eu-balance〜インナーチャイルド・フラワーエッセンスセラピー〜

インナーチャイルドの勘違いを紐解き、自分の本質と軸を取り戻して、喜び溢れる生き方へのシフトをお手伝い

最後のメッセージは『家族愛』

2019年11月25日 | 介護・認知症
SNSで繋がっている方には、山ばっかり登っていてこの人何しているんだろう、
って思われてそうですが、ここ半年ほど水面下では怒涛の日々でした。

まず、8月に7年勤めた会社を退職。辞める時点でその先の予定は何も立っていなかったのですが、
何か辞めなければならない、という衝動にかられ、、、直感というのでしょうか。
後から思うと本当にベストなタイミングで退職したなと思いますが、
8月は旅行三昧で帰京してきた月末に父の一周忌を終えた直後に、母が誤嚥性肺炎に。

認知症が始まったのが正確にいつか、もうもはや分からないですが、
父と正反対の介護ニーズを持つ母の認知症介護が始まり、
全身麻痺の父とのダブル介護で、私も一時期は本当に疲弊して、、、
(こんなブログも書いてました…『親が認知症になったら』
よく乗り越えたなって今は思いますが、最後は取り付く島もなくあっという間に逝ってしまった父と違った、
母の看取りという経験をすることになりました。

医師の親友も色々聞いてくれて、拘束しない医療をしてくれる病院に入院という選択肢もなくはなかったですが、、、

(認知症の人が入院すると本当に見ているのも辛いような拘束状態で治療されることもあり、
それを以前経験していたので、それだけはどうしてもできないと強く思っていたのです)

誤嚥性肺炎はそもそも嚥下機能の低下で起きていること。

すでに吸引がときどき必要な状態になっていた母の肺炎を一時的に治したところで、
また同じことの繰り返しになることは火を見るよりも明らかでした。

しかも、入院が施設より遠い場所で、更に長期化してしまえば私もいつまで付き添ってあげられるか分かりません。

元々病院嫌いで、ハーブやアロマなどの自然療法の種を私に植え付けたのは母です。
その母が無理な延命治療など、ましてや管に繋がれたまま最期を迎えることなど望んでいるはずがない・・・

元気だった頃の母の意思を尊重し、住み慣れた老人ホームでの看取りを選択し、
涙を流しながら看取り同意書にサインをしました。

しかし、この治療を選択しない、という選択のプロセスはそれが本人にとって、
そして家族にとって納得できるベストだと分かっていても、本当に辛かった。

決めてからも数日間、横で付き添いながらずっとずっと、
『まだ病院に送ったらなんとかなるんじゃないか』という思いが横切り、
顔が変わってしまいそうなくらい泣いていました。

最初は話しかけると反応があって、色々質問すると頷いたりしてくれていたのですが、
それでも『食べたい?飲みたい?』と聞くと、口を真一文字に結んでうんともすんとも言ってくれません。
母も自分の旅立ちのタイミングを、もう分かっていて、
無理はしたくないのだなと本能的に感じました。

そして、日毎に食べられる量、水分摂取量が減っていき、、、
母の肉体が死に向かっていることは、不可逆だとようやく腑に落ちた日、
母が見たいのは私の泣き顔ではなく、笑顔のはず、と気を取り直し、
いつものように話し掛けたりできるようになりました。

もういつまでそこにいてくれるか分からない母の手を握って、
横で話しかけたり本を読んだり、ただただ静かに母との時間を過ごし、寄り添っていました。

※その時読んでいたこの本が、気持ちを落ち着かせてくれました↓
「平穏死」のすすめ 口から食べられなくなったらどうしますか (講談社文庫)

友人がくれたこの本も…
普及版 モリー先生との火曜日

もう何日もほとんど水も飲めず、目からもどんどん光が奪われていくような母でしたが、
ちょっと作業をしようと、繋いでいる手を離そうとすると、きゅきゅっと握り返してくるのです。

