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イエス・キリストの福音

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6【預言】 「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、

2021-04-30 04:00:00 | 日記

6【預言】

「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』(マタイ七章二十二節)

主イエス様の再臨までの間に大勢のニセ預言者が世に現れる事が書かれています。彼らは預言活動のみならず、悪霊追放、奇蹟も「たくさん行なった」と自称する者たちです。しかしイエス様の御名を利用して霊の世界に立ち入って、何らかの不思議を現しても聖霊様による新生体験がなければ神様とは無縁な奉仕者です。

ユダヤ人の魔よけ祈祷師、スケワの七人息子たちは、ためしに悪霊につかれている者に

「パウロの宜べ伝えているイエスによって、おまえたちに命じる。」と言ってみたところ悪霊が答えて。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもおまえたちは何者だ。」と言って逆に襲い掛かり彼らをひどく追い散らした記録があります。

イエス様の御名を使ったニセ預言者とは、今日、教会の中に忍び込む占いの悪霊による活動です。使徒ヨハネは警告しました。

「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。」

(第一ヨハネ 四章一節)

ここに「にせ預言者がたくさん」と記されていますが、特に聖霊派の教会は最高に優れていますが、基本的に異言も預言も認めるため、いよいよ吟味が大切です。

黙示録十九章十節では

「神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」

と記されているため、イエス様を伝道するクリスチャンは誰でも世に対する小さな預言者的存在です。しかし聖言様による直接の語りかけを専属的に語る「預言の賜物」を持つ奉仕者もいます。イギリスでダイアナ妃が暗殺される直前にあるクリスチャンのグループに臨んだ預言がありました。

「今からイギリスじゅうが美しい花でいっぱいになります。しかしその花は喜びの花ではなく悲しみの花です。」

結果として事後現場に手向けられた無数の追悼の花束を彷彿させられる預言でした。

旧約時代は預言を文章に残さないで預言活動したエリヤ、エリシャ、逆に預言を文章に残したヨエル、イザヤ、エゼキエル、エレミヤ、ダニエル等が専属的な預言者ですが、預言の現れも口頭で語るモーセのような預言者もあれば、エゼキエルのような幻で示される預言者もあり、エレミヤが公認した夢で示される預言者もいます。

「夢を見る預言者は夢を述べるがよい。しかし、わたしのことばを聞く者は、わたしのことばを忠実に語らなければならない。麦はわらと何のかかわりがあろうか。--主の御告げ。」(エレミヤ二十三章二十八節)

サムエルがサウルに今から出会うと預言した預言者の一団は賛美の行進と共に預言活動を展開していましたが、(サム第一 十章五節)エリシャも賛美の只中で預言がよく下ることを知り、実践していました。

「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鴫らすと、主の手がエリシャの上に下り、彼は次のように言った。「主はこう仰せられる。『この谷にみぞを掘れ。みぞを掘れ。』 (列王第二 三章十五節~十六節)

預言の賜物を持つ奉仕者はもし御心を確信したならば、誰が何と言っても大胆に勇気を持って語らなければならず、もし恐れ退くならば正しい預言者さえ惨めに敗北してしまいます。エレミヤの時代、イスラエルのバビロン捕囚を預言したエレミヤは迫害され、「死刑に当たる」とまで言われて、窮地に立たされたとき、変わらず大胆に確信を持って語り続け、その楊を退かず立ち続けたため、首長たちとすベての民は、祭司やニセ預言者たちと協議した上でエレミヤには手を下さないことにしましたが、同じ頃、エレミヤと全く同じ内容の預言をしていたウリヤは王の反感をかって命が狙われたのを聞くや否や恐れてしまい、エジプトへ必死に逃げて行ってしまいました。そのため、その後のウリヤ預言者の運命はエレミヤとは大きく正反対に分かれました。

「彼らはウリヤをエジプトから連れ出し、エホヤキム王のところに連れて来たので、王は彼を剣で打ち殺し、そのしかばねを共同墓地に捨てさせた。しかし、シャファンの子アヒカムはエレミヤをかばい、エレミヤが民の手に渡されて殺されないようにした。」 

(エレミヤ二十六章二十三~二十四節)

小犬でも私たちが恐れて逃げ出したら、調子にのって「キャンキャン」ほえながら追いかけてきますが、ぐっと目をにらみつけたら小犬のほうが逃げ出します。もっとも動物はかわいがらなければいけませんが。預言者は何者からも退かない勇気が必要です。

 「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」

(ヘブル十章三十九節)

第二次世界大戦中、戦地で実弾に打たれて死傷したアメリカ兵は数十万人とも言われますが、それ以上に本土決戦のなかったアメリカ大陸で日本軍の奇襲を恐れながら心臓発作で亡くなった一般人はその数倍の百万人以上と言われています。これは無用な恐れがどんなに有害であるかを物語っています。預言者なら恐れないで大胆に預言しましょう。

聖書預言には言葉なき預言すなわち、無言の環境自体が何かを語りかけている預言が多数あります。

例えばイエス様がベツレヘム(パンの家の意味)で宿屋なく、家畜小屋でお生まれになった時、家畜の食卓の飼葉おけに寝かされましたが、イエス様は世には受け入れられないけれど、確かに謙遜な「命のパン」であられ、石製の棺おけのような形をした飼葉おけの中で、包んで行動を制約した産着の布とは、もともと死者を一時安置した家畜小屋に備えてあった死者を包む為の死の衣であり、まさにまぶねに眠る清いみどり子イエス様の御姿は、将来、罪なき清いイエス様が十字架で釘打ちという死の衣に包まれて、行動が制約されたうえで死の眠りにつかれることを産まれた直後から暗示的に預言していました。

また、ユダにサタンが入って裏切り目的で最後に外出したとき、環境もユダの霊的暗黒同様、すでに暗い夜でした。イエス様の再三の警告ともなう預言を拒み続けた。ユダにとって、もはや生きた知性の言葉ではない無言の夜の暗闇だけが心に訴えかける哀れみの声なき最終預言者でした。

「おいユダ!つまずく闇夜に、なぜイエス様を離れ、何に誘われ、どこへ行くのだ・・・」

ルカ二章のシメオンや女預言者アンナのように幼子イエス様を腕に抱いたうえで、正確に生きた知性の言葉で未来を預言した奉仕者もいますが、珍しいケースで本人はそうとは知らずして預言している大祭司カヤパのような奉仕者もいます。

「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。」(ヨハネ十一章四十九節~五十二節)

それゆえよく注意して下さい。あるいは小さな子供が、あるいはクリスチャンではない誰かが深い意味を知らずして神様の御心を預言しているケースも意外と多いです。

ある女性は預言と思いながら占いの悪霊をかぶっていたのですが、不信者の夫から

「お前のキリスト教信仰は何か間違えている。」

と言われて後に気付いたと聞きました。中には不信者の知り合いから強く勧められて信仰に入った人もいます。その際、彼ら勧める者たちが自らはそれと知らずして貴い預言者の使命を果たしていたといえるでしょう。ある牧師は信仰を持った切欠に少年時代あまりにも悪さをして罪深かったので、仏教徒の父親から

「お前!教会にでも行ってクリスチャンになれ!」と言われたのが切欠で本当に今、教会の牧師になった人も知っています。

私の家内は日本宣教に神様から呼ばれた当初、宣教師になることを確信させるかのように各種の小さな預言者たちが本人はそれとは知らずして語りかけたそうです。

ある女性は家内の韓国における教会の聖徒でしたが、ある日、夢を見たと言ってカウンセリングに来たそうです。

「先生!先生が日本人と結婚してこの教会を辞任して宣教に行ってしまう夢を見ました。まさかそんなことはないでしょうね!相手は本をたくさん書く教授みたいな有名でえらい先生です。」

私はえらくないですが、当たっていますね。また極めつけのカヤパタイプの預言者がいました。実は家内がその時期、突如顔にしみのようなものが少しできたので気にして、たまたま伺った病院で担当してくださったお医者さんです。この方は家内の状況を知らずしてこう語ったそうです。

「あなたのしみは女性ホルモンのバランスが崩れたことによって現れました。これを直すには早く結婚しなさい!これは当時の家内にとってまさにその言葉はこれから来日、そして結婚する私との関係を聖霊様が推奨される預言でもありました。もちろん二人とも聖書から、御心を確信できる御言葉も受け、夢や幻でも繰り返し示されて結婚に至りましたが、十六年以上前のことですね。

あなたも預言者になりたいですか?

