聞けば響く話のフォーラム

リンガマ+と合わせて記事を書いています。

心臓のこと肺のことを忘れて生きている

2005-03-30 20:29:47 | 五感
いきなりチョークは投げるは、ビンタはかますは、おまけに足蹴りはあるは、怒らせたら夏の暑さも冬の寒さも吹き飛んでしまうようなカマキリ先生に、小学校の頃、3年間たて続けにお世話になった。その先生がつい最近も手紙をくれた。時おり、タイミングを見計らっていたかのように、こちらがついたるんでいたりすると、太字の万年筆で書いた骨太の文章で喝を入れてくるのである。

カマキリと自称するだけあって、目がそれだけで独立しているかのようである。あの目なら、こちらがどこにいようと、その動きを察することができるのであろう。ただし、なかなかの男前ではある。物理的年齢からいえばもう初老の域も脱しているが、たぶん今もダンディであろう。

文面には落語のような洒脱さがみなぎり、しかもそんじょそこらの知識人を寄せ付けないこわさがある。言ったことを自ら行動で示すからだと思う。読んだほうは、微笑みながらも、どうやら先生はまた動くらしいという心持になる。懐に爆弾を抱えているような文章だ。

カマキリは、ある日突然、大衆食堂をやると言い出し、うそかと思っていたらとうとう新宿の若松町に「山のべ」という飯屋を開いてしまった。呼ばれて、二回ばかり訪ねたことがある。やはり、味のほうはとても褒められたものではなかった。それでも、「ポロポロ」の田中小実昌がよく酒を飲みにきたらしい。近くに住んでいたのでしょう。それに、先生も大の飲兵衛だったから。

手紙と一緒に、とっておきのオリジナル季刊ニュースレターが入っていた。早速読んでみて、終わりのところでガツーンと脳髄に来た。こう書いてあったのである。

「この文を書いている間、心臓のこと、肺のことを忘れていました。処が、拍動も呼吸も止まりませんでした。まさに、護られて、生かされている訳です」

たしかムカデは、どうやって足を踏み出そうかと考え始めると拉致があかない、と何かに書いてあった。僕らもそうだ。

ほんとだ、ちゃんと生きているではないか。ふとそう思ったのは、コンパで無理やり酔わされて、四谷の土手から転げ落ちたことに翌日気づいて以来数十年ぶりのことである。

さて宇宙のどこかに向けて感謝したいと思うが、気持ちが通じるだろうか。

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夏目漱石の英語マスター法

2005-03-25 18:26:51 | 英語・日本語
村上春樹の『村上ラヂオ』という本を読んだ。不細工な書棚におさめてあったのだが、家人が何を思ったか引っ張り出してきて、嬉しそうに読んでいた。そこで思わず途中拝借することにしたのである。

人を食ったような風情があり、気負いなく読み通せる文章が心地良い。ふつうの日本語の骨格にはない雰囲気も全体に漂っている。仕事で頭が煮詰まっているときにこういう文章を読むと、体内バッテリーがじわじわと泡を立てて充電されていくような気分になる。

さてその中の「教えられない」というエッセイに、『英語教師 夏目漱石』(川島幸希著 新潮選書)が登場する。村上春樹がこの本から引き出しているエピソードもさることながら、最近ますます英語脳が切実になっている自分にとっては、「英語教師」という言葉が妙に心に響き、とうとうこれも家人に頼んで図書館から借りてきてもらった。

ううむ、やはりそうだったか。一世を風靡したあの漱石でさえもやっていた。そう、多読である。

英語を修むる青年は或る程度まで修めたら辞書を引かないで無茶苦茶に英書を沢山と読むがよい、少し解らない節があって其処は飛ばして読んで往ってもドシドシと読書して往くと終には解るようになる(『英語教師 夏目漱石』川島幸希著 新潮選書)。

漱石の「現代読書法」にはそう書いてあるのだそうだ。

「或る程度まで修めたら」も肝心だと思うが、その後は勇気を出して一気呵成にいくべきである。頭に残らないものは残るまで繰り返し読めばいい。いっぱい読めばいやでも焼きつく。まずは、大量のインプットありきだ。怒涛のごとくいこう。

と偉そうなことを言ってしまった自分だが、仕事となると実際まめに辞書を引く。直木賞の常盤新平さんなどもそうらしい。ただし、いったん辞書に頼り始めると、左脳が優勢になるらしく、もはや文章の流れを楽しむどころではなくなる。だから、仕事で接した文章は内在化しない。残念である。皆さんもそうだろうか。