幼稚園に通うとき、いつも繋いでいた母の手。。。いつも温かかった母の手。。。

もう随分痩せ細ってしまっていたけど、変わらず母の温かい手でした。

肺炎を患っていただけに、息遣いも荒かったけど、
何か出産シーンを見ているようで、生と死が行き交う場面の神秘を感じました。



私はこの母から生まれてきた

母の魂の旅立ちを見守ろう



母の兄弟が集まってくれることになっていたその日の朝、
一番遠方のおじが家を出る直前に母は静かに息を引き取りました。

まるで『もうまたすぐ集まるんだから、二度も来なくていいよ』という気遣いかのように。。。

母が息を引き取ったその日、母がずっと手入れをしていたボランティアの花壇で咲き始めた、アメジストセージ。


花言葉を調べてみたら『家族愛』でした。
いつも家族を優先して、小さい頃は手作りのお菓子がほとんど、服も沢山作ってくれていた、そして花が大好きだった母らしいメッセージ。

もう最後に私の名前を呼んでくれたのがいつだったかも覚えていないほど、
最近は会話もあまりまともに成り立たなくなってしまっていて、
母とは長い長い時間を掛けて、ゆっくりお別れをしているのだと思っていました。

だから覚悟はできているし、心の準備もできているだろうと。

だけど、実際は想像以上の、全身で感じるかのような感情的体験でした。
もう介護時代のあれこれや、いろんな思い出が、
いいことも悪いことも走馬灯のように思い出されて、感情が吹き出し、葬儀が終わるまで、毎日泣いていました。

要望や主張がはっきりしていて、その要望を打ち返せるだけ打ち返しておけば良かった父の介護。
認知症介護はそもそも本人の意思表示を汲み取るのがなかなか難しい。。。
父の介護はやりきった達成感すら感じていましたが、母の介護に関しては、
何かもっと違う風にできたのではないか、そんな思いも渦巻いていたのだと思います。

でも葬儀に母の古いお友達が何人も来てくださり、長い間会えていなかった親戚もいろんな話を聞かせてくれ…

母の人生も晩年は大変だったけど、若い頃は登山や旅行も沢山して、楽しいことも一杯あったこと。




あんなに『私は自信がない』と言っていた母が、学級委員みたいなことをよくやっていたこと。


建築士としてある意味キャリアウーマンの先駆けだったこと。


私を凄く頼りにしてくれていたこと。


そして何より本当に愛して育ててくれたこと。



黒かったオセロのピースがカタカタと白いピースにひっくり返っていくかのように、母と母の人生に対するイメージが変容していきました。

占星術で死と変容、ヒーリングは全部同じ部屋に象徴されているのが、これほど腑に落ちた経験もありません。

母の死を以ってしか知り得なかったこと、私が癒やされなかったこと、沢山あって、
側で時間を掛けて看取らせてくれたことに今では心の奥底から感謝です。

そして、喪失って、寂しいけれど、結局自分がどれだけ愛されたり享受していたかを実感するプロセスなんだなと。
だから、結局は何も失っていない。むしろ、より深く愛を認識させられた気がします。





これからご両親が認知症になる可能性がある方も、既になっている方もいるかもしれませんが、

介護欝から看取りまですべて経験してみた私の個人的見解では、
認知症は本人が選んだ『店仕舞の仕方』なんじゃないかなと思っています。

周りは是非、良い悪い、正しい正しくない、というジャッジを捨てて、
ありのままのその方を感じて接した方が上手くいくのじゃないかなと、、、
というか、それが周りの人にとってのレッスンなんじゃないかと思います。

だから、もし認知症の人が現れたら、
躍起になって正そうとか、治そうとかする前に、まずご自身のあり方に目を向けてみてください。

いや、過去の私がそれを出来たかは分かりません(笑)
でも今なら絶対その方がお互い楽になると言えます。

このことはまたもう少し折を見て書いていきたいなと思っていますが、
世の中に左脳でジャッジする人が増えれば増えるほど、認知症は増えていくんじゃないかと思っています。
陰陽は常に半々ですからね。
迷ったときは是非ハートと愛で選択して欲しいと思います。

