成相博昭ブログ

これからを生きる素晴らしい明日へ・・・

コンプライアンス危機社会

2009-03-16 15:01:09 | 随想
 「コンプライアンスという見識」のタイトルで、2006年6月にUPして以来、どうしても今日このテーマについて続考したくなった。

 まず、西松建設と政治家(政治団体)との間の金の流れの不正疑惑事件。与野党それぞれの大物議員が絡んで、どたばた、混沌とした様相である。
 この事件では、外してはならない3つの視点からの論評が必要のように思う。

 その一つは、昭和23年に議員立法で制定された政治資金規正法というこの法律を逆手にとって、合法的に企業からの献金を受けている実態。しかも、ここに名前が挙がる議員は、国土交通省に影響力を持つ与野党議員という構図。

 その二つは、この背景にある「政治には金がかかる」という理由で企業献金を受けるのは当たり前といって憚らない体質。これを創っているのは国民そのものであるという事実。日本では、政治に関して有権者・政治家共にボランティアの精神と実際活動が未熟なのだ。

 その三つは、新聞やテレビの報道姿勢。明らかに、部分情報に基づいて一般化された情報・報道傾向が強いということ。さらに、煽動性が感じられる支持率や有権者の偏った感想の断片を繋いだ編集。

閑話休題
ようやくふくらんできた庭先のサクランボのつぼみ
バックの白い花は一足先に満開の白梅

 たまたま三つの視点から西松建設を巡る一連の事件に触れてみた。
 私の見解で懸念するのは、これらの傾向は日常茶飯事に身の回りに見られると言うこと。そして、大半の国民は、この渦に巻き込まれ、自己判断が利かない状態にある危険性にすら気づいていないのではないかということである。

 新聞、テレビに向かう私の基本的スタンスとして、活字を通して叙述される報道や、映像として報道される情報をそのまま受け止めることはしない。報道された情報は、周辺のこと・裏・斜めと、多角的に考える素材として捉える事に努めている。
 
 忘れたくないのは、「コンプライアンス」の広い概念は、法令に抵触するや否やを超えて、広く社会にとって不利益にならないかどうかという観点から、あらゆる身の回りの事柄を自分も含めて見据え続けていきたいということである。


地域活性化、地域づくりパワー

2008-01-23 10:51:53 | 随想
 兵庫県但馬夢テーブル委員として「但馬地域づくり応援ネット」グループの幹事をやらせていただいている。
 但馬の各地で地域活性化のための実際的な取り組みをしている個人やグループ、団体の実状やその全体像は、県はもとより、行政においてもどこにも統合された形で把握されているとは言い難い。これらの実体を現地踏査しながら、実態把握とネットワーク化を試みようというのが我々グループのプロジェクト目的である。

「地域活性化」というテーマは、人を中心に据え、多岐にわたる地域の資源を組み合わせた地域経営の課題である。「地域経営」という概念は、どうしても、実質的な背景から、行政のミッションというイメージがある。が、現地に立って考えると、この概念は、もはや住民(当事者)が中心となって発案し、行政と協働しつつ地域住民が主体的にマネジメントしていく姿こそがこれからの地域経営の姿であろうと思える。これら一連のマネジメントプロセスこそが地域活性の実像となる。
 「地域活性の実像」といっても、活性化している姿そのものが目視出来たり数値的に潤いを示している結果を確認できるものは意外とまだ少ない。ほとんどのケースが、一部の住民によるスポット的な取り組みであったり、アイデア(知恵)をねじりあわせて継続性を持たせるための並々ならぬ努力を重ねているというのが実体であろう。しかし、理想とし、目標とする地域全体での活性の様相を生み出す原動力として、スポット的(一部の人々の取り組みによる部分的活動)であれアイデアのジグソーパズルであれ、他地域の成功事例のコピーであれ、面に拡がる前提にこのパワーが必要なのだ。

 私の持論として、地域経営のための政策の要諦として次の3つがある。
  1.地域独自性
  2.地域総合性
  3.地域主導性
 「地域独自性」ということは、自治の主体である地域単位の資源的特性、環境的特性は地域ごとに異なる訳だから、活性化方策も自ずと独自のものになるはずだ。これを忘れて他地域の成功事例をコピーしても、うまくいくことは少ない。