それにしてもである。ほぼ100年も前から、漱石が多読の重要性を訴えていたとは。(ひょっとすると、最近の多読コースの多くも、そこからヒントを得たのかな)

来週は、できたら仕事をうんとさぼって、漱石のように滅茶苦茶多読にいそしみたいものだ。そのときは、もちろん辞書は使わない。
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なぜかしぶしぶと頭を下げ続けるお偉いさん

2005-03-19 10:24:20 | 社会問題
どこかの有名企業の社長とか首脳陣が、テレビを通じて不特定多数の人に向って頭を下げる。そんなシーンが毎日のように繰り広げられている。トップになったら一度は通過しなければならない儀式のようにも思えてくるほどである。子供に「社長って何やる人」と聞いてみよう。「みんなの前で変な顔してペコペコする人」という答えが返ってきてもおかしくない。

本気であやまっているかどうかは、ボディランゲージを観察すればわかるのだそうだ。この分野の本家であるデズモンドモリスもたしかそう言っていた。ドン小西流にとらえれば、服装もその一部なのかもしれない。

たしかに、体は本性を物語るような気がする。ただし、本気だから深々と頭を下げているようにも思えないし、涙を流しているから信じるというわけにもいかない。お偉いさんは演技のことをふだんから必須課題にしているふしがある。だから歌舞伎にも行きたがる。

やはり、最後まで人を騙せないのは、目であろう。目そのものだけでなく、その周囲のパーツの動きは、心につながっている。自分以外の人や物を見極めるための道具なのだから、それは当然のことなのだろう。

目といえば、気になるのはブッシュである。嘘ばかりついてきた証として、ますます目がおぼつかない。ショーケンも気の毒だった。もちろんお偉いさんの部類ではないが、謝罪しながらも目がどこかに飛んでいたように思える。

これからも、不徳のいたすところ、と言い続けなければならないような大会社の首脳陣は、もっと眼力を鍛えなければならない。そしてもう一つ。謝罪のときの原稿は、秘書とか弁護士に頼むのではなく、自分で書いてほしい。何でも米国流であってはならないのである。
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本のにおいに誘われて

2005-03-13 21:37:32 | 五感
書店に入って、いったんこれはと思った本でも、においがしっくりこないと書棚に戻してしまうことが多い。かと思うと、内容もろくに確かめずに、ぴんときたにおいに誘われて、そのままレジにまっしぐらなどということもある。

そうやって鼻を一番の頼りに本を求めるようになったのはいつ頃からか。どうやらそれは小学生になってからのことらしい。

思えば新学期の教科書がとても嬉しかった。勉強意欲がわくからではない。においがたまらなく好きだったのである。最初はうっとりとして、ただ開いているだけという毎日が多かったかもしれない。そういえばすこし話が飛ぶが、中学の頃にすばらしい教師がいた。何と、新学期の最初の授業のときに「はい教科書を開いてにおいをかげええ」と教えてくれたのである。

いろいろ自分なりに分析してみると、上質の紙に使われているインクは苦手のようだ。要は貧乏性なのだろう。たとえば、百科事典の類はもともとあまり買わないから影響ないが、最も相性が悪い。つい実験室のホルマリンとかを連想してしまう。高価な写真集も同じである。書棚におさまっているのは、もらったものばかりだ。

アメリカの新刊ハードカバーもいけない。何とかならないだろうか。もっともこれは国民性の問題なのかもしれない。だから、あまり文句を言うわけにもいかないか。

ペーパーバックなら気にならないのはどうしてなのだろう。これはたぶん、ざら紙の威力が手伝っていると思う。インクも悪くない。すでに3ねんほどたっている一冊を取り出してかいでみた。大丈夫である。

中身をきちんと読まずに、こんなことばかりやっていては埒が明かないが、本はやはり、かいで触って納得のいくものを手に入れたい。これからも鼻だけは鍛えていくつもりである。

今日のことば

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まかないめし

2005-03-10 01:08:15 | 経験と言葉
子供の頃、親と一緒に商店街にある小さな食堂とかラーメン屋に入って昼ごはんを食べたりしていると、店で働いている人がいつの間にか片隅にちょこんと座ったかと思うと何か見たことのないおかずを店主に出してもらっているところをよく見かけた。それが実にうまそうで、子供心に毎日あんなもの食べられたらいいなあなどと思ったものだ。

店の主人などが従業員に出すそういう食事のことを「まかないめし」というのだそうである。私は糸井重里さんの「ほぼ日刊イトイ新聞の本」を読んでいてはじめてその呼び方を知った。糸井さんは、本の中でこう言っている。