そんなこんなですが、実は不思議なご縁で来月からフルタイムの仕事も決まり、
サロンやセッションのやり方も以前のままというのは違和感を感じているので、
現状のサロンは一旦閉じることになりそうです。

ただ、自分の介護経験を参考にして下さる方もいるようなので、これからは発信しつつ、違った形で活動できればと思ってます。

父と母の死を通して、自然界のタイミングの完璧さに、人のマインドのちっぽけさを思い知らされた感覚があり、、、
最近あまり左脳に偏らずに、直感で行動してみよう!という感じでやってますが、意外とその方が上手くいく気がしています。

常に自然との繋がりを意識させてくれた母。
自分も大いなる自然の一部でしかない…自分の気持ちと直感に素直に寄り添っていれば、そこに答えはあるはず…
ということで、最近は自分軸にいかに集中するかがテーマです。

ママ、沢山の愛と学びをありがとう。
パパと正反対の生き方、逝き方を見せて、私の幅を広げてくれてありがとう。
あなたの娘でよかった。
最後のママの清流のような澄んだエネルギーを私はいつも心の中に大切にとっておきます。

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〜Adios Papa Mia〜パパ、ありがとう

2018年10月14日 | 介護・認知症

【パパ、おつかれさま&また会う日まで】 

父が8月末にこの世を去りました。介護ネタで散々登場していたので、四十九日が終わり、ご報告がてら綴ってみました。

長文なので、ご興味ある方のみ読んでいただければ幸いです生前の交誼に感謝申し上げます。

また、介護ネタはこれから介護に関わる方に役立てていただけるよう、追って少しずつ上げていこうと思います。

8月の終わりの晴れた朝、父が旅立っていった。

老人ホームの金魚すくいで24匹金魚をすくって一位になった、わずか5日後。

強靭な意志でどんなときも諦めないことが力を生み出すことをずっと見せてくれていた人の最期は、あまりにあっさりしていて、清々しいほどだった。 

 

 

戦前に生まれ、戦中は祖父の仕事の関係で青島に。ドイツ人が設計した美しい家に住んだことがきっかけとなって、建築家を目指したらしい。

 

 

戦争が終わるころ、戦火を逃れながら北朝鮮を通って、最後の引揚船の一つに乗って、命からがら日本に戻ったものの、疎開先の秋田ではあまりいい思い出がなかったらしい。家族が秋田に連れて行かれたことは一度もなかった。

 

終戦後、東京に戻ってからは、闇市にヤミ米を買いに行き、見つからないようにザックの内側にじゃがいもを敷き詰めて、その内側に米を詰めた話や、

高校時代大工仕事が趣味で、鉋を使いこなして自宅の離れを建てた話、台風が来るとなれば、口に釘をたくわえ、屋根や窓を補強した話

 

卵をとるために鶏を飼っていたのだけど、鶏も意外となついて可愛いんだ、と鶏肉はかわいそうで食べない主義になった話(結果、介護時代も施設を変わるごとに『アレルギーではないのですが、鶏肉は食べられません』と私が説明する羽目に)自分の世代ではテレビで聞くような話を、身近で聞かせてくれたのが父だった。

 

大学卒業後、超高層を学ぶため、ミース・ファン・デル・ローエが教鞭をとっていた、イリノイ工科大学の大学院に留学した。

 

運良く奨学金を2種類いただき、一ドル360円・外貨持ち出し規制がある時代に、クライスラーの大きな車に乗って、割と余裕のある留学生活を送っていたらしい。

 

 

亡くなって、葬儀で使う写真を探すために押入れの中から掘り出した、当時珍しかったキャノンの最新鋭のカメラで撮影されたカラースライドの数々は、まるで昔のアメリカ映画の世界のようで、なんだかワクワクした。

 

JALが日付変更線通過証明書なんてものを発行していた、アメリカ本土にハワイ経由でようやく飛行機で行けるようになった時代。

ミースやアメリカの友人と写真に映っていた父は、とても輝いていた。

  

 