 「地域総合性」とは、一人の活動は自ずと限界があり、一定の効果を生もうとすれば組織化を図ることが必要ということを指す。一方、地域の個人・グループ・団体等が連携して方策を練り、協働することの必要性を意味する。

 「地域主導性」とは、地方が国を動かし、地域が行政を動かす原動力になるというエネルギーの重要性を意味する

ここまで述べてきて、私には正直ネガティブな気持ちがどうしても強くなってしまう。なぜだろう。やはり、現実の姿と望ましい姿との間にギャップが大きすぎるからではないか。
 現実の姿は、その一つに、地域というコミュニティ自体がすでに崩壊していると思えてならないからだ。決してこれは一部の地域の現象ではなく、現地へ立つと、どこにでもそういわざるを得ない事実が多く見受けられることに寒々しい思いを禁じ得ないのである。その二つに、地域の住民自身(マジョリテイ)が、「地域に活力を」という普遍的なスローガンに対しては、「そんなこと関係ねェ」「そんなしんどいことせんでええ」というところが本音なのではないかと感じられるのである。これは地域不活性の決定的姿なのだ。
 その三つに、過去私自身が県主催の「田舎暮らしのすすめ」フォーラムにI(あい)ターンの経験者としてパネリストとして参加した。その中で、実体験としてのアイターンのメリットとリスクを語ったが、リスクが4年経過した今日、どうしても変容しないことに失望感を否めない。このことがその三つ目につながるのである。結論をいうなら、「よそ者」を受け入れる姿勢と意思が全く感じられないことである。但馬の人はいう。「但馬人は、シャイで人見知りするでね」と。移住者の当事者としての私にいわせれば、そんなきれい事の弁解じみた人慣れしているかどうかの次元ではない。もっと本質的に、「よそ者は信用ならんし、危険だ」という心根にある。ここに地域が活性しようとしていない三つ目の現実がある。そのくせ観光客としてよそから人を引き入れ、金は落とさせようとする下心が私にはどうもなじめない。
 「よそ者」の提言や建設的意見にも、「そんなことはやったことがあらへん」とかいうのはよい方で、無反応、無視を決め込むことが通例である。こんな心で活性化と口だけで合唱している姿が、滑稽かつむなしくもなる。

 今まで述べたことのない本音の一端を控えめに表現したが、私は決してネガティブな思いに至っているのではない。但馬が大好きで但馬の先人に惚れて60過ぎて但馬に移住した。正確に述べるなら、但馬の地は好きだ、但馬の先人に尊敬する人がいたということなのだ。今、共に時代を生きる但馬人とは、生活や行動を通して相互に影響しあいながら相互理解を深めることが大切なのだろう。ポジティブに。
 地域活性のパワーは、住人一人一人の、「今日生きていて楽しい」「心から安心して話し合える隣人に囲まれている」・・・・といった実感が生み出すのだということをしみじみ実感している。
  

クラスター・シンドローム(乗合馬車症候群)

2007-09-19 13:50:34 | 随想
 大阪市交通局の職員が、通勤に自家用車で車庫まで乗り付けている、と朝の民放テレビの特集番組で報道されていた。インタビューに登場した市民は、「排気ガスが市内の環境を破壊することを考えていないんですかね」とか、「市は車通勤の自粛を呼びかけているくせに、職員がこうではねえ」とマイクに向かって語っていた。公務員は、立場的に非難されやすいものだが、それよりも、限られた交通局職員の車通勤を環境破壊に結びつけたご指摘には、いささか「?」の感が拭えない。