「まかないめしの中には、自分のほんとにやりたいことや、実力というものが秘められているのだと思っている」

案外あの一連の名コピーの秘訣もそんなところにあったのかなあと思う。おかずではなく言葉の組み合わせに妙があったというところだろうか。

そういえば、「何も足さない 何もひかない」というコピーに強く心を引かれる。まさにそれこそが「まかないめし」なのかもしれない。

子供の頃の強い思いは、知らないうちに自分の核になっているようで不思議である。
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どこにでもいる堤義明のミニ版

2005-03-06 13:22:38 | 社会問題
コクド名義の株売却分、偽装株書き換え充当 西武鉄道株 (朝日新聞) - goo ニュース

収監された堤義明氏のことは、人事とは思えない。スケールこそ小さいが、半径5キロ圏内を眺めただけでも、偽の帝王学の衣を着た経営者がごまんといることに気づく。

ただ残念ながら、親が授けている帝王学が本物かどうかは、すぐにはわからない。犠牲者が出てはじめて偽物であったと明らかになることが多いようだ。しかも犠牲者は、亡くなった方々ばかりとは限らない。おざなりの経営知識を振りかざす「独裁者」にひれ伏すことを強いられ、たった一度の人生を台無しにしかねない人は、友人の中にもたくさんいる。

独裁者の温床となる同族経営では、身内に甘く他人に対して冷血であることが徹底的に求められる。たまに優しさが垣間見られることもあるが、それはあくまで一時のものであり、肝心なときには平気でこちらに牙をむく。まさに自己保身しか眼中にないのである。

同族経営はこれからもなくならないだろう。なぜなら、誰にでもその芽は潜んでいるからである。ではいったい、どうすればよいか。その答えは、ノブリスオブリージュだと思う。いざというときに他人のために先陣を切る覚悟があるかどうかだ。

戦国時代から数百年を経て、いつの間にか大将はでんと後ろに構えるだけになった。まさに体たらくである。
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2位といえども「ハウルの動く城」はクエスチョンマーク

2005-03-04 01:28:21 | 創作
「ハウル」が「もののけ」抜いて邦画歴代2位に (夕刊フジ) - goo ニュース

「ハウルの動く城」が観客動員数で日本の映画史上第2位になった。これでベスト3を宮崎作品が独占したことになるらしい。

手放しで、快挙と叫びたいところだが、やっぱりなという気持ちのほうが強い。あの世界的大新聞の影が見え隠れしているせいもあるかもしれない。メディアによる情報操作には辟易としているのである。

この作品は、実際に映画館に足を運んで見ている。そのときも音楽以外は感動のひとかけらさえ覚えなかった。途中で帰ろうかと思ったくらいである。家人と息子が横にいたので何とかその場を繕ったというのが正直なところだ。

アンケートでは「分かりにくかった」と答えた人が少なからずいたらしい。一番ひっかかったのは荒地の魔女の描き方である。たぶん作り手の側もそれを感じているにちがいない。ファンタジーの世界とはいえ、魔女をあんなに簡単に大人しいばあさんに堕落させてしまうのは考えものである。魔女はどじであっても魔女であってほしい。

最近の宮崎駿はおそらくもう作品作りに面白みを感じていない。5年ほど前に、現場では周囲が恐れおののく暴君だとジブリの関係者から聞いたことがある。それだけの凄みを維持しきれなくなったのではないだろうか。

物づくりには一種の狂気が必要だと思う。大人しくなったときはそれが潮時である。
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どちらが事実でどちらが意見か

2005-03-01 21:37:10 | 社会問題
山本夏彦の「完本 文語本」を読んでいて、はっとさせられた。こう書いてある。

ジョージ・ワシントンは米国の最も偉大な大統領であった。
ジョージ・ワシントンは米国の初代の大統領であった。
という二つを並べ、どちらが事実の記述か、手をかえしなをかえ問うそうである。

山本氏によると、アメリカの小学校ではこのように上の質問を投げかけて、事実と意見のちがいを厳しく教えているのだそうだ。日本ではどうだろうか。断定してはならない微妙な面を国自体がいろいろ抱えていて、事実と意見のちがいに気づかれるとむしろ国が困るのではないだろうか。もっとも、最近のアメリカにしてもしかりだと思うが。

毎日の事象にこの「二択問題」を当てはめてみると面白いかもしれない。

日本は実はいまだに豊かである。
日本は外貨だけはたくさん抱えている。

これは、どちらも事実でない可能性があるような気がする。だとすれば、これは誰の意見だろうか。
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