父の影響で兄がアメリカに留学し、私も留学したいと言い出した時に、一番喜んでいたのは父じゃないかと思う。私がSmithに行くことが決まり、オープンキャンパスに一緒に行ったとき、『こんないい大学、自分が入りたいくらいだ』とはしゃいで大きな一眼レフを首から下げ、キャンパスの写真を撮っていた父を昨日のことのように思い出す

 

40歳過ぎで患った突発性難聴で片耳の聴力を失い、耳鳴り持ちだったため、父が帰宅したら、静かにするのが決まりだった。だから、小さい頃はちょっと父は近寄りがたい存在だと感じていた。

留学の話をし始めてから急に父と距離が縮まったように感じた。いつも、家庭に外国の風を吹かせていたのが父だった。

 

兄も私も日本に帰国した60代のころはとても元気で、なかなか面白いキャラになっていた。ずっとやっていた社交ダンスではなく、アルゼンチンタンゴを踊り始めたかと思いきや、アルゼンチンタンゴを歌い始め、毎年ライブを開いて、最後には有名なバンドネオン奏者の演奏を録音して自分のCDを作るため、ブエノスアイレスにまで行ってしまった。

歌手活動名はミゲール・ササキ。その頃から家族も親しみとユーモアを込め、ミゲールさんと呼ぶようになった。

 

 

70歳になったころ、1回目の脳梗塞を患い、そこから怒涛のリハビリ生活が始まった。入院してから夜中の間に症状が悪化し、左半身がほとんど動かない状態になった自分を、父は翌朝『カフカの変身のようだ』と例えた。

 

その後手探りで調べ、長島監督も入院していた初台リハビリテーション病院に転院。3ヶ月のスパルタリハビリを終えて退院するや否や、画期的な装具でリハビリを行っている病院が高知にあると聞きつけて、高知の病院にも3ヶ月入院した。

 

 

 

その1年半後に2度目の脳梗塞が、瞬きがようやくできる状態に彼を再度突き落とすことを知っていたら、あのときあそこまで追い込んだだろうかしかし、そんながむしゃらなリハビリさえも、父はどこか楽しんでいるように見えた。いつも困難の先にある何かを見据えて、どこからともなくエネルギーを生み出す人だった。

 

2度目の脳梗塞発症の朝、顔の片方が垂れ落ちているのを見て、私は即座に脳梗塞再発だと気付いた。しかし、数ヶ月前にペースメーカー手術を受けていたことが災いとなって、病院に搬送されたとき、心臓の検査に回され、その間にどんどん父の意識は遠のいていった。

あまりに待たされるので、立入禁止と書かれたドアを開けて、私は叫んだ。

『この顔見て下さい、心臓じゃないです、脳梗塞ですよ、早くして下さい!』と

 

結局搬送されてから、脳梗塞の治療が始まるまで何時間も経過してしまった。

脳梗塞は、治療が始まってからさらに症状が進んでしまうことはよくあることらしいが、脳幹の脳梗塞で症状が進みきった父は、意識がなく、集中治療室での治療が始まった。

 

発症から何日後だっただろうか。ようやく呼吸は安定してきたが、意識は戻らないままだった。そんなある日、出社前に病院に立ち寄り、父が歌っているアルゼンチンタンゴの曲をiPodに入れ、父に聞かせてみることにした。

 

Adios pampa mia (さらば我が草原よ)故郷を離れる人の歌だったと思う。その曲に差し掛かったとき、急に父が大声を上げて泣きだした。隣のナースステーションにいた先生や看護婦さんが、何が起きたのかと部屋に入ってきた。父の意識が戻った瞬間だった。

 

そこから1回目とは全くレベルの違うリハビリが始まった。重度の麻痺で首は縦に動かせなくても横には動かせる場合がある。

瞬きは自分でできる場合、瞬きでコミュニケーションを図るらしい。

こちらの言っていることはどうやら聞こえているとの判断。

『パパ、Noだったら首を振って、Yesだったら瞬きしてね』

と言って、Yes/Noだけでどれだけコミュニケーションが取れるかを試し始めた段階で初台に再転院となった。

 