以下に紹介する聖書中の献身者たちと同じレべルの従順さえあれば、あなたも主の預言者になれます。本当の預言者は時に一般人が理解できない行動をとる事があります。

神様はホセアに裏切る背信のイスラエル人をなお愛し続けている神様の愛の心を実際に体験するよう裏切る不貞の遊女ゴメルを妻として迎えるよう命じられました。やがて二人の間に二男一女をもうけましたが、ゴメルは家出し、再び娼婦となって売られました。しかし神様はこの時までもこの女を買い取って家庭を再建するよう命じられました。ホセアにとって犠牲の大きい、まさに人生すべてをかけた献身的預言行動です。(ホセア三章一節)

 

エレミヤはやがてバビロン捕囚になるイスラエル人にその預言を実際に示す使命を受け、なわとかせとを作り、エレミヤ自信の首につけて預言するよう導かれました。一見、狂った預言者のようでしたが、悔い改めを促す神様の激しい愛の現れでした。

(エレミヤ二十七章二節)

エゼキエルにおいてはそれ以上に一般人が理解できない預言的行動に導かれました。それらの行動は私にはあまりにも深くて表現も出来ません。エゼキエル四~六章と十二章をお読み下さい。

四章では三百九十日、左わきを下にして横たわり、その後は四十日間、右わきを下にして横たわる行動。五章では鋭い剣で頭と、ひげをそり、その毛をはかりに量る・・・。

六章では手をたたき、足を踏み鳴らして、剣とききんと疫病とによって倒れるイスラエルの家の忌みきらうべきすべての悪に対して、『ああ。』と叫ぶ預言行動。

十二章では、エゼキエルの荷物を昼のうちに彼らの見ている前で、捕囚のための荷物のようにして持ち出し、捕囚に行く人々のように、彼らの見ている前で、夕方、引っ越すことによりバビロン捕囚の惨事を事前に示す預言行動。

このように神様はエゼキエルを導かれましたが、これらすべてはおのおの意味を持つ預言

行動でしたが、ただ聞くだけではもはや心に留めないかたくななイスラエル人に聞くことプラス明確な視覚を通じて神様は御心を示し、エゼキエルの行動自体がイスラエルの家のためにしるしとされたのです。

「百聞は一見にしかず」とことわざにありますが、このように通常の人には理解できない預言行動が視覚ゆえ、よりいっそうの感銘を与え、深く考えさせ、時におぞましく、痛く心に刻まれる働きかけとして、エゼキエル以降、後の時代に究極的にもう一度だけ現れました。それがイエス・キリストの十字架の傷ついた御姿です!

多く語るより、ただ見上げようイエス様の十字架を!

これこそ神様から全人類へ御言葉プラス視覚を通じてうったえかける究極的最後の預言メッセージそのものです!そこから聞こえてきませんか?

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。私はあなたを愛している」と’・


5【奇蹟を行なう力】 聖書から奇蹟を削除したなら相当薄い本になると思います。各種の奇蹟の中でも最も偉大と思われることは私たちが神の子となって救われたことです。

2021-04-29 04:00:00 | 日記

5【奇蹟を行なう力】

聖書から奇蹟を削除したなら相当薄い本になると思います。各種の奇蹟の中でも最も偉大と思われることは私たちが神の子となって救われたことです。私は自分だけは絶対クリスチャンにならないと本気で思っていました。もしこの世に奇蹟があるのなら、このような自分がかえられてクリスチャンになること、これ以上の奇蹟はないと真剣に思っていました。当時、全くこわいもの知らずで無鉄砲だった私の冗談に

「もし神がいるのなら、出て来い!つぼの中に閉じ込めてやるから!」

と言って友人を笑わせていましたが、今は本当に悔い改めています。神様がおられなければ何事もありえません。私はかえられて神様を畏れる、畏敬の念をもって敬う心が与えられました。

今、私にとってこわいものは、第一位が神様で、第二位が断食で、第三位が怒った妻です。

初めの人間アダム創造から奇蹟の連続である聖書ですが、エバが造られた時、アダムが寝ている間に連れて来られました。その際、初めからエバは大人の成人女性でした。それが分かるのはアダムの言葉からです。

「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(創世記二章二十三節)

決してこれは幼稚園児の会話ではありません。知的かつ美的センスもある大人の言葉です。では、少女エバはどこに行ったのでしょうか?赤ちやんエバはどこに行ったのでしょうか?エバは初めから完成された成人女性として結婚適齢期の成熟した状態だったのです。神様のなさる奇蹟は、このように時間と空間のプロセスを一切超越して起きます!

新約時代もそうです。何もない荒野で空腹な群衆に対してイエス様が五つのパンと二匹の魚を裂いて増やされた奇蹟の際、ここでも時空のプロセスを超越して無から有を創造されました。通常ならパンは料理のおばさんが大麦をこねて長時聞発酵させて、焼いて完成のはずですが、イエス様の御手の中では瞬時に完成です。魚も通常なら漁師のおじさんが網で捕らえて、並べて、天日で長時間、千して乾いたら、さあ!完成です。

ところがイエス様は料理のおばさんも漁師のおじさんもいないのにおひとり、奇蹟をなされました。まさに死から命。闇から光。無から有を造られる神様をほめたたえます。

高所恐怖症

 

イエス様のなされた奇蹟の一つに水上歩行があります。深夜のガリラヤ湖上を乾いた地上を歩むかのごとく歩まれたイエス様。まさに奇蹟です。今でも透明度が高い澄んだ湖ガリラヤでは当時もっと澄んでいて深夜といえども月明かりに相当深みまで透けて見えたはずです。その上を恐れることなく堂々と歩まれたイエス様。わずかですが、同じく歩んだペテロ、まさにこれは高所を克服した冒険的な歩みです。

ある女性は大変な高所恐怖症でした。そのためビル五階にあった当時の私たちの教会に来るのにも揺れるエレベーターが恐くて、室内の非常階段をゆっくりと一階から歩いて上がってきました。その後、姉妹は信仰が徐々に強まり、やがては水上歩行された勇敢なイエス様の奇蹟の力を受けて聖霊様に満たされ、高所恐怖症が癒され、なんとエレベーターを使って一人で教会まで上がって来られるようになりました!

数多い奇蹟の中でも人の人格や行動パターンが変わる奇蹟が一番最高の奇蹟だと思います。ただ、その後、母の救いに感激した息子の間題が残っていました。彼は一度、私たちの街、東京立川まで来ようとしましたが、力及ばず断念しました。そのわけは

「飛行機が恐い」ということでした。

ひきこもり

また、聖書では十一弟子たちがユダヤ人からの迫害を恐れてマルコの二階部屋で戸を閉めて鍵をかけて集まっていた時に、よみがえられたイエス様が扉をすり抜けて入って来られました。

「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」と言われ、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」(ヨハネ二十章二十一~二十三節)

やがて、ペンテコステの日に聖霊様を受けた弟子たちは、新たにかえられて大胆に部屋を出て明るい光の下、路傍でも伝道するようになりました。

 

ある男性はひどいひきこもりでした。元々、現役で国立大学に入学するほど勤勉で優秀でしたが、ある時期から心の病となり、誰が来ても白室の扉を閉めたまま鍵を開けない。大学も勝手に中退して、実家の自室にこもりっぱなし。両親にもおばあさんにも絶対、扉を開かない、こんな状態が長く続いていました。唯一の家族とのコンタクトはいつも部屋の前に置いておいた食事がいつの間にか食べ終えて空の器だけが廊下に返されていることでした。父親はこの一人息子を自分の経営する事業の後継者にしたかったのですが、期待は外れ、今では希望なく、なかばあきらめ状態でした。

