新聞、テレビから提供される情報の内容と量は、受け手に対して絶対的な力を持っている。殆どの受け手は、無意識のうちに無批判に受け取り、喜怒哀楽に直接スイッチオンさせられたり、認識の組み立て直しをさせられている事を考えれば、報道の結果に対するいわゆるマスコミ当事者の倫理観が問われよう。最近殊に報道側の「真の意味のコンプライアンス」について考えさせられることが多い。「真の意味のコンプライアンス」とは、「法に抵触しているかどうか」というレベルのそれではなく、『社会の不利益や不安定に繋がることをしない』というコンプライアンスの真の意味から、マスコミ報道の内容と量、それに質に対して危機感を感じているのである。
コージブスキーの提唱した一般意味論{言葉と思考の科学}の一つに、「うなり言葉」「ごろごろ言葉」というのがある。これは、言葉の感化性についての特性を取り上げたものだ。この観点からとらえれば、意識せずか意図的かは知らないが、TVでは一日中「うなり続け」「ごろごろと叫び続け」ている。これに多くの国民が直接的に影響を受けないはずはない。
今週号の「週刊文春」をめくっていたら、小林信彦氏の連載第588回本音を申せばの中にたまたま共感する一文があった。次のように述べておられる。
『いちばん気になるのは検察による小沢一郎叩きである。いや、小沢・鳩山叩きである。二人の<政治と金の問題>を連日のように大マスコミにリークして、新聞に書かせ、テレビの愚にもつかないニュースショウに報道させる。ぼくは呆れて、<大新聞>は断ってしまい、テレビも観ないのだが、世の中には騙される人間もいるのだ。そういう人間はいまさら自公支持でもなく、ただ<鳩山内閣不支持>にまわる。すると、新聞・テレビは「ほら、こんなに支持率が下がりましたよ」と数字を示す。たしかに鳩山内閣には、無駄な動きが多い。沖縄の米軍基地問題は一点に絞ってから交渉すればいいだろう。官房長官が沖縄に行って走りまわる必要はない。しかし、自民党結成(1955年)からずっと沖縄を放っておいた自民党の責任はどうなるのか。オレたちの番は終わったから、鳩山内閣が早く片づけろというのは無茶である。』
知る人ぞ知る小林氏は評論やコラムにおいて客観的にニュートラルな、時に辛口の表現をしておられる。それだけに私の本音を代弁して頂いた思いである。
以下、ついでに思うこと。民放テレビは、最近とみにコマーシャルが多すぎる。コマーシャルの延べ時間は際限なく視聴者の立場無視といってもよい。ま、民放はコマーシャルなしでは成り立たないけど。しかし、ものには節度というものがある。民放の3文バラエティ目白押しのそれとコマーシャルで寸断される画面が嫌だから、民放にチャンネルを合わせる時間が段々なくなっていく。
コージブスキーの提唱した一般意味論{言葉と思考の科学}の一つに、「うなり言葉」「ごろごろ言葉」というのがある。これは、言葉の感化性についての特性を取り上げたものだ。この観点からとらえれば、意識せずか意図的かは知らないが、TVでは一日中「うなり続け」「ごろごろと叫び続け」ている。これに多くの国民が直接的に影響を受けないはずはない。
今週号の「週刊文春」をめくっていたら、小林信彦氏の連載第588回本音を申せばの中にたまたま共感する一文があった。次のように述べておられる。
『いちばん気になるのは検察による小沢一郎叩きである。いや、小沢・鳩山叩きである。二人の<政治と金の問題>を連日のように大マスコミにリークして、新聞に書かせ、テレビの愚にもつかないニュースショウに報道させる。ぼくは呆れて、<大新聞>は断ってしまい、テレビも観ないのだが、世の中には騙される人間もいるのだ。そういう人間はいまさら自公支持でもなく、ただ<鳩山内閣不支持>にまわる。すると、新聞・テレビは「ほら、こんなに支持率が下がりましたよ」と数字を示す。たしかに鳩山内閣には、無駄な動きが多い。沖縄の米軍基地問題は一点に絞ってから交渉すればいいだろう。官房長官が沖縄に行って走りまわる必要はない。しかし、自民党結成(1955年)からずっと沖縄を放っておいた自民党の責任はどうなるのか。オレたちの番は終わったから、鳩山内閣が早く片づけろというのは無茶である。』
知る人ぞ知る小林氏は評論やコラムにおいて客観的にニュートラルな、時に辛口の表現をしておられる。それだけに私の本音を代弁して頂いた思いである。
以下、ついでに思うこと。民放テレビは、最近とみにコマーシャルが多すぎる。コマーシャルの延べ時間は際限なく視聴者の立場無視といってもよい。ま、民放はコマーシャルなしでは成り立たないけど。しかし、ものには節度というものがある。民放の3文バラエティ目白押しのそれとコマーシャルで寸断される画面が嫌だから、民放にチャンネルを合わせる時間が段々なくなっていく。