転院時の評価で『言葉を話せるようにも、文字を書けるようにも恐らくならないでしょう。コミュニケーションボード(視線で文字盤をなぞる)でコミュニケーションを取れればよいかと思います』と医師に言われ、横にいた母は気を失いそうになっていた。

 

あの時、父が自宅復帰できるなんて、だれが想像していただろう。

施設を探し始めることを強く勧められたが、もう少し様子を見させて下さいと、私は断った。

しかし、本当は、この先どうなるかなんて私自身考えられていなかった。

父と母の両方のケアで押しつぶされないように、必死に前を向いて、ただただ、足を踏みしめるようにして、その日一日を過ごすしかなかった。

 

そんな状態でも、出来る機能をなんとか使ってリハビリしてくれた初台リハビリテーション病院。

 

 

約5ヶ月の入院期間で、口からものを食べ、ヘッドレストが付いていないタイプの電動車椅子をおぼつかないながらに自分で運転できる状態になって、なんとか自宅復帰が叶った。

 

もちろん、そこからの介護生活が大変の一言では言い尽くせないものだったのはいうまでも無い。

着替え、車椅子の移乗…170cmの父は、介護するには決して小さくない。電動車椅子だって27kgある。私もまだまだその頃は、勝手に犠牲のサイクルを生きていたから、辛いことも沢山あった。

 

『りさちゃん偉いわね』と近所の人に言われる度、私はなんだかモヤモヤした。この先どれだけ続くかわからない介護生活、そんな言葉で片付くもんか、と

 

ただ、父の入院中と打って変わって、父がいる家はなぜか明るかった。

自宅介護時代は、よく母とも喧嘩した。

母と喧嘩していると、父が決まって自由にならない発音で笑い泣きみたいな声を出して笑い始める。それを聞くと、おかしくなってしまって、母と私も笑いだし、喧嘩は終わるのだった。

 

右手だけがなんとか健常者の6割程度使える状態になった父の新たなプロジェクトは囲碁だった。一体Amazonでどれだけの囲碁の本を注文させられただろう。施設に残されてあっただけでもダンボール2箱分になった。

 

 

常に目標を探して、努力し続ける人だった。

亡くなる前の週も、囲碁ボランティアの先生に3級くらいに上達したと言われ、喜んでいた。

 

自分で寝返りも打てず、座り直しもできず、フットレストから足が落ちたら自分で直せない、放っておくと口からよだれが垂れてしまうそんな状態で約10年。

その状態で出来ること、楽しめることを探し続け、挑戦し続けた。

父は与えられた命を生ききった。

本当に最後の最後まで頑張った。

 

葬儀の前後、兄といろんな思い出話をした。

 

出生図に土星の逆行があって、幼少期に父と疎遠な感覚を持っているとか、情緒的繋がりの薄い家庭だったとか、つい最近までそんなこと思っててごめんね。

私は完璧に愛されていた。

子供の目線で、愛の定義を勘違いしていただけ。

インナーチャイルドって9割以上は勘違いだね。

 

いろんな気付きが怒涛のように押し寄せてきて、感謝の涙が数日止まらなかった。

 

亡くなる数日前、最後に会ったとき、父は金魚すくい一位のトロフィー代わりにもらったプラスチック製のワイングラスを指差し、『あげる』と言った。

 

私は、『パパが折角一位でもらったんだから、使えばいいじゃない。バナナミルク(父の好物で施設に入ってからも週に12度は差し入れしていた)飲むときに使わないの?』と聞いたのだが、父はなぜか頑なに『使わないからあげる、持って帰って』と譲らない。

私は、心の中で(なんだろう、変なの)とくすっと笑いながら、『分かった、じゃぁもらうね』とそのワイングラスを持って帰った。

 

 

葬儀が一通り終わり、私は山に登った。晴れ女のはずなのに、その時ばかりは登山道が沢のようになるほど、ひどい雨だった。

雨は浄化。水は感情の世界

 

 

山小屋でなかなか寝付けず、うつらうつらしているときに、ふと父にもらったワイングラスのことが頭を過った。

 

ワイングラスカップ

カップは愛や感情の象徴だったじゃないか。

そうか、父は最後に私に愛の象徴を渡してくれたんだ!

