前の記事で、手塚治虫文化賞10周年記念イベント「マンガ未来世紀」に行って来たことを書いたら、思わぬ方のブログにリンクが張られててびっくり仰天。なんと夏目房之介さんのブログにリンクが張られてた。
うぁぁぁぁぁ、本人に読まれたー。こんなつたない文章が。しかも一部引用されてる(/_;)まだ、2つしか記事書いてないのに、アクセス数が伸びてて、おかしいと思ったんだ。なんか、イベント当日のことを書き留めたくておきたくて、開設したブログだから、うれしいといえばうれしいんですが。不特定多数の人に読まれるというのは、思った以上に恥ずかしいことかもしれない。
ただ単なるマンガ好きの私みたいな一般人は、普段はマンガ雑誌や単行本などの上で接する漫画家しか知らない。マンガを通しての漫画家しか感じることは出来ない。西原理恵子さんのように、私生活を題材にしている方もいて、まるで近所に住んでいるような「身近な存在」として錯覚を起こすようなこともあるが、それでも漫画家という「創造者」は私にとっては「雲の上の人」の存在。
私は、こういうイベントに参加するのは初めてで、生身の漫画家というのをはじめて見た。本当に実在する人なんだ、あの右手で原稿書いてるんだ、とか小学生が憧れのプロ野球選手を見るような感じで見ていた。イベントに参加する前は、本人から直接お話を聞けることがうれしかったが、会場にいる時は絵をその場で即興で描いていることに感動していた。あの場で、浦沢さん、萩尾さん、西原さん、しりあがりさんが書かれていた創造された絵を見ることができて、感激も一入だった。紙に生命が吹き込まれる瞬間というか、そういった生々しい感じを見ることができたからだと思う。
実際の本人を目の前にして、絵を見ることができるのは、もうないかもしれない。それでも「雲の上の人」が地上に降りてきて、あの場だけでも「身近な存在」としてその作品を見ることが出来たというのは本当に感動した。それを大多数の人と共有できたことは、とっても良い思い出として残る。
数日たって今更思い出した話も、書き留めておこう思う。
荒俣宏さんの「何度読んでも『NANA』がわからない」という話。売れてるかし、大多数の女の子に支持されているから、そこには何かあるだろうと思って何回も読んでいるが、良くわからないとの話で。「この登場人物たちは老人になったらどうするんだろう」という発言(笑)私も周りの友達に進められるがままに読んだけど、あの作品はイマイチ乗れないので、面白い話だった。私が乗れない理由はよくわからないけど、読んでいて登場人物に腹が立つからでしょうか。先の話が全然気にならないからでしょうか。
西原理恵子さんの「サブカルの壷」発言も面白かった。確か『ユリイカ』の西原理恵子特集のとき対談相手のみうらじゅんさんに同じようなことを言ってた気がする。西原理恵子、しりあがり寿、みうらじゅん、リリー・フランキーという「サブカルの壷」で一括りにされて、そこで仕事を仲良く分け合っていたのに、リリーさんが『東京タワー』でサブカルの壷を1人抜け出したことに文句(?)を言っていた。リリーさんと対談したときには愚痴ったら、話を「うんうん」ときいてくれて慰められたとのこと。その時のリリーさんの姿が思い浮かぶ。でも西原さんも、マンガ以外にNHKの番組に出たり、朝ドラ「ファイト」の挿絵を書いたり、活動範囲が広げていると思う。(テレビに出ていると、私はなぜか発言にハラハラしちゃう。)みうらじゅんさんも流行語大賞とったりテレビでたり、しりあがり寿さんもマンガが映画化されたり。物凄くおもしろい「サブカルの壷」だからそんなにリリーさんをひがまないでも。西原さん本人は、自分のマンガはマンガの本流として外れているという認識からの発言なのかな。
最後に萩尾望都さんの話。「なぜ人は物語を求めるのか。」萩尾さんからこの発言を聞けて感動した。それは読み手として求める立場から言えば、「貴方の作る物語が面白いからですよ」とつっこみたくもなったけど。
確かに、伝承されず消えてなくなった作品もあっただろうが、日本では「竹取物語」以降、あらゆる物語が作られ、残されてきた。それは、物語を創作して送信する立場と、物語を欲し求める受信する立場両方に言えることだと思う。なぜ頭の中の想像を他人に見せたいのだろう。なぜ他人の頭の中の想像を見たいのだろうか。それは見たいと欲する立場がいるから、という答えではないし、物語が絶えず生み出されているからという答えでもない気がする。送信する立場と受信する立場、どちらの欲が強いか弱いかの話でもないと思う。思わず「鶏と卵」の話になってしまった。
でも本当になんででしょうかね。
日曜日は色々な話が聞けたし、本当に行ってよかったと思う。
あぁ、楽しかった。