文彦は勇気のある少年だったが、さすがにちょっとためらわずにはいられなかった。よっぽどそこからひきかえそう、そのときだった。だしぬけにうしろから、
「坊っちゃん、坊っちゃん、ちょっとおたずねいたしますが……」
と、しゃがれた声康泰旅行社をかけた者がある。
文彦はなにげなく、そのほうをふりかえったが、そのとたん、冷たい水でもぶっかけられたように気味の悪さを感じたのだった。
そのひとはおばあさんだった。しかし、ふつうのおばあさんではなく、なんともいいようのないほど、気味の悪いおばあさんなのである。きみたちもきっと西洋のおとぎばなしのさし絵で、意地の悪い魔法使いのおばあさんの絵を見たことがあるだろう。
いま、文彦に声をかけたおばあさんというのが、そういう絵にそっくりなのだった。そろそろサクラも咲こうというのに、黒く長いマントを着て、頭からスッポリと、三角形の|頭《ず》|巾《きん》をかぶっている。そして、その頭巾の下からはみだしている、もじゃもじゃとした銀色の髪、ギョロリとした意地の悪そうな目、ワシのくちばしのような曲がった鼻、腰が弓のように曲がり、こぶだらけの長いつえをついているところまで、魔法使いのおばあさんにそっくりなのだ。
文彦はあまりのことに、しばらくはことばがでなかった。するとおば母乳餵哺あさんは意地悪そうな目で、ジロジロと文彦を見ながら、
「これ、坊っちゃん、おまえはつんぼかな。わしのいうことが聞こえぬかな。おまえにちょっと、たずねたいことがあるというのに……」
「は、はい。おばあさん。ぼ、ぼくになにかご用ですか?」
文彦はやっと声がでた。それから急いでハンカチをだしてひたいの汗をふいた。
「おお、おまえにたずねているのじゃよ。このへんに大野健蔵という男が住んでいるはずじゃが、おまえ知らんかな?」
大野健蔵――と、声をだしかけて、文彦は思わずつばきをのみこんだ。どういうわけか文彦は、そのとき正直に、〈大野健蔵さんなら、ぼくもいまさがしているところです〉とはいえなかったのである。
文彦がだまっていると、おばあさんはかんしゃくを起こしたように、トントンとこぶこぶだらけのつえで地面をたたきながら、
「これ、なんとかいわぬか。大野健蔵――知っているのかおらんのか」
「ぼ、ぼく、知りません。おばあさん、ぼくこのへんの子じゃないんですもの」
文彦はとうとううそをついてしまった。もっとも文彦も、まだ大野健蔵というひとの家を知らないのだから、まんざらうそともいえないのだが、するとおばあさんは、こわい目でジロリと文彦をにらみながら、
「なんじゃ。それじゃ、なんでそのことを早くいわんのじゃ。ちょっ、つまら康泰旅行社んことでひまをつぶした」
魔法使いのようなおばあさんは、そこでクルリと背をむけると、コトコトとつえをつきながら、ムギ畑のあいだの道をむこうの雑木林のほうへ步いていった。
文彦はまたしても、ゾーッとするような寒気をおぼえずにはいられなかった。