成相博昭ブログ

これからを生きる素晴らしい明日へ・・・

「獣」・・・?犬のやさしさ

2010-02-15 19:18:38 | 愛犬のこと
近所のお年寄りは、犬のことを「獣(けだもの)」と呼ぶ。
確かに「けだもの」と呼ばれても仕方ないような、粗暴で攻撃的な犬も居るには居る。
しかし、人間と犬との生活の歴史は旧く、ずっと犬は人間の側に寄り添って助け合って生活をしてきたのである。
現代の身近な生活の場で、もし「けだもの」的な犬が居るなら、それは心ない人間がそのような環境で生きて行かざるを得ない仕打ちをした結果生み出したものに他ならない。

わが愛犬の何と穏やかで優しい表情・・・・・
私はこの2頭のラブに、獣と感じたことはない。
こいつらが私に教えてくれることは、「快」という感覚感情をいつも求めているということだ。たとえば、人間に語りかけるように話しかけると、言葉は分からないなりに耳を倒してビー玉みたいな瞳をまっすぐ向けて受け止めてくれる。時折しっぽの先を左右にさらさら動かしながら。
躾けるには、叱ったり大声で怒鳴ってはダメ。ほめながらニコニコと両腕でほほを挟んで「お利口だね」と本気で評価したら、しっかりと受け入れてくれる。「快」「快」気分を体感させる接し方の工夫さえすれば、下手な人間よりも賢いし、やさしい。
いっしょに遊んでいて、私がちょっとつまずいて倒れでも仕様ものなら、2頭の犬はすぐさま駆け寄ってほほやおでこをなめ回して心配する。

甘すぎるのかな~?
いえいえお互いに「快」を感じ合える共生がしたいだけだよね。



親ばかならぬ飼い主ばか

2008-02-05 19:04:49 | 愛犬のこと


愛犬の「ラッキー」と「そら」である。実子の長男と長女がそれぞれ結婚して家を出た後の、我が家庭におけるさしずめ長男と次男である。
ふたり(二人とは書かない)とも、イエローのラブラドール・レトリーバー犬で、右が6才のラッキー、左がそら。いずれも男の子。この写真は昨年8月にそらが新しく家族に加わった時のもの。
そう、生後2ヶ月のベイビーだ。この子は、ちょっと上目遣いにいたずらっぽく見つめてくる顔がかわいい。
ラッキーは、人間に当てはめるとおおよそ40才になりなんとする年齢。生後2ヶ月から家族として生活を共にしているので、いまや両親(我々夫婦)の表情や語感を読みとり、実に素直で賢い。殊に父親(私)の意を受け止める感受性の豊かさ鋭さは母親(妻)の及ぶところではない。しかも競争相手もないまますくすくと育っているので実におっとりとしている。そらがラッキーのおやつや食事を横から奪おうが、そっと顔をずらしてそらが食べやすくしてやるといった優しさは終始変わらない。
そらは、見るもの聞くもの嗅ぐもの、ことごとく初体験。好奇心と驚きの連続。この表現の一つ一つに、かえってこちらが新鮮な驚きの連続。中でも相性が合わない様子なのは掃除機の吸い口のシューという音。掃除機をかけ始めると、部屋の隅に縮こまって固まってしまう。いたずらでホレホレと怖がらせる衝動に駆られるが、トラウマになってしまうとかわいそうなので、ぐっとこらえて、それはしないことにしている。とにかく甘えん坊である。常に、ラッキーのおしりやおなかに体を寄せているか、私ども夫婦の体に寄りかかっているかのどちらかである。ラッキーのやることなすことを何でもまねている姿がかわいい。


 
今年の1月1日の写真。そらも7ヶ月目に入り、めっきり大きくなってきた。晦日から降り積もった雪もお正月も、もちろん生まれて初めての経験。盛んに降りしきる雪を見て、玄関先でグフッ、グフッと雪に吠えかかっていたのが、なんともおかしい。
べつに晴れ着でめかしているわけでもないのに、お正月らしくかなりかしこまって収まっているラッキーとそら。
30キロはゆうに超える大型の犬を、しかも2頭も室内で飼っているとは、犬嫌いの人や犬は外で飼うものと信じて疑わない人には、きっと信じられないというか耐えられないことかもしれない。要は、しつけと手入れで人畜共同生活レベルは変わる。暖房が切れた後の夜中に、ぽかぽかとした暖かさにふと目が覚めると、そらが私の右腕を枕に頭を並べてすやすやと寝息を立てている日常に安らぎを感じているのは、やはり飼い主ばかに他ならない。