 最近は、「環境」「環境」と、何かにつけかまびすしい。たしかに、環境問題への関心の高まりと具体的な取り組みは、時代の要請とも言える。ただ、とってつけたような論理の飛躍や、少々感情的すぎると思えるような大合唱には、少々「辟易としてしまう」というのが正直な思いである。
 生活環境を守る、環境に優しくというテーマは、一人ひとりの行動がそのスタートである。人のことや周りのことは気になるが、それに比べて自らの日常には案外無神経ということはないだろうか。「環境」の大合唱団にさっと横並びし、周りの人に負けないよう、大声を発しているだけというのでは、あまりにむなしい。
 たとえば、生ゴミを出さないための堆肥化、燃えるゴミとリサイクルゴミ等の分別はしっかりしているだろうか。初期投資の回収は無理と承知でも、太陽光発電装置を自宅に装備しているだろうか。豊岡市の百合地周辺の「コウノトリ農法による米作り」は、農薬使用の田に比べ、平均25%から30%の減収となることを前提に取り組んでおられる。例を挙げればきりがないが、実践の伴う指摘や批判は説得力がある。

 「TVでいつも言っている」「みんなが言うから私も言う」といった態度を称して、私はクラスター・シンドロームと呼んでいる。日本語に当てはめれば、さしずめ「乗合馬車症候群」とでも言おうか。
 こういう主体性がなく、自分の考えに基づく判断の伴わない態度こそ、いま日本の多くの国民に見ることの出来る一般的傾向ではないかと思うことが多い。選挙の論点は、「年金問題だ」「政治資金の問題だ」とマスコミやジャーナリストに言われれば、これを是正することだけを声高に叫ぶ立候補者こそ善と信じる。こういう国民が多くなるほど、政治家は政治がやりやすくなる。
 
 過去の日本が、国会において一人、当時の日本の軍隊の横暴を危惧し、これを正した「斉藤隆夫」という国会議員を罷免し、第二次世界大戦に突入したのは、まさに軍部によって作られたクラスター・シンドローム現象に国民の選良が利用されたからではなかったか。
 
 いまは、イデオロギーや宗教等に偏することなく、さらに、大同に組みして疑うことを放棄することなく、地球規模で人類のとるべき判断と行動を失いたくないとしみじみ思う。
 
 

ことばの文化圏

2007-09-09 14:29:27 | 随想
 「気の置けない人」「上を下への大騒ぎ」「流れに棹さす」「役不足」などの言葉の意味や、つかいかたをとり違えている人々が多い・・・・と。どこがどのような方法で調べたのかは記憶していないが、新聞、テレビで報道されていた。このような日本語本来のつかいかたを間違えたり、意味のとり違いをしていることばは、日常意外と多く耳にすることがある。これら言葉の本来の意味やつかいかたを誤って使う人々が一般化すれば、やがてこれが標準となっていくかもしれない。この意味では、言葉は生き物であり、同時代にことばを用いる人々によって作られていき、あらがう(抗う)ことが難しい言語文化そのものと言えよう。

 言語文化といえば、同時代の同世代、同業者、同TV視聴者、仲間内などでは効率的なコミュニケーション言語としての短縮語・省略語がある。 
 「『のだめ』現象ということばの意味が全く分からなかった。短縮語というか省略語と言うべきか、ついていけないものがある」という主旨のことを、元宮城県知事、現慶応大学教授の浅野史郎氏が、ある月刊誌7月号の中の「新言語学序説」で紹介しておられた。・・・・かくいう私も「のだめ現象」なる言葉の意味が分からない。調べてみると、どうやら、テレビドラマの主人公「野田めぐみ」が楽器演奏で生きていこうとするような同じ生き方をしようとする一群の人々の傾向をさして、「現象」と言うことばを使って表現しているらしい。視聴したこともないテレビドラマの架空の主人公「野田めぐみ」が変じて、「のだめ」ではわからないのが当たり前。
 同じ省略形のことばで、古くは「モボ」「モガ」が思いつく。これを「モダンボーイ」「モダンガール」の省略語であるとご存じの方は一定の年齢以上の方だろう。今は、「イケメン(いけてる面)」「メアド(メールアドレス)」「ノーバソ(ノートパソコン)」「キモイ(気持ち悪い)」「アケオメ(明けましておめでとう)」「ホムペ(ホームページ)」などなど、省略形、短縮形のことばを挙げたら、無数にある。ここにあげた短縮語の中には、すでに世間一般で広く用いられている言葉もある。
 このような種類の言葉には、目くじら立てて、「日本語の危機だ」「なげかわしい」などとあまり感情的に捉えない方がよい。なぜなら、こういう種類の言葉は、前述のとおり、ある程度限られた仲間内で、大変便利で効率的に意味を伝える道具として用いられるからだ。中には言葉遊びの要素もある。したがって、多くの言葉が自然淘汰され、短命のうちに消滅してしまう性格をあわせもつ。
 