そんな環境に導かれた小さな私にできることはただ祈ることだけでした。招かれた彼の実家の部屋の前で鍵のかかった扉に手を置いて

「イエス様。どうかこの若い兄弟をあわれんでください。部屋から出て、光の下で自由に暮らすように助けてください。」

その後、滅多に出てこない彼が部屋から出てきたことをチャンスとして、私は急いで軽く抱きしめながら頭に手を置いて解放の祈りを致しました。

「イエスの御名によって、ひきこもりの力を打ち砕く!」

それからのことです。彼は突然、冬眠から覚めた生き物のように外に出て、知り合いのところで働くようになり、その後は父のところに帰ってきてこう言いました。

「お父さん。私を雇い人の一人にして、つかってください!」

この言葉と態度の豹変ぶりに驚いた両親が後日、こう語りました。

「こんな立派な言葉と知恵、一体どこで覚えたのだろう。」

私はその報告を聞いてすぐに分かりました。

「その言葉は聖書の放蕩息子が父の待つ家に帰るときに語った言葉だ。」

今では父親の仕事を助けながら毎朝早くからまじめによく働く、ひきこもりから完全に開放された兄弟になりました。イエス様が心の室内に入って来られるとすべてが明るく変わります。

自己封殺

「それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。」

(マルコ五章五節)

自分を傷つける悪霊レギオンにつかれた男の姿ですが、同様の自殺未遂、自己卑下、自己虐待。自己拒絶、不健全な自己否定、自責の念、罪悪感など自分をいたずらに傷つけている人が多くいます。

モーセの十戒に「殺してはいけない。」とあるように自分自身にも自己封殺しないよう高価で貴い神様に愛されている特別な存在であるという意識を持って自らをいたわり自信を持って高貴に歩むことが必要です。イエス様を信じれば誰でも皆、聖霊様が心に住まわれる神様の貴い神殿になれるからです。

精神分裂

「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」 

(マルコ十六章九節)

深い病からの回復者こそ優先して徹底的アフターケアが必要です。この女は七つの悪霊から解放された人です。過去の人は医学的見地からは精神分裂症です。

このような人を最優先してよみがえったイエス様は再会しておられます。私は過去に精神病院を何件も訪問しています。そこにイエス様を信じたいと助けと救いを求める人々がいるからです。その流れの中で気付いたことがあります。厳しい刑務所のような管理された冷たい雰囲気の病院とアットホームな暖かい家庭のような雰囲気の病院の二種類がある。そして患者にも二種類がある。それは生まれつき先天的に知能が足りなくて入院させられた人や後天的に事故や病気、ショックによる後遺症で入院させられた人。それともひとつのタイプは悪霊にとりつかれて入院させられた人。前者の場合は病の癒し、心の傷が癒されるよう重点を置いて祈るべきであり、後者の悪霊による場合はどんなにカウンセリングしても現状維持の投薬を続けても効果はなく、ただ悪霊追放の祈りを受けるしかないということです。特に精神分裂のような重度の患者の場合は、家族の協力や信仰への理解もなければ難しい治療です。七つの悪霊がついたマグダラのマリヤさえも癒されたイエス様は知れば知るほど物凄い癒し主です。

アフターケア

「イエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子どもよ。起きなさい。」すると、娘の霊が戻って、娘はただちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。」(ルカ八章五十四節)

ここでも再発防止策は救霊後の御言葉、霊的糧による養育、聖書を読むことです。救われた後も愛でホローする姿勢が大事です。

 

ある男性は通勤時、自動車事故に遭い、接触時あと十五センチずれていたら命はなかっただろうとの現場検証を終え、全額保険適用で車は相手方の保険で買い換え、それなりの慰謝料を受けて一応の解決を得ました。この事故以来、奇蹟的に無傷で救ってくださったイエス様の恵みを知り、神様に感謝を捧げ、事故がきっかけに信仰が強くなり、以前にも増して頻繁に教会に来るようになりました。ところが、事故後十日目に突如むち打ちの痛みが現れ、更に事故後三ケ月間は精神的後遺症で恐れから車のハンドルも握れず、夜には度々大きな鉄のかたまりが自分のかたわらに落ちてくる悪夢に悩まされるようになりました。これは環境と体の癒しに心の癒しが追いついていない心の負傷が原因です。

軽度の病気や怪我は放置しても自然にも治りますが、重病や深い怪我は手術を受けないと自分では癒せません。癌のように自覚症状さえない危険な病気もあります。健康診断時にCTスキャン等ではじめて早期発見できるように聖霊様の癒しの奇蹟が大切です。

このように奇蹟を信じて祈りましょう。

「神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。」

(詩篇 百三十九編二十三~二十四節)

「そのとき、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願ったが、イエスはこう言って彼を帰された。「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」(ルカ八章三十八節)

悪霊が追放され、魂の救いを得たら、心のアフターケア(心の救い)も大切です。ゲラサ地方の男にとってイエス様の弟子としてフルタイムでお供することより、長年家族を離れ孤独な墓場生活ゆえ、失われた家族との愛の交流の回復が最優先すべき癒しでした。主の癒しの奇蹟の手段も様々です。

大木を抜いた後は、そこに土を正しく埋めないと危険な落とし穴にもなります。

「すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。

「ほどいてやって、帰らせなさい。」(ヨハネ十一章四十四節)

ラザロ復活は人にはできない神様なるイエス様の領域の仕事でした。しかし墓の石を取り除けて、出てきたラザロを長い布から自由に解くことは人ができる領域の人のしなければならない仕事でした。できるところまではベストの努力をして、人間にできない神様の領域に奇蹟を期待しましょう。イエス様が人を救われ、私たちには彼らをほどく務めが託されています。救われたクリスチャンの心を取り巻く古い罪の習慣、反聖書的な文化やしきたり、間違った考えや異教文化の影響、占い的発想等から解放させるのが、私たちの務めです。もし、ご飯がなければお米が与えられるよう不作から守られるよう祈るのは自然です。しかしお米が与えられたのに「神様。ご飯を作ってください。」と祈るのは間違いです。それは人間のできる人間の領域の仕事です。自分で出来ることは自分でしましょう。学生ならテスト前日まで最大限の努力をして勉強しましょう。そしてテスト当日、体調を壊したり緊張して頭の中も答案用紙も真っ白ということのないよう、この領域は祈りましょう。

人目を避ける生活

サマリヤの女は通常の夕方の涼しい時刻に水汲みをせず、真昼の最も人のいない時刻をあえて選んで井戸に来て水汲みをするような人日を避ける生活実態でした。もし彼女の仕事が遊女と呼ばれる売春婦だったなら罪責意識ゆえ世間を回避したでしょうが、あるいは本当に純粋で五人の男性にだまされ続けて裏切りと連続失恋体験者だったならば、対人恐怖と心の傷はとても深かったはずです。

このような姉妹も永遠の夫なるイエス様に出会ってからは、サマリヤの住民を導く大衆伝道者となり、表だって用いられましたが、その大衆伝道者と生まれ変わった奉仕の只中にも主の配慮ある癒しの奇蹟がありました。サマリヤの女のように過去に五人の男と結婚、離婚を繰り返して、今は六番目と共にいるような、とかく隠れた闇の生活をしていた人こそイエス様を信じた救霊後、むしろ大胆、積極的に人前に出ることが本人の癒しです。

ザーカイのように不正の富を得ていた人こそ救霊後、むしろ大胆に施すことです。

パウロのような迫害者こそ誰より主を愛する熱心な伝道者になることです。

弱い者は勇士だと叫び、貧しい者は富んでいると叫び、すべて過去の行いの正反対をするときにその行い自体が私たちを正常な位置へ戻す中立位置の癒しの奇蹟となります。沢山の奇蹟の中でも一番優れていることは人が救われ、かえられる奇蹟です。


4【いやしの賜物】 癒しは病気自体が体の不都合から生じる自然な病気か、悪霊が働いた結果から生じたものかによって癒しの祈りも変わってきます。

2021-04-28 04:00:00 | 日記

4【いやしの賜物】

癒しは病気自体が体の不都合から生じる自然な病気か、悪霊が働いた結果から生じたものかによって癒しの祈りも変わってきます。悪霊が病の霊として体内に住みついている為に継続的な病人である場合、この種の病の霊を追い出せば癒しが起きます。しかし自然的な病気の場合は悪霊を追い出す祈りでは決して癒されず、むしろ病気の患部に聖霊様が触れてくださり体自体を回復してくださることで癒しが起きます。断食中、総合検診のように隠れた病が特に痛み、早期発見できるケースもあります。すべての病気が病の悪霊によるものではなく、すべての病気が体の不都合によるものでもありません。見分けることは非常に難しいですが、経験から分かることは祈った時に患者の反応で分ることがあります。