1月末のそら。放っておいたら、20分でも30分でも飽きずに雪景色を眺めている。
雪の中での追い駆けっこでは、直線走行ではまだラッキーに負けるものの、木の枝の取り合いっこの走行では、俊敏さにおいてラッキーを凌ぐ。
犬を遊ばせているつもりが、気がつくと、いつのまにか犬に遊んでもらっている自分に苦笑してしまう。決して暇をもてあましているわけでもなく、夫婦倦怠期の代謝行為でもなく、犬と共に生きている時間を共有するそんな貴重なひとときが楽しいのだ。まさに一期一会。何しろワン子の平均寿命は長くても十数年なのだから。




癒されること

2007-09-02 12:18:42 | 愛犬のこと
 拙宅では、玄関にモニター付きのインターフォンを設置している。ところが、当地では、ほとんどの訪問者がインターフォンのボタンを押すことなく、いきなり引き戸を開けて一歩入り、中に声をかける。これが田舎流の訪問スタイルなのだ。
 さあ、これで大騒ぎになる。家の奥から写真の二匹(頭)のラブ犬が吠えたてながら玄関に突進するからである。2頭の忠犬にしてみれば、「すわ、不審なる侵入者!」とばかりに威嚇するからである。たいていの訪問者は驚愕し、あわてて外に飛び出し、ドン、とばかりに引き戸を閉める。

 家の中で犬を飼うケースは増えてきた。しかし、そのほとんどは小型犬のようである。以前住んでいた奈良の家では、85キロもの体重で貫禄のセントバーナード犬を家の中で飼っていた。それもあって、体重38キロと生後3ヶ月の大型犬ラブラドール・レトリーバーが、家の中で夫婦と共同生活することには何の違和感もない。というより、家族の一員そのものなのである。
 犬嫌いの人、犬好きでも「犬はあくまで犬だから、外で飼うもの」と考えておられる人たちには理解してもらえない生活スタイルだろうとは思う。このことから、自宅に遊びにおいでになったり、泊まりにおいでになったりされる人々は、犬が大好きまたは抵抗感をもたれない人々に自然淘汰されてしまう。来客は、初めにパン工房のくつろぎコーナーでまずお会いし、「犬はお好きですか」と確かめて「OK」となってはじめて自宅の和室の応接間に招じ入れることになる。

 そもそも、私自身が犬を飼い始めたのは社会人になってからだから歴史は長い。もとはといえば、忘れもしない小学校4年生のとき、路傍でふるえていた茶色の子犬を拾って帰ったことに犬への思い入れの歴史は始まる。当時、父亡き後3人の男兄弟を育てるのに母は必死であった。当然、犬を飼う余裕はなかった。泣く泣く犬を元の場所に置いて帰った時の私の心のキズは今でもうずく。そんなことから自分で飼えるようになったら・・・という思いから、すぐ、真っ白な日本スピッツを飼い始め、名を「ノンちゃん」とした。この犬は大阪に移り住むときも一緒だった。その後、結婚した新婚早々に、阪急百貨店の屋上にあったペットショップで「目と目が合った」三河犬(柴)を早速購入して、だっこして帰った。幸い妻も犬大好きで、これ以来、犬は我が家の相棒となっているのである。三河犬の「ゴロ」、ミニコリーの「アミー」、近所で飼い主に持て余されていた大型コリーのたまたま同名の「アミー」を引き取り、このアミーの子「グレース」と、飼い犬の歴史が続いた。グレースまでは外で飼っていた。ところが、ある雷雨の日の朝、テラスでショック状態で倒れていたグレースはそのまま他界した。このこともあり、セントバーナードの「アレックス」からは、天候を見て、雨の日や暑い日は家の中で飼うようになった。そのあとが、今のラブラドール犬「ラッキー」である。こいつは初めから家の中で飼うようになり、入居して1ヶ月になる生後3ヶ月のラブラドール犬「そら」との生活となっている。

 大型犬は力が強い。当然、散歩や、ふれあったり遭遇したときの他の犬への態度、日常の「お座り」「待て」等の基本的なしつけなどはしっかりしなければならない。
 日常、人間と同じように話しかけ、生活を共にしていると、犬はほとんどこちらの意をくみ取って行動できるようになる。この学習能力は、「妻」以上のものがある。すなおで、疑わないのである。当然当方も、うそをついたりごまかしたり出来にくくなり、誠実に接するようにさせられる。知らずのうちに犬に啓発されている気になる。何といっても、帰宅したとき、それも4~5日ぶりに帰ったときの犬のよろこびようは、これまた「妻」の比ではない。つくづく無事帰れてよかった、お互い元気でよかったと、一期一会の思いを共有できるのである。
 妻は妻で、一日の疲れで食後横になっている姿は、ラッキーをだっこしているのではなく、ラッキーにだっこされて、すっかり癒されている。