そう気付いたとき、また涙が止まらなくなった。

 

有終の美で金魚すくい一位とか、そのカップを渡すとか、まったく演出がにくいくらいじゃないの──そう直接言えないのが寂しい。が、きっと上でしてやったり、とニヤリとしているに違いない。

 

亡くなった瞬間の占星術チャートを見ると、これまた宇宙の計らいとしか思えない、美しい配置だった。出生時の天王星(逆行)に、トランジットの天王星が逆行で、寸分狂わず重なった、まさにその朝だったのだ。

これぞ本物の天王星リターン。

父はきっと古いパターンを卒業したのだ。そう、今世での課題をやりきったのだ。

父が去ってから、いろんなことを思い返しても、私も娘として後悔するようなことが思い浮かばなかった。

完璧ではなかったかもしれない。だが、私は父の介護をやりきったと思っている。

もちろん、もう話せないのも、宿題リストを渡されないのも、何か物足りず、寂しい。

亡くなった時にあたりに充満していた、射手座ステリウムらしい父の、意気揚々としたエネルギーも、もはや薄くなってきているのを感じて、それももちろん寂しくはある。

 

人が口を揃えていうように、四十九日が終わってから出てくる感情もきっとまだ沢山あるのだろう。 

 

だけど、こんな風に見送らせてくれて、やはり感謝しかない。

 

私は、あなたの子供で心底面白かった。

 

 

そして、がむしゃらに生きる姿は、本当に美しかった。

沢山の愛と学びと思い出をありがとう。

Adios papa mia! (さらば我が父よ)また会う日まで。

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そこにあった愛に気付くこと

2017年05月17日 | より道散歩

ここのところ、夏の12年振りのアメリカ旅を控え、

大学時代のことや、大学時代お世話になった人のことを

色々思い出す機会が増えておりました。

 

大学留学して最初の1年は語学の壁と闘っていました。

私は元々、大学院留学経験がある父と(1ドル360円時代)、

その父と結婚すれば海外に住む機会があるのでは?と期待していた母、

という海外好きの家庭で育ち、

兄もその影響を受け大学・大学院と留学していましたが、

自分自身は帰国子女でもなんでもなく、

なのに、要領が良かったのか?TOEFLやSATと呼ばれる

アメリカの大学入学用学力試験はそこそこの点数を叩き出して

アメリカで名門女子大といわれる大学に入ってしまいました。

 

しかし、そこで待っていたのは、ネイティブでも苦労する授業の連続。

特に美術史の授業はHard-grader(採点が厳しい教授)が揃っており、

最初のレポートでD(ほぼ落第点)を食らって、

泣きながら教授のところに相談に行くと

『ネイティブだろうが、ノンネイティブだろうが、

評価の基準は変えられない。

あなたのレポートは、文章が美しくないから良い点はあげられない。』

と言われ、美しいキャンパスの池の畔で泣いたりしていました(笑)。

 

そんな時、寮のリビングルームにあった

スタンウェイのグランドピアノにふと手を伸ばし、

ピアノを弾いていたら、

アメリカでは日本のように猫も杓子もピアノを習う、という文化がなく

「上手ね!」

と褒められたのに気を良くして、

それから、音楽学部のピアノの練習室に通うように。

(↑コンサートホールや練習棟があった音楽学部の建物) 

 

言葉での表現にストレスを抱えていた私が

ピアノという言葉によらない表現で解放されるという感覚を味わった時でした。

 

私が通っていた大学では、音楽専攻でなくても

オーディションに受かれば演奏の授業(レッスン)が

単位付きで取れるという仕組みがあったので、

2年生になる時にオーディションを受け、

この先生のレッスンを受けたい❗と思っていた

ジュリアード音楽院出身の教授の授業を受けられることに。

 

寮の部屋の留守電にその教授、モニカから

『リサ、私があなたのレッスンを担当することになったわ』

というメッセージが入っていた時の喜びは忘れられません。

 