 

ある姉妹は長年足が痛く本人は慢性的なリューマチ持ちだと言っていました。病院でも同様の診断と処方箋が出されていましたが、現代医学では直らず、あるとき教会でお祈りすることになりました。実は彼女はその時まだ信仰を持っていなかったので、勧められるまま少しでも良くなればご利益という感じで祈りを受けましたが、こちらの祈りは真剣です。すると彼女の痛みあるひざの辺りの皮膚が突然ピンポン球のようにポコッと腫れ上がり、驚いたことに軽く手を置いて祈ったその手を逃れようとしているかのように動き始めました。そこに数名の目撃者がいましたが、手を伸ばして腫れ物を追いかけるとそのままつま先まで足の皮膚の上を動いて最後にすっと何かが抜けたかのように出て行き、その瞬間、彼女の長年の痛みは癒されました。このようなケースは聞違いなく悪霊が入っていた結果生じた病気だったのです。

そう考えるとあの病の悪霊は過去何年間もこの姉妹のちょうどあのひざの辺りに小さくなって住んでいたのだろうか?考えさせられます。しかしその回答は聖書によるとそうなのです。

「イエスは安息日に、ある会堂で教えておられた。すると、そこに十八年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。イエスは、その女を見て、呼び寄せ、あなたの病気はいやされました。」と言って手を置かれると、女はたちどころに腰が伸びて、神をあがめた。「この女はアブラハムの娘なのです。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」 (ルカ十三章十~十六節)

とあります。サタンはなんと悪趣味でしつこいものでしょうか。十八年間もよそのおばさんの腰の中に部下の病の霊を不法占拠して住まわせていたのです!他にすることないのでしょうか。一人の女性の腰の中に朝夕つきまとうストーカー以上に十八年間も住んでいた!私なら絶対嫌です。サタンは残酷で精神異常で気違いです。

ツロとシドンの地方でイエス様が癒されたカナン人の女の娘は小犬のように無邪気な少女です。しかし悪霊とは小さな少女だからといって容赦せず残酷で無情にも

「ひどく悪霊に取りつかれていた」(マタイ十五章二十二節)と聖書は言います。

おしとつんぼの悪霊につかれた息子は父親証言によると幼い時から、この悪霊は入っていて、彼を滅ぼそうと何度も火の中や水の中に投げ込んだと言います。(マルコ九章二十一節)

サタンは非常に冷酷で愛や人情ある通常の人間とは全く違います。

私はそのことを地獄に幻で行ったときに学ばさました。私が落とされた地獄は地球の真中にあり、長いトンネルを落ちる時にもサタンの甲高く高慢な笑い声がずっとトンネルの壁に反響して聞こえ、落ち込んだ地獄は炎の火柱でした。地獄の拷間室で私は悪霊どもの体当たりによる拷問をたらい回しになって受けましたが、地上なら一度で死ぬような悪霊の体当たりも黄泉の体は決して死なず、まさに永遠の死の連続で痛みも現実のことでした。

私はその時、あまりの激痛に耐え切れなくて哀れみの顔で悪霊のうちの一匹を見ましたが、その時、恐ろしい顔をした悪霊は私の苦しむ顔を見ながらもっと力が増し、もっと喜んで勢いが増したのを覚えています。その時、私は悪霊は人間とは完全に違うものだと知りました。サタンは私たちが地上でも黄泉でも嘆き悲しんだり、惨事で悲鳴を上げたり、激痛でうめいたりする声を聞くことが喜びであり、そこからもっと悪の力を得ています。だから私は絶対地上で落ち込んだ顔や暗く憂鬱な顔をしてサタンを喜ばせないと心しています。

 

私の場合は特殊なようでイエス様を信じて後、各種の悪霊が夢や幻で見えるようになりました。そこで私が大抵の悪霊は姿かたちでどんな種類の悪霊であるか分かりますが、夢や幻でも見えない悪霊があることに気付きました。それが病の悪霊です。例えば貧困の悪霊なら必ず乞食のように汚い姿で現われ、ギャンブルに狂わせる悪霊は気違いのようなギラギラした恐ろしい目をしており、暴力的な悪霊は本当に凶暴な姿形をしています。いずれも同じ汚れた悪霊ですが、外観でおおよそ何の悪霊であるのか分かります。ところがいつも見えないが、実在するこの病の悪霊の存在を私が特定できたきっかけがあります。

ある日、偏頭痛で苦しんだ時に祈ると眠りに落ち込み、そこで見た夢で私の頭から背中にかけて透明なべっとりした半液体のようなものが張り付いていました。クリスチャンの霊は眠りません。夢の中でも戦い霊的に清く強ければ悪に勝てます。私はこの透明なものを頭から剥がして持ち上げ叫びました。

「イエス・キリストの御名によって出て行け!」

そしてこれを遠方に投げ捨ててから目覚めると薬では効果がなかった偏頭痛が完全に癒されていました。その後、一人静かに聖書を研究し、見つけた病の悪霊に関する御言葉がこれです。

「今、私は心を自分に注ぐ。悩みの日に私は捕えられた。夜は私の骨を私からえぐりとり、私をむしばむものは、休まない。それは大きな力で、私の着物に姿を変え、まるで長服のように私に巻きついている。」(ヨブ三十章十六節~十八節)

病の悪霊は肉眼でも霊の世界でも見えませんが、確実に人にとり付いて絶え間なくむしばみ、体を弱くします。着物、長服のようにしつこく何年でも体にべったりくっついています。不可視なる天敵、病の霊の存在をメアリー・バクスターという現代の女預言者はこう証言しています。彼女も実際の地獄に行った経験があり、そこでイエス様からこう教わったそうです。

「イエス様が言われました。「ここでは見ることができませんが、目に見えない悪霊たちの軍団もあります。病気の悪霊などです。」「行け!」と、大きい悪霊が小さい悪魔や悪霊たちに言いました。「悪いことを多く行なえ。家庭を破壊し、家族を滅ぼせ。弱いクリスチャンどもを迷わし、できるだけ多くの者にまちがいを教え、誤りに導け。おまえたちが戻ってきた時にほうびをくれてやる。覚えておけ、イエスを本当に自分の救い主として受け入

れた者たちには注意しろ。彼らにはおまえたちを追い出す力がある。さあ、地上を駆け巡れ。もう他の者たちを送り込んでいるし、これから送り込む者たちもいる。

我々は、暗やみと空中の軍勢を支配しているお方のしもべだということを忘れるな。」

病の霊は見えませんが実在し、時に体内から暴れ、発作を起こし、精神不安定も引き起こし、火の中、水の中にも患者を押し倒します。そしてその時の患者の苦痛自体が彼ら病の悪霊の使命であり、生きる力であり、喜びであるため、人に住みついて簡単には離れようとしないのです。これが病の悪霊が長年人体に住みつく理由です!

