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性と法律──変わったこと、変えたいこと

角田由紀子,2013,性と法律──変わったこと、変えたいこと,岩波書店.(8.13.24)

DV防止法、児童虐待防止法、セクハラに関する規定など、近年、当事者側の声から生まれた法律等がある一方、民法、刑法、売春防止法等は、長年、変わっていない。離婚、親権、賃金差別、性暴力…四〇年近く弁護士としてさまざまなケースに携わってきた著者が、性をめぐる法の問題点を明らかにし、未来に向けて提言する。

 弁護士としての経験と、数多くの判例にもとづき、性差別、性暴力における被害者の人権擁護の問題、現行の法制度の問題点を考察する。

 職場での性差別の残存は、日本の経済社会の活力低迷、その一因である。

 性差別に基づいた雇用策は、実際のところ会社に利益になるのだろうか。金銭の点だけを見れば、少ない支払いですませたのだから、得をしたことになる。しかし、兼松事件に現れているように男女が協力して仕事をするシステムが本当にその力を発揮するには、不正が組み込まれた方法ではうまくいかないのではないかと思う。
人が差別されるということは、人としての尊厳を否定されるということだ。自己評価を低下させ、やる気を失わせ、持てる力を発揮することもできなくさせられる。従業員をそのような状況に追い込むことと引き換えに、会社は限りなく儲けたいとするならば、日本経済の低迷の原因は実はここにあるのではないかというのは、いいすぎではないだろう。
 I章でも紹介したように、二〇一三年、日本は世界ジェンダー格差指数が一三五カ国中一〇五位であった。この評価は、経済的平等(経済的活動への参加と機会)を含む主要な四分野でおこなわれる。経済的平等では日本は一〇四位であり、二〇一二年は一〇二位であった。政治にいたっては一一八位であり、二〇一二年は一一〇位であった。この数字により、日本経済の立て直しには、男女平等の達成を、女性の活用を、という助言がたびたび海外からなされている。女性の活用が日本経済を救うと本当に考えるのであれば、女性をきちんと正しく評価する仕組みなしには、女性が力を発揮することは期待できないのではないだろうか。今までのような
「日本式」女性の待遇では、日本経済を活性化することはむずかしいと思う。
(pp.128-129)

 売買春についての角田さんの見解については、わたしも全面的に賛成だ。

 歴史的に見ても、性産業で働く女性は、社会的にも低い地位に置かれ、さげすまれてきた。一部には文字通り、高級コールガールとでも呼ばれる存在がある。しかし、性産業の多くの女性はそのような存在ではない。
 婚姻生活の中での公認された生殖の性は称揚されるが、婚姻外の性に関わった女性(とりわけ性産業で働く人)はなぜ、貶められるのか。一人の男性はこの両方を手にすることが容易にできるが、そのことへのお咎めはあまりない。貶める対象の女性と接触する男性は穢れることはないが、性産業で働く女性は初めから穢れているとされるのはなぜだろう。穢れたものに接触すると、その人も穢れるとふつうは考えられているのではないか。だから、穢れたものには近づくなと注意されるのではないか。性産業に関わる女性のスティグマは、結局きわめて人為的なものである。
 穢れた存在とされた女性は、その仕事が合法であるか否かには関係ない。そのため、合法化された国でも、そのことによってスティグマがなくなったわけではない。
 一方、客は、売買春が禁じられている国であっても社会から貶められるような扱いは、されなかったし、今もされないだろう。買う側の男性は、時に自分の男性性を誇示するために、商業的な性行為に関与したことを吹聴する。大人の女性を買春したことが明らかになるとき(児童相手はいうまでもなく犯罪である)、多くの男性はスティグマを心配しないであろう。男性は、今でもグループで風俗店に繰り出すことができる。一つの行為をめぐる男女の当事者と社会のこの正反対の反応は、何を示していると理解すればよいのだろうか。
 女性と男性は、売る側と買う側として、多くの場合、互換性がない。男性の女性向けの性的サービス業はあるが、売る側は圧倒的に女性であるのはなぜだろう。なぜ、性的快楽の購入者の大部分は男性なのだろうか。男性は買うためのお金をもっているのに、女性は持っていない。女性は、男性の払うお金を必要としている。この構造は生理的なものではない。つまり、私たちの社会の作られた男女のありようの反映でしかない。
 現在では、性交および性交類似行為は人間の尊厳にかかわると考えられている。わたしたちは、私的な場面での自由が保障された自律的な性行為に、人間であることの意味を見出しているからだ。売り買いの対象とすることが、その本来的あり方に反すると考えているからだ。
 売春も合法とするのか、性交類似行為も禁止するのか、選択肢は二つしかない。選択の基準は、人間の尊厳を、性行為を切り口にしてどう考えるかということだ。貧困の結果、商業的な性行為によるしか、生存の道がない女性にとって、それに従事することは、結局は「望んだ行為」であり、活き活きと生きることになるのだろうか。むしろ、禁止したうえで別の生きる手段を提供することを、社会に義務づけるべきではないか。合法化することは、このような女性の生活手段として性産業への従事を認めることである。たとえば、生活保護の申請をしようとするとき、性産業で働けという「助言」が窓口の担当者からされることがないのかと心配になる。かつて、このような内容が、多重債務者への暴力団の脅迫文言でもあったことが思い出される。
 婦人保護施設の実態などを見れば、性産業で働かされることは人間の尊厳への挑戦と考えるしかない。人間には金銭での売り買いをしてはいけないものがあると、わたしは考えている。このことは、人生観の違い、人権意識の違いといってしまえば、そうかもしれない。生身の人間を使っての性的快楽も売り買いの対象とする社会を、人間が尊重されている社会と見るのかどうかという問題でもある。わたしたちが、性交および性交類似行為が売買される社会やそこでの人々の関係を望ましいと考えるかどうかということである。
(pp.251-253)

 法律実務家の経験から、説得力溢れる議論が展開されており、かつ読みやすい。
 お薦め、である。

1 結婚、離婚と子ども
2 ドメスティック・バイオレンス
3 女性が働くとき
4 性暴力
5 セクシュアル・ハラスメント
6 売買春と法


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