 言葉は、時代を象徴し、表現する文化でもある。突然の辞任で世間を混乱させた首相の掲げたスローガンが「美しい国、日本」であった。次期宰相は、ひょっとすると、「安心、安全、幸せ、希望」といった種類のフレーズのスローガンを掲げるのかもしれない。


 

コンプライアンスという見識

2007-06-26 14:36:25 | 随想
 松岡元農水相が国会で「法律に従ってやっているので何ら問題はない」と、事務所経費の会計処理に関する答弁をしていたのは記憶に新しい。
 おっしゃるとおり、法律に反していなければ非難されるものではないのだろうか。たとえば法令そのものが、ある一方(特定)の立場の人間に有利なものであったらどうだろう。たとえば、計上された裏付けとなる領収書は不要といった政務調査費等の使途について不適切なものが隠蔽できる不透明さが合法的であるように。大阪府ではこの件、領収書とひきかえに政務調査費を支払う形にするという論議もあるようだが、断言してもいい、つまるところはそのような議決を議会が採択することはなかろう。自らの首を絞めるような既得権や特権を失うことはしないのが日本の政治家だから。
 
 元国家公安庁長官であり広島高検の検事長をつとめた男が詐欺罪の容疑で逮捕された。なにをか言わんやである。マスコミのニュースでのまことに軽い取り上げ方も含めて今の日本は益々異常である。官僚の人事というのは、重大かつ許されざる事件を犯すその程度の人間が大変重要なポストに就いているという現在の横並び年功序列の無責任な体質がある。年功じゃなく正確には年数というべきだが、それはともかく、こういう官僚の制度は、課長級まではポスト対エリート官僚の数が整合しているので問題ない。ところがそれ以上の上位ポストは限られているので、あぶれた官僚は当然のこととして天下りによって立場と待遇を保証されて当然と公言してはばからない。このしくみこそが官製談合を生む必然の構造を作っていることは、併せて深刻な状況である。官僚にとっては抜け道だらけの国家公務員法の可決が選挙前の駆け込みでなされたからといって、この法案の草稿そのものが官僚自らの手によって作られ、それを政府与党が数の論理で強行採決している様を見ている国民は、安心し納得するほどおバカではない。はず・・・・。7月の参議院選挙の結果で国民はおバカか、そうでないかは判明する。
 この件で安倍総理は記者団に対して、涼やかな表情でこう発言していた。「審議を尽くし」「民主主義のルールに従って」国会で正式に可決された。と・・・・。
 「民主主義のルールに従って」という発言は、現在の採決方式は『多数決による』訳だから、そういう表現は間違いではない。しかし、「審議を尽くし」に至っては、あの委員会での議事運営は果たして審議を行っているものであったか。ましてや「やり尽くした」といえるものだったか。
 国民に向かって、政治とはこういうものだよ、政治家は「寄らば大樹の陰」なんだよ、といわんばかりの傲慢な姿勢を通して国民へ不信感や無力感を生んでいる。

 そもそも、コンプライアンスということばが「法令遵守」という部分に限ってのみ用いられることは、あまりに人間としての知性や見識に欠ける。いかに法令やルール、規則・規程にかなっていても、『人間社会に対して、不利益や迷惑となるような行為をしない』という意味こそが「コンプライアンス」なのである。
 こう考えると、「人間社会」という概念を「官僚社会」「政治家社会」「わが社」と置き換えられた各種法案や条例はたまた組織通達等そのものがコンプライアンスに抵触するという発想こそが良識と言うもの。
 ついでながら、このところの地裁・高裁・最高裁判決、さらには弁護団の弁護そのものに大きな違和感を覚えるケースが目立つと感じるのは私だけなのだろうか。 
 
 