一方、偶像の悪霊はこれと違い偶像の中や供え物や人聞の中にも住みつきますが、目的はサタン本来の野望である拝まれたい、威張りたい、栄光を受けたいという欲望を満たすためであり、偶像に潜む悪霊は崇拝を受けることによって益々、地獄の黄泉の力を増し、邪悪な行いがエスカレートできるのです。

ちょうど父なる神様の正反対です。神様の喜びと願いは、私たちが罪なく健康で明るく喜び賛美して愛でひとつになって祈り暮らすことですが、サタンはその正反対を切望しています。病はすべてが悪霊の仕業ではありません。寒い中、不注意に薄着で過ごせば、自然の法則の中で風邪をひきます。しかし風邪をひかせようとあえて不注意にさせて、体調を壊しやすい環境に導く病の悪霊の働きもあり、飲酒運転を誘いこみ事故を起こし怪我させる場合もあります。

聖書に出てくるおしとつんぼの悪霊は幼い少年を何度もとりついては火の中や水の中に投げ倒して滅ぼそうとしたと書いていますが、これと同じ悪霊の破壊工作が防波堤やビルの屋上や電車が来たプラットホーム等で現れたら、火の中、水の中同様、投げ込まれてしまい、調書は事故や自殺扱いとなるでしょうが、実際には悪霊に倒されたケースも意外に多くあるはずです。ですから試みに会わないよう悪しき者から守られますようにという主の祈りが大切になります。

私たちの教会のある女性は高校生時代、いつもの通い慣れた通学路の横断歩道を横断中、突然足が固定されたように動けなくなった体験があります。早く横断しないと信号が赤に変わって車が来る。しかし足が動かないという恐怖の中、突然その時、反対側から友達が自分の名を大声で呼ぶ声がしました。それを聞いた時、足が金縛りのような状態から溶けて渡りきることができたそうです。道路を渡り終えてから足の痛みがあったのでソックスをおろして足を確認すると人間の指のような痕があったそうです。

翌日、同じ現場に来ると、電柱に警察からひき逃げ死亡事件に対する目撃情報提供を呼びかける看板と供養の花束がそこに置いてあったそうです。そこで昨日、自分の足がつかまれた時刻より少し前に同じ場所でこの大事故があったことを始めて知ったそうです。まさにその地域に働いた地域の滅ぼす強い悪霊の仕業だったようですが、姉妹は守られ、現在ではクリスチャンの夫と結婚して自分も救われ、祝福された二男一女のクリスチャンホームの母となっています。

何年か前ですが、私が定期的に巡回訪問していた北海道標茶町の老人ホームのおじいさんが寝たきり状態から、訪問者を見分け、痴ほうもおさまり、歩けるようになったことも病床の祈りで答えられた聖霊様の驚くべき奇蹟そのものでした。

医者も砕かれた腰の骨と高齢ゆえに生涯歩けないと言い、家族が来ても分からない程の痴ほうでしたが、信仰の祈りは一旦働くと大きな力で当時の親族の驚きが忘れられません。

同じ頃、東京郊外の老人ホームにいるおばあさんも痴ほうが癒されました。当初は家族が来ても私たちが訪問しても全く識別できないレべルでした。

癒しは本人の信仰で起きる場合と、祈り手の信仰で起きる場合がありますが、特に愛深き肉親からのとりなし祈りはよく聞かれ癒しが多く起きます。

聖書のカナン人の女の娘は本人ではなく母親の信仰がイエス様に認められた時に即刻癒されました。おしのとつんぼの悪霊につかれた息子も本人ではなく父親の不信仰がイエス様によって正されたときに即刻癒されました。血は水より濃いものです。両親の子供に対する愛のとりなし祈りは強大です。誰より真剣さと真実な愛があるからです。

聖書の長血の女は静かに黙祷する伝統的な福音派タイプの祈り手ですが、本人の信仰で癒され、盲人バルテマイは熱く叫ぶペンテコステ派タイプの祈り手ですが、彼も本人の信仰で癒されました。

変わったレアケースで、数ヶ月前に尿が黄色くなり、おりものがひどく医者から体質上、治せないといわれた女性の為に祈った後、

「完全に癒されました。信仰歴は長いけれどこんな体験は初めてです。」

と喜びの知らせをいただきましたが、本当は私は大変無知で姉妹に手を置いて祈った際、癒しの課題「おりもの」が何であるかを知らないで祈り、聖霊様が直接癒されました。

後日、この事を教会で大声で大胆に証しすると、婦人たちが笑っていましたが、その内の一人が「おりもの」が何であるか医学的に説明された新聞の切抜きを後日、手渡してくれたので今は病状が少し分かりました。

今日、血糖値や血流や血圧の不安定、悪玉菌など悪いどろどろ血液のゆえに病める病人が増えていますが、聖霊様の清めの御言葉がここにあります。

「私は先に清められていない者達の血を清めるであろう。」(ヨエル三章二十一節)(欽定訳聖書直訳)

マルコ二章の中風患者が癒されたケースでは本人ではなく、苦労してベッドごと患者を運び、屋根に大穴を開けてイエス様のおられる所まで吊りおろした四人の一致した信仰が生きて働きました。その際、家の主人から怒涛のクレームが出なかったことは、事前に四人が屋根を弁償することを取り決めた上で行動したと思われますが、屋根の修理代を支払ってでも愛する者をイエス様の下で癒していただきたい彼ら四人の犠牲愛伴った純粋な信仰がイエス様に認められたのです。しかし特筆すべきは屋根を掘り進むうちにしゅろの大きな葉に泥を塗り固めた簡素な屋根を砕く破片は恐らく一番大きな部屋である茶の間に足の踏み場もないほどに集まった群衆の頭上、砂ぼこりとなって大量に降り注がれていたことでしょう。大きな穴です。聖書にはそこまで書かれていませんが、特に乾いて固くなった屋根を砕く一発目の突破口は、足けりだと思います。きっと、足で「ボゴン」と貫通させてその穴を砕いて拡大させていったのでしょう。その「ボゴン」の際、真下の無名な一礼拝者は破片が頭に「ボゴン」と直撃してつぶやかなかったでしょうか。「痛っ!何で俺が?」

とにかく多くの謙遜な信者たちの許しと忍耐と砂ぼこりの中、イエス様は中風患者を癒されました。一軒の家の屋根が滅び去ることより、一人の病人が癒されることをイエス様は重視され良しとされたのです。

他のケースでもイエス様はレギオン悪霊につかれた男一人を癒す為に、大きな財産である二千匹の豚の群れが湖中に崖からダイビングして失われる犠牲を許可されたのです。

一匹の豚はいくらでしょうか?仮に一匹十万円なら二千匹で二億円です。一匹五万円でも総額一億円です。かなりの資産です。しかし神様の価値基準は時に人とは大きく異なります。もし、ここに天秤が置かれ、片側に一~二億円が置かれ、反対側には悪霊につかれて理性を失い全身に傷を持つ半裸の男が道をとおせんぼしながら大声で意味不明なことを叫んでいる。一体どちらが重要ですか?言うまでもなく、一人の失われた魂への神様の価値観は最も大きいです。一人の魂は天地よりもはるかに尊く価値があります。この認識の下でイエス様は多くの病人をあわれみの思い一杯で癒されたのです。

物の価値は時に支払われた代価の大きさによって分かることがあります。骨董品や高価な宝石類は鑑定人でないと本当の価値が分かりませんが、おおよそ支払われた代価を聞く時はじめて、素人でもその物の真価が分かります。私たちの価値は一体どれ位でしょうか?

多くの失敗によって、時に自分の本当の価値を見失いそうな気分になる時、失敗した自分の姿ではなく十字架のイエス様を仰ぎ見つめなければなりません。

その支払われた御子イエス様の罪なき唯一の血潮の代価を引きかえに与えられた新しい命です。神のひとり子の身代わりの死という犠牲の大きさを思うとき悟りが来ます。

あなたは高価で尊く神様に愛されている重要な人物なのです。

「『ひれ伏せ。われわれは乗り越えて行こう。』と言ったので、あなたは背中を地面のようにし、また、歩道のようにして、彼らが乗り越えて行くのにまかせた。」(イザヤ五十一章二十三節)

「さあ、イスラエルは言え。「彼らは私の若いころからひどく私を苦しめた。彼らは私に勝てなかった。耕す者は私の背に鋤をあて、長いあぜを作った。」(詩篇百二十九章一~三節)

イエス様の背中が踏み砕かれる地面や歩道のように打ちのめされ、ムチというスキで耕された畑のあぜ道のように、イエス様の背中は長いあぜ道のように深い打ち傷が破傷風と共に長く腫れ上がりゴルゴダの地を赤く染めました。この支払われた世界最大級の代価のゆえにこそ、私たちは神様の御前で価値ある存在であることを自覚でき、イエス様が身代わりにムチ打たれた無数の打ち傷の血潮によって病が癒されたのです。


3【信仰の賜物】 「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には同じ御霊による信仰が与えられ」(第一コリント 十二章七節)

2021-04-27 04:00:00 | 日記

3【信仰の賜物】

「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。ある人には同じ御霊による信仰が与えられ」(第一コリント 十二章七節)

私たち神様を信じる者は「信仰」を持っていますが、この「信仰」がある時、賜物となって強く働く時、奇蹟を起こす「信仰の賜物」となります。通常一般の人には到底信じられない事柄を信仰で固く信じられる時があります。実に山が動くことさえ信じられる信仰です。

「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。」 (マタイ十七章二十節、二十一節)

からし種は小さいけれど内に命があります。小さな信仰でも祈れば内なる命は必ず成長して大きくなります。自然界で命あるものは命なきものを動かし支配し管理できます。命あれば、からし種ほどの信仰でも、命なき山のような大問題さえ動かし支配し解決できます。大問題を前に命じる時、信仰で発せられた言葉は強いです。山を動かすレベルの「信仰の賜物」が生きて働けば大きな仕事も出来ます。聖霊を受けた者はすでに霊的な力が与えられています。強く祈りこんだ後、イエスの御名で環境に命じてください。奇蹟は言葉から始まります。

「主よ…してください。」と嘆願する祈りも重要ですが、これは信仰で命じる祈りのおすすめです。イエス様のミニストリーの多くも命じる祈りです。十二歳で死んだ少女に対して

「タリタ・クミ!」(少女よ、起きなさい!)

