宮の社殿である。

前宮社殿の正面である。(*4)
(大井 剛)

(*1) 阿知(阿智)駅の駅馬について。
『延喜式』兵部省、諸国駅伝馬、東山道
信濃国駅馬
 阿知卅疋。
 育良、賢錐、宮田、深沢、覚志各十疋。
 錦織、浦野各十五疋。
 曰理、清水各十疋。
 長倉十五疋。
 麻続、曰理、多古、沼辺各五疋。
伝馬
 伊那郡十疋。
 諏波、筑摩、小県、佐久郡各五疋。

(*2) 阿智神社の祭神について。
『阿智村誌』上巻、阿智村誌編集委員会編、阿智村誌刊行委員会、1984年。
第一章「古代」、三 神社、1 阿智神社。同誌 pp.318-329.
一部をとびとびに引く。漢数字をアラビア数字にあらためたところがある。

「阿智神社創立の時期は尋ねる由もないが、平安時代の延喜式神名帳に、信濃国四十八座中伊那ノ郡二座として大山田神社(下条村)と共に載せられており、伊那郡式内社の一つであったことがわかる。つまり延喜式が撰上された平安中期の延長五年(927)にこの神社がすでに存在したのだから、その創始は延長を溯逆上る古い時代のものであることがわかる。
「祭神は天思兼命[あめのおもいかねのみこと]とその御子天表春命[あめのうわはるのみこと]である。」(p.318)

「前宮の祭神は思兼命を主とし表春命を配し、外に建御名方命を相殿に祀る。」(p.320)

「[奥宮の] 祭神は前宮と同じく思兼命・表春命二神であるが、明治以前には大山喰[おおやまくい]命(山王権現)・建御名方命・誉田別命を合祀してあった。」(p.321)

(*3) 磐座とみられる大石について。
『阿智村誌』上巻、第一章「古代」、三 神社、1 阿智神社、「山王権現と阿智神社」の一部を引く。漢数字をアラビア数字にあらためた。

「[前略] 河合陵と呼ばれる小丘上の小暗きまでに茂りあう樹木の間に苔むした巨石がある。上面は平らかで長さ2.3m、巾1.65m、高さ北面において1.93m南面において0.56mある。
「昭和三十二年九月二十七日大場磐雄博士がこの神社を調査された時、この巨石は磐座[いわくら]に相違ないと証言された。
「古代人はそそり立つ巨巌に畏圧を感じてそれを崇敬の標的とする。この磐座は人間が楽に座り得られるほどの大石で、神の御座または霊代とし、あるいは祭壇とするのである。[後略]」(pp.325-326)

大場磐雄(おおば いわお 1899-1975)は考古学者、國學院大學教授。
同『楽石雑筆』巻三十九に阿智神社の河合陵について記録がある。
「自然の丘陵なれど巨岩ありて磐座様(よう)のものを認む。」

(*4) 阿智神社については下記項目参照。
(阿智神社 ⇒ FM059「ひるがみ護身術◇阿智村 昼神温泉 2015/05/06」2022年09月25日 へ)

【原稿】 東京成徳大学人文学部観光文化学科ウェブサイトに「フィールドミュージアムにすすめ 059 昼神温泉の巻」2015年05月06日付として掲載を予定したが、未公開であった。その内容の一部をうけて、あらたに取材起稿したものである。

(更新記録: 2022年5月27日起稿、9月11日公開、9月12日補訂、10月10日修訂、2023年5月16日註1、2、3補記)

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