「現場」の重みを知るリーダーシップ

2007-06-20 15:24:08 | 随想
 『知識は本の中にはない』
 『ナレッジマネジメントの本質は、一人ひとりが持っている情報をコンピューターに落とし込んで使うものではなく、情報には、意味が加わって初めて「知識」となり、役立つものである。知識というものは人間にくっついているものであり、その根本を間違うとデータばかりが増えて、何の役にも立たなくなる』
 『優れた軍隊の指揮者は、現場からのりポートに依存することなく、自分で現場に出かけて行き、自分の目で見る』
 『リーダーは、<自分は何をしたいか>との問いから物事を始めてはならない。<この場でいかなるニーズを満たすべきか><何に対して貢献することが要求されているのか><どこへ、どういう形で寄与したらよいのか>という問いからスタートせよ』
 これらは、5年前に95歳で他界された経営学者・未来学者・経済学者・哲学者であったピーター・ドラッカー博士が残された膨大な名言の中からほんの一部を拾い出したものである。もっとも、博士は尤もらしく金言や格言となることを予想して語られたものではなく、あまたの講演や著作の中で述べておられる言葉の一部であって、正確にはこのような言葉で語られた具体的な背景や意味の解説が必要なのだが、乱暴を承知で、あえて言葉のみを羅列してみた。
 
 博士を畏敬してやまない理由は幾つもあるが、中でも特に学者然とした生き方をとられなかったことである。常に実践に基づき理論や思想を創造し、提言を続けてこられたことである。だから実務的で、時に社会を大きく前進させる革新が含まれていた。私自身、60半ばに達したこれまでに、博士の思想・理念・理論や未来へ向けた提言の数々にどれだけ大きな示唆や指針をもらったかは計り知れない。

 未熟な私の20代半ば、某研究所の所員として研修や講演に明け暮れる日々から、ある会社のチェーン本部でチェーンシステムを構築する仕事に転身したのが第一のターニングポイント。40代初めにようやく本部機能と人材の基盤を作ることができたと判断し、我が身が惰性に陥るを怖れ組織を離れて、一匹狼で生きる道へ進路を取ったのが第二のターニングポイント。それからの50代までは仕事の実績と個人としての信用を築くため睡眠時間を削りながらの無我夢中の日々。子どももそれぞれ独り立ちし、夫婦が還暦を過ぎて二人(愛犬ラブも一緒に)して新しい挑戦をと、但馬に移住したのが第三のターニングポイント。
 三つのターニングポイントを越えたいずれのプロセスにおいても、冒頭にある言葉のごとくに、「現場と実践」を前提にしてきたという自負はある。会社組織でのそれは、全国くまなく最前線で働き業を営む顧客と社員との対話・傾聴という形を積み上げて構想し、しくみをを設計したことである。これはまた別の機会に詳述したい。単身独立してからのそれは、専業主婦だけに飽き足らない妻の社会的自立実現のための支援事業と、若い潜在力溢れる人々への自立支援事業を自己開発研究センターの実践現場として併設したことである。第三のターニングポイントとなる三年前からの挑戦こそ「現場と実践」の集大成として、妻との二人三脚で、コミュニティビジネスを核に置いた、いわゆる衰退構図がささやかれる「地方」の元気づくりに目下悪戦苦闘中なのである。今後折に触れ、この体験に基づくリアルタイムな人間のドキュメントを通したエッセンスの数々をライブでご紹介する心づもりでいる。

 ところで、冒頭のドラッカー博士のことばを現在の政治家、官僚、一流といわれる企業経営者、はたまた周辺のリーダー的立場の人間に当てはめて愚考を試みようとしたが、なんだかかけ離れすぎていてばからしくさえ思える。「幼児性ならぬ幼稚性」、「現実離れ以前の認識不足」などなどその本質が馬脚を現す。

 富山県警の氷見警察によるえん罪が今朝報道されていた。犯人として服役後に真犯人が自白してえん罪であったことが明らかになったというのである。警察の取り調べによる一方的な犯人づくりの一部始終が当事者から生々しく語られていた。もしこれが真実とすれば、警察による明らかな犯罪である。
 
 たしか刑事コロンボの毎回の犯人検挙は、すべて犯罪現場スタートであり、そこで拾い上げた現象、事象、現物を証拠として立証していくストーリー展開に視聴者は感動した。単に、テレビドラマの作り事と見ない方がよい。