死後四目目の腐敗始まるラザロの墓前でも

「ラザロよ。出てきなさい!」

死者たちは皆よみがえりました。暴風を前に

「黙れ!静まれ!」

即座に大なぎです。六千匹の悪霊どもに対しても

「行け!」 

力あるイエス様の御名の権威の下では悪霊どもでさえ服従して追放されました。

私たちも信仰で実践しましょう!

ある母親が娘の放蕩で悩み果てていました。プチ家出から始まり、今では殆ど帰って来ない毎日、しかも噂では売春までしている!母親はイエス様を救い主としてどうにか信じましたが、どんなに祈っても娘の生活態度は変わりません。実にこの母親の祈り求め方が悪かったのです。祈りの中でいつも娘を嫌って憎んでいました。

「あの放蕩を続ける悪い恥さらしの娘、売春までしてひどい!イエス様!何とかしてください!」そこで母親の娘への祈りを根本的に変えるよう指導を受けました。

「私の愛する大事な娘。頭が良くて、素直で可愛い娘。大切な娘よ、帰って来い!イエス様の名前で命じます!」

当初はアドバイスを反発していましたが、祈りながら娘を裁いて呪っている現状を悟り、祈るだけでなく娘へのビジョン、イメージを変えないといけないと、うながされ祈りの言葉を新しく変えた結果、その娘は突然、罪の放蕩生活をやめ、数日内に帰ってきました。玄関で迎えに出た母親から一喝されると思いきや、日々の新しい祈りの告白通りに「大切な愛する娘が帰ってきた。おかえりなさい。」優しく受け入れられ、娘の冷たく頑固な心が愛に溶かされて、その後この娘は神様を信じて放蕩をやめ、母親を大事にする真面目な本来の姿を取り戻しました。

信仰の言葉は奇蹟を起こします。ビジョンが大事です。創世記で初めに神様が天地を創造されたときに、地は茫漠として何もなく、やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた、その時に神様が「光があれ。」と命じられるとビックバーン現象の光の粒子の大爆発の実態があったように、まず茫漠として何もないやみの環境に(礼拝堂で電気を消して皆で祈るとよく祈れます。)聖霊様が働く長時間祈りで臨在を満たし成就の夢を抱くことです。あなたの希望を夢と幻としてしっかり心の目で実現したと信じて見つめることです。そして聖霊に満たされて聖霊の力をおびたその時に「光があれ。」と信仰で肯定的な言葉で望みを宣言することです。日常茶飯事に語る言葉を肯定的、建設的、創造的に変えることさえできれば、あなたの運命全体が変わります。

「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」(エペソ四章二十九節)

「また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。」(ヤコブ三章四節)

あなたの口の告白が望みの港へ導きます。

神様はアブラハムを信仰の父として高めるために本名アブラム「高貴な父」からアブラハム「多くの国々の父」と改名されました。妻サライ「高貴な母」においても同様にサラ「多くの国々の母」と改名。これは日々の告白を変化させ百歳と九十歳の老夫婦が奇蹟的高齢者出産を可能にさせる為にです。互いに名前を呼び交わすことにより告白された言葉の通りの力がやがて生きて働き、彼らはイサク出産を現実のものとしました。

名前通りの性格の人ヤコブ「押し退ける者」においては、イスラエル「神の王子」と改名するや否やその場で祝福を受けることができました。

イエス様はシモン「葦」に対してペテロ「岩」と新しく名づけられました。川辺の葦のように微風で左右に揺らぐ優柔不断な者ではなく、岩のように確固とした信仰で教会の柱になってほしかったからです。イエス様のペテロへの願いは三年半もの間「岩・岩・岩」と信じて呼び続けてペンテコステ以降ペテロは別人のように変えられて現実に成就しました。

ここで誰でも単純に創氏改名さえすれば祝福されるのではなく肝心なのは日々語る言葉の内容です。

好戦的で短気だったヨハネは病気の発作のように定期的に怒りが生じました。一例を挙げると

「さて、天に上げられる日が近づいて来たころ、イエスは、エルサレムに行こうとして御顔をまっすぐ向けられ、ご自分の前に使いを出された。彼らは行って、サマリヤ人の町にはいり、イエスのために準備した。しかし、イエスは御顔をエルサレムに向けて進んでおられたので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」

(ルカ九章五十一節)

なんと閉鎖的で短気でしょうか。ヨハネは雷のように怒りやすい性格を直そうと日々の告白の言葉を変える努力をしました。

「イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、」(ヨハネ十九章二十六節)

「イエスが愛された、もうひとりの弟子」(ヨハネ二十章二節)

「イエスの愛されたあの弟子」(ヨハネ二十一章七節)

「イエスが愛された弟子」(ヨハネ二十一章二十節)

これらの発言はヨハネ自身が自分のことをそう呼んだのです。ヨハネ福音書の著者ヨハネ自身が「イエスに愛されている」ことを自覚して福音書記録時にも自分からこのことを何度も告白し続け、やがてヨハネ第一、第二、第三の手紙という愛の書まで書く程の「愛の

使徒」に変えられたのです。言葉の力は強いです。告白した通り、短気が消えて愛に満たされたヨハネになったのです!

あなたも「私はイエスに愛された弟子です。」と、生きた信仰告白を毎日繰り返しましょう。信仰はあえて方程式にするならば、分母は「レイマの御言葉の土台(聖書を読んで心に飛び込んできた御言葉)」分の分子は「大胆な信仰の行動」=「奇蹟」です。直接語られた主の御言葉の土台なく突発的に行動することは危険です。聖書をよく読んで御言葉を受けた上での土台ある行動が安全です。

 

ある男性ですが、彼は信仰を持った当初、今知った信仰の世界の素晴らしさにあまりに興奮してさっそく教会で聖餐式に飲まれていたぶどう酒を本人の判断で飲酒良しとして購入して飲み、ひどく酔っ払いました。酔った兄弟は外に出て散歩しているといつの間にか偶像の宮に到着しました。よせばいいのに彼は何かの力に引かれるように鳥居をくぐり神殿内に入ると誰もいませんでした。そこで彼は木魚という丸い木製の打楽器を発見したので、なぜかこれを棒で強くたたきながら賛美を歌い始めました。

酔っ払いに理屈はありません。

「ボン、ボン、ボン、ボン、イエ~スー・ ボン、ボン、ボン、ボン」

あまり恵まれない異様で異質な賛美の後に周囲を見渡すと偶像がいっぱいであることに気づきました。聖書で禁じられた偶像。彼は酔った勢いでそれらを破壊し、最後にさい銭箱が置いてある大庭のようなところで吊るされたとても太い紐を見つけました。そこでこれを力任せに振り回して引っ張ると

「ガラン、ガラン、ゴンゴロゴン。」

と鈍い音を立てながら上から大きな鈴が頭上に落ちてきました。彼はすっかりやりたいことすべてをやり尽くした後、酔ったまま帰宅しましたが、やがて酔いが醒めた頃、我に返り「今日の行動はまずかった」