単位数は普通の授業の半分でしたが、

授業としてレッスンを取る条件は

「毎日1時間練習すること」

そこから、ピアノとモニカとの深い関係が始まりました。

 

日本では比較的『正確に弾くこと』が求められることが多く、

表現の自主性が求められた記憶があまりないのですが

(先生の個性かもしれませんが)

モニカとのレッスンは、対照的。

『あなたは、この部分はどんな風に感じてそう弾いたの?』

と常に私の自主性を尊重しながらアドバイスをくれ、

ピアノで表現することが、どんどん楽しくなっていきました。

 

そして、4年生になる時、

それまで知らなかった衝撃の事実を知らされます。

なんと、4年生で演奏コースを取っている人は、

卒業前に1時間のコンサートを開くことができ、

(しかも、うちの大学のコンサートホールは

カーネギーホールを改修した人が設計した

マサチューセッツ州内でも秀逸なコンサートホールでした)

さらに、オーディションに受かれば、

卒業式前夜祭として開かれるコンサートで、

オーケストラと協奏曲を演奏できるというではないですか。

 

小さい頃から、ショパンコンクールなどを見て

絶対叶うはずがないのに

「いつかピアノ協奏曲弾いてみたいな」

とぼんやり思っていたのですから、

この時の驚きと喜びといったら。

 

そんなこんなで、4年生の後半は、

『毎日2時間練習する』が必須の

単位数が倍の演奏コースを取り、

専攻のセミナー論文とピアノに

ほぼ全精力を注いでいるような生活でした。

 

モニカは相変わらずの情熱を注いでくれ、

当時普通のピアノと並行して、

フォルテピアノと呼ばれる古典ピアノもやっていたのですが、

その博物館に往復4時間掛けて連れて行ってくれたり、

フォルテピアノの権威の先生を大学に呼んで

公開レッスンを企画したり、

その後協奏曲のカデンツァと呼ばれる

即興的な部分の楽譜をもらってくれたり…

 

自分のコンサートも沢山の友達が聴きに来てくれ、

卒業式前夜祭コンサートは、

もう授業が終わって家に帰ってしまっていた他の学年の友人や

はるばるカリフォルニアから

母の友人ご夫婦が駆け付けてくれ、

最後のトリを勤めさせてもらえ…

 

両親も短い期間に日本とアメリカを二往復して

両方のコンサートを聴きにきてくれました。

 

いま、そのどの場面を思い出しても、

そこには

『愛』

が溢れていました。

 

 

帰国して、

仕事のミスマッチ、

両親の介護、

いろんなことがあって、

アメリカ時代の経験を活かせていない自分を

潜在意識の中で責め続け、

しばらく、アメリカ時代の思い出そのものに

ヴェールを被せていました。

 

モニカとも、

カリフォルニアの叔父叔母のような存在だったご夫婦とも

気が付けば、何年も連絡を取っていませんでした。

 

アメリカ旅行が決まって、

モニカに連絡を取ったら、

それはそれはとても喜んでくれ、

一晩泊まらせてもらうことになりました。

 

カリフォルニアのご夫婦も

電話したら、あの時と変わらず話して下さり、

一時間も話し込みました。

 

私はなぜ、

こんなに大切な人たちから

こんなに離れて隠れていたんだろうか、

と思うと、涙が溢れてきました。

 

でも、きっと、一度

『ない状態を知ること』

で、

『いま、その存在のありがたさに余計に気が付けた』

そんな風にも思います。

 

個人的に、インナーチャイルドセラピーの半分は

『貰えていたものを貰っていなかったという勘違い』

を紐解く作業だと思っていますが、

貰えてなかったとまで思ってなかっとしても、、、

 

『そこにあったものを受け取れるようになる』

つまり、

『そこにあった愛に気付く』

それこそが、究極の豊かさのような気がしています。

 

インナーチャイルドや思い込みのパターンを

癒やしてちょっと成長した私が

今度のアメリカ旅で何を感じるのか、

いまはそれが楽しみです。

 

(↑写真のクラス課題で撮った大学のピアノが出てきました…多分寮のピアノかな)

 

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