と反省しもう一度、偶像の宮に戻りました。すると神主のような人がそこにいて悩める顔で困惑して立っていたので彼は罪を自白してただひたすら謝罪しました。神主は

「もう少しで警察を呼ぶところだった。どうしてこんなことをしたのかね。」

彼は答えました。

「本当に申し訳ありませんでした。実は祈りが答えられなかったので、怒ってこうしたのです。」

クリスチャンの彼は寛大な神主に赦されて事無く帰宅しましたが、私に

「本当に当時ぶどう酒だけは飲んでもいいと思っていた。聖書も何も知らなかった。」

と言って後侮していました。

信仰は御言葉をよく読んで管理しないと人により暴走します。特にもともと「信仰の賜物」を戴いているクリスチャンはイエス様の中で神様の御心を受けた信仰上の行動をとれば山を動かす程の大きな働きに用いられますが、御言葉なく感情的な興奮と勢いだけで走ると通常の人が信じられないようなことを大胆平気に信じて「できる。できる。」だけを盲目的に繰り返して大きな失敗をすることがあります。

大きなビジョンが来た時はまずそれが本当に神様の御心なのか時をかけて祈りこみ、教会の牧師にも相談して冷静な判断が必要です。

信仰はいつもビジョンと共に働き、正しい主からの夢と幻は未来を開きます。

 「幻がなければ、民はほしいままにふるまう。」(蔵言二十九章十八節)

もしこの御言葉を逆に言えば

 「幻があれば、民は立派にふるまう!」

 ヨセフは「あの夢見る者」と悪口雑言されましたが、十七歳の時に啓示された神様からの夢を信じ続けて、その「幻」の力でエジプトにおける十三年間の過酷な奴隷生活や獄中生活にも「立派にふるまって」耐え抜き、後に神様に認められた逆転勝利の栄華を極めました。聖霊様の原語は夢と幻です。聖霊様からのビジョンは必ず救いをもたらし、災いを祝福に変え、苦難を乗り越える力を与えます。

聖書中、「信仰の賜物」を持っていたのではと思われる人物を幾人か挙げてみます。

ノア。彼はまだ見たことのない雨という自然現象を信仰で見つめて、大雨の大洪水に備えたあのように巨大な枚いの箱舟を百二十年もかけて建築しました。発掘によれば全長百五十m、幅二十五m、高さ十五m。この三十対五対三の比率は今日でも造船技術の黄金率と言われ、タンカーがこれを模範に造られています。ノアに必要だったのは多くの木材、献身的な家族の労力、時間、その他多くの目くら経費でしたが、何より神様の御言葉に対する信仰こそ一番必要なものでした。家族以外、誰も神様を信じない背信の時代に義なる裁きをなさり、救いをも与える善き神を信じたことは偉大です。今日の日本のクリスチャンたちのように。リバイバルしている国家環境で信じるのは容易いけれどクリスチャン人ロの少ない環境で信じることは困難を極め、信仰の賞が天国で待っています。ノアは水の引いたアララテ山上で再び全地を滅ぼすレベルの大洪水を起こさないという神様の約束と現れた契約の虹を信じて、あえて洪水に弱いぶどう作りの農夫になり、農業の仕事自体が彼の献身の信仰告白となりました。現代流に言えばイエス様を信じて教会に通うため日曜に働く仕事場を選ばないという感じです。

新約では十字架上、イエス様のかたわらで悔い改めてパラダイスに入った強盗人。彼は誰も伝道しないどころか逆に民衆全体が十宇架の死を叫ぶ只中で、イエス様も一つも奇蹟を起こされないのに信じました。神の栄光の雲に乗って御使いの群集と来られる光輝く再臨のイエス様なら誰でも彼を神様と信じられます。しかし十字架の血潮にまみれた悲惨に砕かれたそのボロボロの御姿を見ながら一度だけ十字架上、祈られたイエス様の御言葉を聞いた直後に信じたのです。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

(ルカ二十三章三十四節)

まさに否定的な環境を見ず、聖書の御言葉にのみ信仰の土台を置く勇士のようです。

そしてイエス様の聖誕時に幼子を抱いたシメオンとアンナ。彼らはこの救われた強盗人以上にイエス様の語られた御教えや成された奇蹟をうわさにさえも聞いたことのない人たちです。なぜならイエス様は今、生まれたからです。クリスマスを機に無力な幼子イエスを見て神様だと信じたのです。永遠の命に通じる「信仰の賜物」は大切です。私たちはただ信仰によって神様は罪なきイエス様を十字架の死から三日目に復活されたと信じています。

「イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ二十章二十九節)アーメン


2【知識のことば】 ソロモン王は外面的には、野に咲く一輪のゆりの花ほどにも着飾ってはいませんでしたが、内面的には「知恵のことば」を着飾っていたため経済的に栄華を窮めることができました。

2021-04-26 04:00:00 | 日記

2【知識のことば】

ソロモン王は外面的には、野に咲く一輪のゆりの花ほどにも着飾ってはいませんでしたが、内面的には「知恵のことば」を着飾っていたため経済的に栄華を窮めることができました。

「知恵のことば」と「知識のことば」は、漢字一文宇の違いだけですが、似て非なるものです。

NLT訳聖書では「知識のことば」を

「SPIRITUAL KNOWLEDGE」「霊的知識」と訳します。

一般教養や学習された知識とは異なる、通常知りえないはずの事実を霊的に聖霊様が直接示されて知る、これが「知識のことば」です。

イエス様は神殿税問題が浮上した時、「知識のことば」で弟子たちに命じられました。

「湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。そのロをあけるとスタテルー枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたとの分として納めなさい。」(マタイ十七章二十一節)

イエス様がここで網の使える漁師たちに深みで投網ではなく、一本釣りで魚を捕るよう言われたのは訳があります。遠投げ用のリール等の発明されていないこの時代、湖で釣りをすることはポイントがすぐそこの浅瀬限定になりますが、それは湖畔に近い浅瀬に今、生息しているスタテル硬貨一枚を飲んだこの魚をターゲットゲットに捕らえるためでした。この魚は正式にはマトウダイといわれるコイ科の深海魚で、その大きな口は長く伸びるのが特徴です。小魚をその口で掃除機のように吸い込んで丸呑み捕食でき、冬の寒い時期には浅瀬に来ます。そのため多分、湖畔の堤防沿いを散歩していた誰かが誤ってポケットから湖中に「ぽろっ」と落としたスタテル硬貨一枚を冬に浅瀬で「すっ」と吸い込んだと思われますが、まさに驚異です。

イエス様は湖中の一匹の魚の口中の事情まで知られるとは!

ちなみにこの魚はスタテルコインー枚丸呑み可能な口サイズから全体像を考えると型と味のいい成魚の食用可能サイズのはずで、多分、冬季の旬で脂ものって美味しいので弟子もコイン摘出で納税後、焼いて食べたと思います。

また、別のケースでもイエス様はこの同じ「知識のことば」で言われました。

「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。」 (マタイ二十一章二節)

なんと遠距離から隣村に備えられた一匹のろばの子の存在とその主人を知られました!

過越祭でもイエス様は「知識のことば」で言われました。

「都にはいりなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人がはいって行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる。』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。」(マルコ十四章十二節)

イエス様は女性の仕事である水がめを運ぶ珍しい男性と主人と二階の部屋事情までも遠地から知られました。

魚、動物、人、命なき室内環境、どんな境遇も隠された事情もイエス様は知られますが、これらのうち必要な知識が部分的、断片的に私たちの心の思いか夢や幻で示されたとき、それが「知識のことば」となります。

これは聖霊様から啓示されたクイズやパズルのような限定的情報や知識をヒントに問題解決の有益なアドバイスを自ら受けたり、他人へ与えたりできる賜物です。

「知識のことば」を賜物に持つエリシャはアラムの王の寝室で語る言葉までも知っているとうわさされましたが、当の本人は弟子の前で主が示されるときのみ、必要な知識を得ることを謙遜かつ正直に告白しました。参考(第二列四章二十七節 六章十二節)

賜物の主権も栄光も主にあり、聖霊様が必要とされるときのみ啓示されます。

使徒ペテロは聖霊様に示されてアナニヤ夫婦の隠された罪悪の偽善行為を見抜きましたが、私たちも誰かの偽善や罪過が超自然的に啓示されたとき、言いふらさず執り成し祈ることが要求されています。

以前、ある大学生を伝道した直後、私は不思議な連続する二つの夢を見ました。最初の夢では、打出の小槌(こづち)が見えました。

あれは日本神話で小槌を振るだけで努力なく小判がどんどん出てくる、人を堕落させるその類の悪いものだと思って見ていると次に夢の場面が変わり、その大学生が一匹の二足歩行する大きな犬と仲良く手をつないで私の方に近づき、いきなり犬はわたしの手を馴れ馴れしくつかんで力任せに握手しました。

「痛い!この野郎!」と思いながら犬に怒りがこみ上げて目覚めました。この生意気な犬が悪魔を象徴することはすぐ分かりましたが、打出の小槌と小判とは、なんとも時代錯誤で昔風というか、神話的な偶像臭い印象残る夢だったので、後日その大学生に話しかけてみました。

「兄弟、最近私は神様から何か特別な啓示を受けたのですが、正直に話して欲しい。お金のことで何か悪いことをしていませんか?」

するとこの大学生は驚きながら罪を告白しましたが、内容が本当に小判がらみで驚きました。というのは詳細なノウハウは言えませんが、見本のような沢山の種類の小判がガラス張りの大きな額縁に一枚一枚並べて貼られているものを通信販売で大量購入して、ここから小判だけをはがして裏技転売することで不当な利益を十二万円くらい荒稼ぎしていたそうです。これが法的には違法と知りつつ儲かるので止められなかったそうで、お祈りを導いてあげました。

「兄弟、それはご法度ですよ。悔い改めましょう。」

「おお主よ!兄弟が小判を不正に・・・」

なんだか現代版大江戸事件簿千両箱不正両替商人捕物帖のようでとっても情けない話でしたが、この種の隠された聖徒たちの罪の啓示は特に牧師になってから多いです。

栃木県のある若い姉妹は、イエス様を信じたのに仏壇を拝んでいる夢を見たので聞いてみると、実家にあるので罪とは知らずに拝んでいたとのことで、今はイエス様だけを礼拝しています。また、ある時は群衆にまぎれて立川競輪場に向かう二人の聖徒の夢を見ましたが、個人的にお話しすると的中!今は悔い改めてギャンブルは一切しないようです。

また、ある大阪のお医者さんと同じ旅館の部屋に泊まった翌朝、私は天から洪水のような太い雷があちこちのパチンコ店のみに集中砲火して厳しく審判されている恐ろしい夢を見ましたが、そのままお話しすると

「それは私のことです。」と自白してパチンコを辞めると語っていました。後日、彼は盲腸になって通常一時間の手術がミスで八時間もかかって九死に一生を得て無事生還しましたが、その間、天国の幻を見ていたそうです。美しい賛美あふれる純金道路の天国があまりにも素晴らしい場所だったので何度も入ろうと試みたが誰かが後ろから繰り返し背中を引っ張った為、地上に無理やり押し戻されたそうです。本人いわく後ろから引っ張ってくれたのはイエス様。天国は非常に素晴らしい場所で今からまじめなクリスチャンになって伝道すると言っていました。

また、人に希望を与え未来を示す「知識のことば」があります。埼玉のある教会の牧師と長老が私たちの教会まで挨拶に来られ、後日その教会にお呼ばれしました。道中、私の一本先の電車で人身事故があり、遅れて教会に到着してメッセージを短めに終えましたが、集会後、牧師室で私は前日、夢で示された「知識のことば」を語りました。その内容が凄いものでした。

私の夢ではその長老が過去に数億円の借金を抱えていたのに、私に出会った直後にすべてが解決される。

その後、彼はアメリカに行き、福音ビジネスのチャンスを掴み、その後は福音関係の仕事を始めるという内容でした。正直、話すか否か悩みました。というのは大胆に神様の啓示と思ってお話して外れたら恥ずかしいリバイバル講師となって私は自爆です。しかも私が何だからといって私に出会った直後に借金すべてがなくなりアメリカでしょうか。まるで作ったような面白話です。現実、数億円の借金、そんな人は多くはいませんし、外れた場合この紳士的なご年配の長老を侮辱しかねない失礼な内容です。

一方、内なる聖霊様は「大胆に語りなさい!」と私をうながされるので、しばしの内なる葛藤の後、賜物の力を信じて決断を下し、自爆覚悟で語りました。

「あの、お伝えしたい神様の啓示があるのですが、外れたらすいませんね。」

とみじめな前置きをしてから謙遜に半分だけ、借金が全額なくなるところまで語りました。

すると長老いわく「現在、数億円の借金はもう無い、しかし今まで事業でこぼした総額はそれ位にはなるでしょう。あと残りの負債は五千万円で私の最後の土地を売却してちょうどこの最後の負債がなくなるところですが、実はちょうど明日、一年以上かかった財務処理の決算がようやく降りて完済するところです。」

的中!正直で謙遜な長老だなあと感心しましたが、その後のアメリカのことも加えてお話しておきました。後日、消息をお聞きしますと、まさにそのとおりの歩みをされていました。

聖霊様の賜物は自爆を恐れず、人間的計算を捨てて、勇気で大胆に用いなければなりません。「知識のことば」は生活にも役立ちます。転売でも違法でなければ問題ないです。私はヤフオクで十二万円で買ったバイクについてある朝、最近あきて乗っていないので売却するよう祈りの時間に示されて、聖霊様に従うとヤフオクで出品即日、十八万円で売れたことがあります。ある姉妹は自転車が盗まれましたが、祈ると「知識のことば」が働き、公園の土手の草むらに投げ出されている啓示を夢の中で受けて、実際にそこに行くと自分の盗難自転車を発見できました。この手の体験談は他にも山ほどありますが、「知識のことば」はイエス様の名前で父なる神様に祈り、聖霊様の啓示を待つことです。

一般的に夢とは、ぼんやりした霧のような現実とは異なる仮想の世界ですが、時にこのような神様から啓示された預言的な夢もありえ、その場合は必ず祝福をもたらすチヤンスとなります。夢はすべて神様からの啓示とは限らず預言同様、吟味が必要です。時に悪魔から来る人を恐れさせたり、だましたり、誘惑する性質の悪い悪夢があり、人間自体も霊があるため体の必要や精神的状態などの必要な状況から夢を見ます。しかし神様からの夢もあります。

私はある夢を見ました。夢の中で私が教会学校の現場で教師たちと子供たちに質問しました。

「あなた方は夢をよく見ますか。」

それに答えて子供たちが可愛く答え始めました。すると今度は私が言いました。

「神様はあなたがたに希望を与えようとして夢を見せてくださるのですよ。」

夢から覚めて、なるほどと思いました。人間には未知の秘められた能力がたくさんあります。生き続ける力、自ら癒される力、信じる力…私が発見したのは交通事故に遭うとき、瞬間的にクラッシュしたり車外に放り出されるときでも、迅速冷静に判断して怪我が極力少ないように対応できるようすべてのシーンがスローモーションになって見える世界です。ゆっくりだから実際にはコンマ数秒の世界でも敏速に対応できます。経験者はご存知でしょう。さらに、秘められた神秘としてよそ見して歩きながら電信柱に頭を強打したときなど目をつぶった暗闇の世界の中にもピカピカッと光る電工石化のような火花が飛ぴ散るのが実際に見えます。神様が与えてくださった一つの演出効果でしょうか。

さらにまた、人が本当に厳しい人生の試練の只中で自殺するか、生きるかの選択を迫られるほど日々生きることが困難な希望の見えないときに、神様は夢を、しかも希望系の夢を見せて力づけてくださいます。

私が新宿のホームレスの人々に伝道して、質問したときに彼らもそれを認めていました。実際の生活が厳しく生きるのがつらいときに限っていい夢を見ると。それは人間が悲しみにつぶされて自害しないように夢を通してでも希望を与えて、生き延びられるように神様はそのような秘められた能力を与えてくださっているのです。自殺してはいけません。夢さえあればどんなに環境が最悪でも耐えて耐え抜いてやがては立ち上がれます。

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」(ヨエル書二章二十八 二十九節)

今は終わりの時代です。聖霊様がすべての人に注がれるときです。だからこそ今、夢が大切なのです。聖霊様の言語は夢と幻です。聖霊様はあなたに働きかけ、夢と幻を与えて語りかけています。聖霊様はあなたがその語りかけに日々、敏感に気付いて応答していく信仰生活を切に願っておられます。